〇聖書個所 マタイによる福音書 9章27~34節

イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

 

〇宣教「あなたの信じている通りになるように」

今日の聖書個所は、マタイ9章18-26節に続く癒し物語です。先週は、「たった今娘を亡くした指導者」と「イエスさまの服にさえ触れれば治してもらえると信じてやってきた女性」についてお話をしました。結論としては、イエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」と言われたように、彼らが持つ「確信に基づいた主体的な信仰」が「娘の復活」と「12年もの間治らなかった出血の癒し」という「信じられないような出来事」を起こしたということを取り上げ、果たして私にはこのような信仰があるだろうか、いや私にはない。でも、神はそのような私をも同じような出会いへと招いてくださっているというようなお話ししました。

今日の聖書個所は二つの癒し物語ですが、ここでも「信仰」というものが問われています。イエスさまが、「わたしにできると信じるのか」、「あなたがたの信じている通りになるように」と言われているからです。先ほど子どもメッセージでは、ヘブライ人への手紙11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」をご紹介しましたが、まさに私たちは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」、つまり迷いようもない信仰、混じりけのない確信を持つことを教えられる一方で、私たちはその境地に立つことが難しい中に生きています。でも、今日の聖書の箇所はむしろ確信に立つことができないような私たち、信仰心の薄い私たちをもイエスさまは同じように愛して下さり、その祈りに応えてくださるということをお話しします。

今日登場するのは二人の盲人と、悪霊に取りつかれて口がきけなくなっている人です。この二組がどうやってイエスさまの元にきたかというと、盲人たちは娘の復活など「その地方一帯に広がった噂を聞きつけて集まって来た」のであり、悪霊に取りつかれた者は、恐らく自分では行く気はさらさらなかったのに他の人に連れられてやってきた人であります。信仰の面で言えば、盲人たちは確信的な信仰というよりは、もしかして治してもらえるかもというような御利益的な信仰だったでしょうし、悪霊に取りつかれた人は信仰心なんてさらさらなかったと思います。しいて言えば、その人をイエスさまのところに連れてきた人に信仰があったとは言えるかもしれません。

でも、実際に悪霊が追い出される光景を見ていた彼ら自身が、「こんなことはイスラエルで起こったためしがない」と言っていますので、実際には悪霊を追い出してもらえるかどうかは、あまり期待していなかったといえるでしょう。

このように信仰がない者に対して、イエスさまは「わたしにできると信じるのか」と言います。或いは、もはや信仰を問うことなく、悪霊の追い出しを行われるのです。このような聖書の箇所を読むと、それでは「信仰」とはいったい何なのかということを改めて考えさせられます。それぞれに状況は異なります。信仰の多い少ないもわかりません。でも彼らはそれぞれに癒されていくのです。そんな彼らに共通することは、最終的にイエスさまの元に来ているということだけなのです。でも実はそのことこそ決定的に重要なことなのだと思うのです。それは、この人に期待をするという心が生まれるからです。

恐らくこの二人の盲人は、イエス・キリストの噂を聞くまでは、自分たちが癒されるときが来るなんて思ってもみなかったことでしょう。彼らがどうして盲目になったのかはわかりませんが、彼らがもし「生まれつき」の盲人であったとしたら、その原因は「親か自分が罪を犯したせいだ」(ヨハネ9章)と考えられていたからです。病気やけがによる盲目なら病院で癒されることはあったかもしれません。でも、罪による盲目の癒しには、神の赦しが必要であったのです。ところが残念ながら、神以外に神の赦しを宣言できる方はいないのです。だから、彼らは諦めていたとしても不思議ではありません。

悪霊に取りつかれていた人も同様です。他の人ではなく、その人に悪霊が取りついた理由が何かあるはずなのです。でもそれはわかりません。悪霊の追い出しにしても、神の名においてでしかできることではありません。彼を連れてきた人がどういう関係の人であったのかはわかりませんが、助けようとしても難しいこともあります。特にこの人の症状は、悪霊に取りつかれて話すことができなくなったことでした。話もできない。どのようにしたらよいのかまるでわからない、お先真っ暗という状態があるのです。

でもそんなそれぞれの心を生き返らせるきっかけとなったのが、死んだ娘をも甦らされたイエスさまのうわさであったのです。あり得ないことが起きた。本当か?いやまさか。でも、本当なら会ってみたい。その方なら自分たちを癒してくれるかもしれない。この時点では「癒してくれるに違いない」までは行っていないと思います。彼らには確信はなかったと思います。不安な心があったと思います。長血の女のように自分なんかがイエスさまのところに行っていいのだろうかと思ったことでしょう。でも彼らはいてもたってもいられず、イエスさまのところに行き、叫び続けたのです。

ここに大切なことが一つあります。それは盲人にしても、口のきけない人にしても一人ではなかったということです。一人ではたとえ信じ、希望を持ったとしてもその希望を持ち続けることは困難です。失望や諦めと言う心は私たちの心に簡単に入り込んできます。その願いを持ち続けるために必要なことが、共に歩む人です。盲人たちは、一人ならイエスさまのところに行くことはできなかったかもしれません。でも、彼には共に歩む仲間がいました。口のきけない人を連れてきたのは群衆です。

一人では信仰を持ち続けることは難しく、諦めてしまうこともあります。でも二人ならば、それ以上ならば、私たちは信仰が薄くても、信じることができていなくても、イエスさまに出会うことができるのです。

むしろ言い換えれば、イエスさまのうわさを聞いて、イエスさまを求めたいと思った。そして友と共に前に一歩歩みだした。ここにあるものが信仰なのではないかと思うのです。

信仰という言葉、ヘブライ人の手紙11章1節の後半「見えない事実を確認すること」とは、実は前半の「望んでいる事柄を確信し」というような疑いのない強い信仰を持ちなさいということではなく、「見えない事実を吟味して確かめつつ生きること」であるのです。そして、その歩みに伴っておられるイエスさまとの出会いによって、私たちは変えられていくのです。

どのように変えられるか。それは、この二つの癒し物語からも明らかです。盲人は、見えるようになりました。これはただ視界が開けたということではありません。自分たちに光が差す出来事でした。彼らはそれまで他の人に手を引いてもらうことで生きていかざるを得ませんでした。つまり彼らは自分たち自身で決断して生きていくことができなかったのです。でも、いまや違う。自分自身として自分の道を歩んで行けるのです。
象徴的だと思うのですがイエスさまは、「癒されなさい」とは言いませんでした。彼らにかけられた言葉は「あなたがたの信じるとおりになるように」でした。つまり癒されることが大切なのではなく、彼らが信じたとおりに生きていけるようになることが重要なのです。彼らは助け合ってイエスさまのところに来ました。そしてイエスさまに出会い、彼らは自分自身で道を見つけて生きていくことができるようになったのです。

口のきけない人はどうであったでしょうか。この人の症状は、実は口がきけないだけではなく、耳も聞こえないということでもあります。口がきけず、耳が聞こえない。目からの情報は入りますが、手話も発達していない時代、識字率だって高くなかったでしょう。つまり自分の言いたいことが言えない。対話ができない。そこには自分の世界しかありませんでした。悪霊は私たちを孤立させ自分たちの世界だけに留めおこうとするのです。しかしその彼がイエスさまに出会った時、モノを言い始めたのです。これは、はっきり「しゃべった」という言葉です。これはまた耳も聞こえるようになったということです。つまり、彼はイエスさまに出会うことによって対話に開かれたということなのです。

この聖書の箇所で起きた癒しとは、症状だけの癒しではありません。イエス様に出会った人は、相手任せの生き方が変えられ、主体的に生きることができるようにまさに自由に新たにされたということなのです。

私は、実はこの聖書の箇所にある意味で感動を覚えています。一人では進んで行けない人が、他の人に助けられて、支えられてイエスさまのところに行くこと、またイエスさまとの出会いによって目が開かれ耳と口が開かれていくということを今、私も感じているからです。

今年の年頭から、わたしにとっての一つの課題はこの宣教をどのようにしていくかということでした。実は、今年の元旦礼拝、私は説教原稿を完成させることができませんでした。いつも祈りつつこのように原稿を準備するわけですが、その時は初めて、大みそかに十分な時間をかけながらも文章としてまとめきることができなかったのです。

理由はなんでかわかりません。頭が混乱していたのかもしれません。疲れかもしれません。その時は要点だけまとめて原稿にはせずにお話をすることになりましたが、私にとってはこれは非常にショックなことでした。伝えたいと思う言葉を文章としてまとめられないなんて、牧師としてダメなのではないかと思いましたし、私の信仰から溢れ出る思いがあればそんなことにはならなかったのではないかとも反省しました。自分の信仰とはいったいどうなってしまったのかと悩みました。

しかし、そんな時にある一人の信徒の方が、今年一年アシュラムの祈りを始められると私に伝えて来られました。アシュラムの祈りとは、一日の朝5分聖書を読み、5分祈り、5分黙想の時を持つ、という榎本保郎先生が提唱された祈りです。この15分で人生が変わるということをおっしゃっておられますが、その方がそれを始められる、そしてその中では必ず私のために祈ります、と言ってくださいました。

私はこれまでも皆さまから多くの祈りと支えを頂いていたことを実感していました。その中には様々なご意見がありますが、それらはまさに皆さまの祈りの内に頂く言葉であったと受け止めています。でも、特にその方が伝えて下さったその思いが、宣教について悩んでいるわたしにとっては非常に大きな慰めと励みになりました。わたしはまさに一人ではないということを感じたからです。そしてその祈りによって私自身、今変えられてきているように思います。

もちろんこれまでも一生懸命勉強してきました。祈ってきました。決して説教集で借りてきた言葉をそのまま話してきたわけではありません。でも、それだけでは自分だけで孤立し、自分の歩む道も見えず、人の声も聞こえない状態です。思えば、神の御言葉に向かい合う、格闘するとは言いますが、一人では立ち得るものではありません。自分が受けた言葉として、神の出来事として語っていくためには、目が開かれ、耳と口が開かれなければなりません。そこにたどり着くためには一人では困難です。しかし、目が開かれ、耳と口が開かれたとき、私には多くの方の助けがあることを確認できるのです。そしてそこに立つときに、私たちはまさに「わたしたちの信じた通りになる」のです。

今日の聖書個所で、イエスさまは目が開かれた盲人たちに、「誰にも言ってはいけない」と言います。なぜイエスさまがそのように言ったかはわかりませんが、彼らはそれを多くの人に伝えました。イエスさまの言葉に逆らうなんてとこれまでは思ってましたが、もしかしてイエスさまは彼らを試したのではないでしょうか。彼らは今まで人に言われるがままに生きてきました。しかし、イエスさまと出会い、目が開かれました。果たして彼らは今度は人の言葉によって生きていくものになるのでしょうか。それとも、自分たちの道を自分たちで歩んでいくのでしょうか。

私は彼らの気持ちがわかります。だって嬉しくてたまりません。誰にでも自分の身に起きたことを伝えたいと思います。溢れるばかりの感動は止めることができないと思います。イエスさまはもしかして言いつけを守らない彼らをある意味で喜んでいたのかもしれないと感じました。逆にそこで救いが起きているのに、認めることができない人々がいるということも私たちは心に留める必要があります。

私は、聖書が伝えたいと思っている感動、自分自身にとってどのように響くのか、そしてそこで湧き上がる感動を皆さまにお伝え出来るのか。イエス・キリストの福音に生かされ、止められても言い広めたくなっていく福音を共に受け止めて生きたいと思います。

「一人よりも二人が良い。倒れれば一人がその友が助け起こす。」神は私たちを、自分だけの世界から隣人と共に生きる世界へ導いていかれるのです。その信仰の一歩を踏み出していきましょう。