〇聖書個所 ローマの信徒への手紙 6章4~8節

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 

〇宣教「バプテスマに死に、バプテスマに生きる」

先週の礼拝に引き続き、今日の宣教もマタイ福音書とは違う個所からお話をします。今日は藤河弘恵さんの信仰告白がありました。信仰告白を聞いて、皆さまは色々なことを考えられたと思います。特にADHDという発達障害については、ご存知の方もおられると思いますが、注意力を持ち続けることが難しいことと、衝動性がおさえられないことの二つの特性を持った発達障害です。しかもその特性はなかなか外目にはわかりづらいことから、本人も発達障害とは気づかないまま、周囲との人間関係の中で生きづらさを覚えることが多々あるようです。藤河さんもまたこれまで色々なご苦労を経験されてこられたことを今皆さま共に聞きました。ADHDの原因となるものは今のところはっきりしてはいません。そしてこの発達障害をどのように受け止めて、どのように付き合っていけばよいのかという取り組み方もまだ答えは出ていません。方法論は様々にあります。恐らく一人一人によってやり方が異なるということでしょう。

でも一つはっきりしていることは、一人だけでこの症状を改善する方向へ向き合っていくことは非常に難しいということです。人間関係が全くない状態で、一人でいる分には何ら問題はないのだと思いますが、私たちはやはり社会の中で生きる者であり、ADHDは対人関係の中で問題となるわけです。一人で抱え込んでいてもさらに深刻になるだけです。でもそれは言い換えれば、集団の方が認識を改め、その方の特性をよく理解し、その人が生活しやすい環境を作ることによって、その発達障害は、治療すべき対象からその人の個性として受け止め方を変化させることができます。

藤河さんは、これまでの歩みの中で色々なご苦労を経験されてこられました。信仰告白では語りきれないほどの思いがその行間には詰まっていたと思います。しかし藤河さんはその歩みの中でイエス・キリストに出会い、結ばれました。イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は私の元に来なさい。休ませてあげよう」と言われましたが、まさにイエスさまが藤河さんの居場所になったのです。

ところが、その後の歩みの中でも藤河さんが他に通われていた教会から離れてしまうこともありました。しかし実はその彼女の背後でずっと祈りに覚えていたのが、藤河さんのお姉さんを始めとする大津バプテスト教会の祈りのミニストリーであったのです。実はこの4月のイースターに藤河さんは初めて神戸教会に来られましたが、その出会いを導かれたのもその方々でした。イエス・キリストの交わりの中で、私たちはいかなる時も一人ではないということを感じます。

このようにして藤河さんが新しい歩み出しを決意して、まさに立ち返って歩む場としての出会いが与えられたのが私たち神戸バプテスト教会でした。私たちの教会は「違いの中にキリストを告白する群れ」という標語を大切にしています。この内容については先週も触れましたが、私たちは同じくイエスさまによって招かれた者たちであり、同じようにイエスさまに新しく招かれる違いを持った方々と共に生かされることを喜ぶ群れであります。信仰告白を聞き、また改めて共なる歩みを進めて参りたいと思います。

さて、今日はバプテスマについて共に考えてみたいと思います。私たちがバプテスマを受けるのは、イエス・キリストの歩みに倣ったものです。イエス・キリストは、公生涯を始められる前、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。場所はヨルダン川ですので、川の中に入ったことは確かなのですが、そのやり方について書かれていませんので、色々なやり方が考えられてきた歴史があります。ただこのバプテスマと訳されている言葉は元々、水に浸す、或いは水の中で溺死させられるというベクトルを持った言葉ですので、恐らくイエスさまも水に浸けられて殺されたのだと思います。しかしそこから復活させられてイエスさまの福音宣教が始まったのです。イエスさまが新しく歩みをはじめるに当たり最初にされたことがバプテスマを受けることであったことと、その言葉の意味を考えると、バプテスマとは、これまでの古い自分が殺され、神によって復活させられ、神と共に生きるというしるしなのだと思います。まさに生き方の根源の変化、これまでとこれからの間にある神との出会い、私だけの歩みから神と伴う歩みへ、それによる質的な変化がこのバプテスマに込められているのです。

ちなみにイエスさまがバプテスマを受けた後に、天が開き、「神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった。その時、『これはわたしの愛する子、私の心に適う者』という声が天から聞こえた。」(マタイ3:16-17)とありますが、これはイエスさまのバプテスマを喜ぶ神の特別な出来事のようにも思えますが、私はこれはイエスさまだけに向けられている言葉ではなく、バプテスマを受けて歩みだすことそのもの、或いはその歩みを進みだすすべての人に対する神の喜びのメッセージではないかと思っています。よくヨハネのバプテスマは水のバプテスマで、イエスさまのバプテスマは聖霊と火のバプテスマで、それぞれ違うとか言われることもありますが、そのように考えると、私たちは同じ一つのバプテスマの中で、水のバプテスマ、すなわち悔い改めのバプテスマを受け、そして聖霊のバプテスマ、すなわち私たちを新たな出会いへと導いていくバプテスマに預かるのです。バプテスマが信仰の入会儀礼であるということは、神は私たちの生き方が立ち返らされ、新たに歩みだすことであり、そうした私たちの決断を、神はイエスさまと同じように「これは私の愛する子、私の心に適う者」として喜んでくださるのではないでしょうか。

さて、ところで私は今回聖書個所を読んでいる中で、バプテスマにはもう一つの意味があるのではないかと考えるようになりました。それは、私たちはもう一人ではないということです。バプテスマはよく「罪の赦しを得させるもの」と言われますが、別に罪を洗い流して綺麗にするということではありません。「罪」とはギリシャ語ではハマルティアといいますが、これは「的外れの生き方」を意味している言葉です。つまり私たちはこれまで一人で的外れな生き方をしていきました。的外れな生き方とは、別に悪いことをしていたということではありません。罪とは犯罪ではないからです。しかしむしろ罪とは、自分の心の渇望を埋めるためであったとしても1人でがむしゃらにやってきたことだと言えます。

しかし、私たちはバプテスマによってその古い自分、罪なる的外れな方向に進んで行っていた自分に死に、立ち返り、一人で生きていくのではなく、イエスさまの招きに入っていくのです。そのイエスさまの招きは、この世に住む最も弱く小さくされた一人一人のいのちが、神さまが愛された尊い特別ないのちであるという福音に他なりません。私たちの息苦しさは、この福音から離れ、或いは離されてしまい、違う自分にならないといけない、こんな自分ではいけないと言う思い込みからやってくるものであります。しかしイエスさまはそう言うのではありません。あなたは神によって愛されているのだ。あなたのその個性は神が作ったものであり、その個性が互いに輝いていく世の中にするために、イエス・キリストは来られたのです。だから一人で悩むのも、一人で苦しむのももう終わり。私たちは、共に招かれたそれぞれ違いを持った一人一人とこの交わりの中で、日々自分自身を振り返らされながら神を求めて共に生きていこう。これが「罪」、すなわち一人で苦しむことからの解放であり、共に生きていく「神の国」の招きなのだと思うのです。そしてそれがバプテスマの持つ本質的な意味合いなのではないかと思うのです。

今日の箇所には、簡単に言うと、私たちはバプテスマによってイエス・キリストの死にあずかると共に、また復活にもあずかると書かれています。イエス・キリストが死なれたのは十字架刑によるものですが、イエス・キリストが十字架に架けられたのは、まさに状況的・環境的に弱く小さくされた孤独の中にいる人々を、自分のことがらとして受け止め、深く愛し抜かれたためでありました。私たちにはそのように愛してくださるイエスさまが共におられます。だから私たちは独りではないのです。

そして、バプテスマは私たちをイエス・キリストにおいて新しいいのちへと導いていきます。それはイエス・キリストが十字架から三日の後に神によって復活させられたように、私たちは水の中に古い自分が殺され、神と共に甦るからであります。新しく歩みだす私たちは、決して一人ではありません。一人で頑張ろうとするから罪に陥るのです。私たちはイエスさまと共に、またこの神の名による交わりの中で、互いに祈り合い支え合っていく中で、日々新しくされていくのです。

今ここに、バプテスマを考えておられる方もおられます。バプテスマを受けるのにふさわしい基準があるわけではありません。また相応しい時がいつかということは私たちにはわかりません。しかしそういうものではないのかもしれません。というのは、イエスさまがバプテスマを受けられた時、ヨハネはびっくりして思い留まらせようとして「わたしの方があなたから受けるべきなのに」と言います。それに対し、イエスさまは「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです。」と言いました。つまりバプテスマを受ける理由は必要なく、今、この時に与えられたイエスさまの招きの言葉に従うということなのが、私たちにとってもっとも大切なことなのです。

イエスさまは、私たち一人一人を愛し、そのいのちが満たされることを願い、その歩みを全うされました。私たちはその思いに応え、その言葉によってあなたと共に生かされて行きたいと願います。