〇聖書個所 ヨハネによる福音書 14章1~3節

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 

〇宣教「われらの国籍は天に在り」

本日は約二年ぶりとなる永眠者記念礼拝です。先ほど永眠された方々の名前を約100名、読み上げさせていただきました。皆さまの中には、今懐かしいお名前を聞いて、その人との交わりを思い起こされた方々もおられると思います。長年この教会のメンバーである方々とお話をすると、「もう仲良くしていた仲間がたくさんあっちに行ってしまって寂しくなった」と言われることがあります。懐かしむ思いと同時に寂しい思いが交差するのはわかります。しかし今日この宣教の中でお話ししたいことは、実は永眠された方々も私たちも、同じ神の御手の内にあるということです。それが今日の聖書個所からわかります。

イエス・キリストはこう言います。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

これは、イエス・キリストが十字架に架けられる前日、弟子たちに語られた言葉です。弟子たちはイエスさまの旅に付き従い、エルサレムに入ってきたその週、過越祭の前日に食卓を囲んでいました。いわゆる最後の晩餐と言われる場面です。

その中でイエスさまは唐突に、弟子たちに言われました。「わたしの行くところに、あなたたちは来ることができない。」これはヨハネ13:33の言葉です。この言葉によって弟子たちには不安が走ったと思います。ここまで一緒に来たのに、イエスさまの行くところにわたしたちが一緒に行けないっていうのはどういうことなのでしょうか。私たちは「別れ」という出来事に対して、不安を覚えます。不吉を感じます。突然の別れについては当然のことですが、イエスさまのように事前の予告があったとしても不安を思わせるものが別れというものです。別れを予期しているイエスさまにしてみればこれまでの歩みの中で、着々と準備を積み重ねてきたと思います。特にヨハネ福音書では「洗足」を通して弟子たちに仕え合う姿勢を示したり、互いに愛し合いなさいと教えたりしておられます。しかし、別れを告げられる人々はやはり言葉ではなく、その存在そのものがなくなることに不安を覚えるのでしょう。それは別れによって私たちの関係性が失われてしまうということを恐れるからかもしれません。

なので、ペトロは言います。「主よ、どこへ行かれるのですか。」この言葉には、「どこに」というより「私たちを置いて行かれるのですか?」という関係性における不安が見えるように思えます。しかし、その返答の中で、イエスさまは今日の御言葉を語られたのです。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。」この言葉には、「わたしは別れていくけれども、それで関係性が失われるわけではない。だからあなたたちは安心していなさい」という印象が伺えます。「別れていくこと」が「あなたたちのために場所を用意しに行く」と言い換えられるなんて、とても優しい言葉に聞こえます。そして、その場所を用意したら、戻って来て私たちを迎えてくださると言うのです。

ちなみにこの「場所」という言葉はトポスという言葉で、「居場所」とも訳すことができます。実はこの言葉は、クリスマス物語の中で、ベツレヘムに向かうマリアとヨセフが宿屋に泊まろうとしたのに、「宿屋に彼らの泊まる場所がなった」とあるその言葉と同じです。宿屋は満室だったかもしれないけれど、他に休む場所はあったかもしれません。しかしその時、彼らにはそこにいる余地はなかった、居場所はなかったということで使われます。しかし、イエスさまは同じこの言葉を用いて、彼らの居場所を用意する、あなたがたがいてよい場所を用意すると言っておられるのです。

この言葉が嬉しい理由は、私たちがイエスさまの招きに従って天国に入れるということそのものではなく、むしろイエスさまは私たちのことを見放すことはないということです。よく、「死」というものが「罪」とか「滅び」とか「裁き」という関係性の断絶のように語られますが、イエスさまはそうではなく私たちが生きているときだけでなく、死してもなお生きる者としてくださると言っているのです。

イエスさまは「インマヌエルなる神」、われらと共におられる神、と言われますが、それは生きているときだけでなく、死んだときも共におられるということです。何故ならばイエスさまは、命の終わりまで共にいるではなく、世の終わりまで私たちと共にいると宣言してくださっているからです。ですから、私たちはひとりぼっちにさせられることはないのです。

でももちろん、私たちは「死」という「別れの出来事」に対して心を騒がせます。弟子たちもそうだったでしょう。いくら「心を騒がせるな」と言われたって、イエスさまという存在が目の前から見えなくなってしまうわけですから心が騒ぐのは当然です。でも、イエスさまはそんな私たちに、そうならないように、「イエスさまは神を信じなさい。そして私をも信じなさい」と言われるのです。英語では神を信じることをbelieve in Godと言います。これは神の内に自らを置くという意味を感じます。ギリシャ語でもまたeisというintoと訳される言葉が使われます。つまり、信じるとは、私たちが心を騒がせないではいられない者ですが、その者たちが神の外側にいるのではなく、内側に入っていくということです。私たちは日本語で信じるというと、自分という主体が神という対象を信じるというような距離感が感じられますが、信じると言うのは神の言葉の内に自らを置くということなのです。だからこの言葉は、「あなたがたの心を神に向け、神の心の内側に安息しなさい。そして私を信じなさい。だからあなたがたは心を騒がせる必要はない。怖がる必要はない。わたしが共にいるのだから」と言っているように思えるのです。

私はいつも葬儀や納骨をする際、私たちの肉体は消え失せますが、その霊は神の御許に行くというような言い方をします。しかし残念ながら、私たちは永眠された方々が神の御国にいるということは客観的に知ることはできません。そういう意味では私たちには常に不安が残ります。でも、私たちがそれを信じることができるのは、そのように私たちを招いてくださっているイエスさまの言葉の中に私たちを置いておくときに、私たちはその出来事に預かっていくことができるようになるのです。

今日の宣教題は「われらの国籍は天に在り」とさせていただきました。この言葉は口語訳聖書ピリピ人への手紙3:20にある言葉で、今日選んだヨハネの福音書に出てくる言葉ではありません。しかしこの聖書個所が言いたいことは、やはり「われらの国籍は天に在り」ということだと思うのです。

イエスさまがなんで私たちを招いてくださったのか。それは私たちの命はすべて神にあって良しとして造られたいのちであるからです。そして、そのいのちの始まりの時から終わりの時まで、或いはその後に至るまで、私たちは共に神の御手の内にあるのだということを示すためです。それは私たちが神の愛の内に、生きる者であるからなのです。実はここで国籍と訳されている言葉、新共同訳では「本国」と訳されていますが、元々は市民権のことです。つまり私たちは神の愛の内に居場所を持つ市民として生かされている存在であるということなのです。

イエス・キリストが私たちのところにやってきてくださったこと、その関係性で始まったのが「神の国」であるとするならば、その関係性は死をもって終わることなく、私たちを変わることのない愛で、今もなお世の終わりまで包んでくださるのではないでしょうか。

ですから、私たちがこのように永眠者記念礼拝を毎年守り、そのときに覚えたいことは、故人を偲ぶということではなく、永眠された方々が神の御国において今共に生かされていることに希望と励ましを頂くためであるのです。

イエスさまはマルコ12章で復活についてこう言っています。そこでは、神が「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と発言していることを引用し、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と言われました。それは、主なる神はアブラハムやイサク、ヤコブの神だけではなく、私たちの個々人の名前を呼び、復活させられ、既に神の御国における新しいいのちに導かれているということなのです。そのことを示すために、イエスさまは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられたのです。私たちはそのことを信じる者たちです。だから私たちは永眠者を記念することを通して、神を感謝するのです。

最後にコリントの信徒への手紙Ⅰ15:54-57をお読みします。

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」