〇聖書個所 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16~18節

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

 

〇宣教「見えないものに目を注ぐ」

今日の聖書個所は、先ほどの子どもメッセージの聖書の箇所と一部同じです。特に18節は光の丘幼稚園の今月の暗唱聖句の箇所でもあります。新年にあたり、私たちが本当に心に留めて歩みだしたい。そのような御言葉であります。18節の言葉をもう一度お読みします。「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

私は「見えるものは一時的なものであり移り行くものである。本当に大切なものは見えないものである。」ということに同意します。でもそうは言いながらも、見えるものを見ないで、見えないものだけを信じて生きていくことはなかなかに大変なことなのだと感じます。何故ならば、パウロがこの場で言っている見えるものというのは、私たちを取り巻く多くの困難であり、私たちの目はそれにくぎ付けになってしまうからです。

今日の聖書個所はその冒頭に「だから私たちは落胆しません」とあります。落胆しないとは、やる気を失ったりしない、諦めたりしないという意味の言葉です。でもこの言葉が一言目に来るということは、この手紙を書いているパウロには恐らく落胆してしまってもおかしくないほどの苦しい現実があったことが分かります。このまま続けていくのがしんどい、挫折してしまいそうになることが時にあります。そんな中で「衰えていく外の人」と言うのは、日々衰えていく私たちの肉体のことではなく、この社会の中で他者との関係や様々な出来事の中ですり減らされている私たちのいのちのことです。パウロと同じように、私たちも同様に、様々な環境の中で常にストレスを受けたり、心が疲れたりしてしまう世の中があります。でもパウロは、そんな中でも落胆はしない。決してあきらめない。決して私たちの都合の良いようにいく社会ではないけれど、私たちは決して挫折したりやる気を失ったりすることはないと言うのです。

どうしてそんなことが可能になるのでしょうか。パウロは続けます。それは外なる人は衰えていくとしても、「内なる人」は日々新たにされていくからなのです。「内なる人」というのは、ただの自分の心のことではありません。イエス・キリストにあって生かされている自分のことです。イエス・キリストが私たちと共にいてくれるということ。このキリストがどんな時も私たちがどんな状況にどんなにすり減らされだとしても、私たちを支えてくれるということが私たちのいのちを守るためにとって決定的に大切なことなのです。そして、この方が共におられることを信じた時に、わたしたちの艱難は、それがたとえどのようなものであったとしても、それは一時的のものでありすぎゆくものとなるのです。その艱難はイエス・キリストが共におられる限り、私たちのいのちを失わせるようなものにはならないのです。

そこには絶対に失われることのない希望があるのだということをパウロは教えています。私たちは目に見える苦難にばかり心が動かされてしまいますが、しかしだからこそパウロは見えないもの、つまり見えないけれど共におられる神に目を注ぎなさいというのです。

でも、そうは言われても、見えない神がわたしと共にいると言われても、どうしてそれを信じることができるでしょうか。そのように言うだけでは多くの人は信じられないと思います。また私たちもたとえ一度は信じたとしても、その困難が長引けば長引くほど信じ抜くことは難しいことだと思います。これはある意味で仕方のないことです。むしろ、人間は見ないと信じられないものだから、神はイエス・キリストを見える神の形としてこの世にお送りになったのです。旧約聖書を読むと、人はいくら預言者が言葉で神の存在を伝えようが、自分が見なければ信じられない姿をあからさまに現しているのです。でも、この事実は、見えない神を信じたいと思っても、信じ続けるのは困難であるということを明らかにしています。

パウロもそれが分かっていたと思います。だからこそ、パウロはこの見えない神の存在を伝えるために「手紙」という見えるものを書き送ったのです。この手紙を書いたパウロは、ギリシャ世界やアジア諸州を宣教旅行したことで有名ですが、私が思う彼の働きで最も大切だったことは、恐らく教会を立てたということではなく、むしろ他の旅先にいる時に、直接会うことのできないそれぞれの教会の仲間に対して手紙を送り、その教会の悩みを共有し祈り、その信仰を励ましたことであったと思います。これは直接出会うことのできない期間、パウロが彼らのために祈っていたその祈りが実となった証しであるともいえるからです。祈りとは神に委ねた言葉や思いの通り私たちが生きていくということです。もちろん、他の場所で誰かが自分のために祈ってくれているということに励ましを受けます。でも、見えなくてはどうしても孤独に感じてしまうことがあります。信仰も一人では守り続けることは困難なのです。でも、そんな自分のことを覚えて祈ってくれる人がいる。その人の祈りがわたしに手紙という形で届けられた。この見える励ましは多くの人の心を打つ慰めとなったと思うのです。

実に新約聖書の書簡の大部分はパウロの手紙で構成されていますが、それは彼の手紙の内容が多くの人の心に残り、大切に保管されていたからではないかと思います。「共に集って祈ることができなくても、あなたの気持ちは届いている。」「あなたのために祈っているよ、という言葉以上に伝わるものがある。」今は会えなくても、彼は私たちのために必ずや祈ってくれている。そして再びまた会える日が来る。この希望によって私たちは立ち上がっていくことができるようになるのです。

私たちの目に見えるものというのは、私たちを励ます一方で、私たちの心を挫くこともあります。でもそのような時、目には見えない神の伴いを信じることで、私たちは歩むことができるようになるのです。そしてその時、一人の人の歩みは多くの人の希望の光になって行くのです。ここで、まさに目の前にある絶望的な状況に神の伴いを受けて立ち向かった一人の人を紹介したいと思います。

それはペシャワール会の中村哲さんのことです。私たち教会では毎年クリスマスイブ礼拝の献金の一部をペシャワール会に捧げています。中村哲さんは2019年12月4日に狙撃されて亡くなりました。その日から、もう一年経ちましたが、彼がアフガニスタンやパキスタンで始めた事業は今も生き残っています。

彼は元々福岡の香住ヶ丘バプテスト教会の信者でした。1984年に日本キリスト教海外医療協力会によってパキスタンに派遣されました。当初地域の人々の医療活動に当たっていたわけですが、次第に地域の人々の病気の原因が食糧不足と栄養失であったことに気付くことになりました。彼は、人々の生活を環境から変えないと、病気は減ることがないと思い、自らメスを持つ手を重機を操る腕に代え、荒れ地に水路を作る灌漑事業を始め農地を回復させていきました。本当に人々の健康的な生活を支えるために必要なものはクリニックではなく生活環境の整備であると思ったのです。

思うは簡単、言うも簡単、でも、実際に行うことは困難を極めたと思います。技術もなく、仲間もいない。機械もなく、資金もありません。目の前には中央アジアの荒れ果てた土地が広がっています。水路を作るなんてまるで夢物語、想像を超える無茶な計画であったと思います。恐らくみんなに「やめとけ」と言われたと思います。でも彼はその計画をスタートしました。周りの人は冷ややかに見ていたそうです。でもそのうち次第に人々も彼の本気さを知り、共感するボランティアが現れ、ついに水路を作ることができました。そして荒れ果てた大地に緑が戻ってきたのです。

私はこの活動を知ったときに、本当に心が震えました。普通であれば、医者は医者の仕事をすればよいと思います。土木事業なんて専門家に任せておけばいいですし、他の国のことなんだからその国の人に任せておけばよいと思ってしまいます。期限が終われば帰国するわけですし、自分がやるとか普通ならありえないです。でも、中村さんはそこに見える困難を見て見ぬふりをしませんでした。自分にできるできないではなく、やらなければいけないことをしていったのです。まさにこれはイエス・キリストが自らの腸が千切れるほどに人々を深く憐れまれたということに等しい「伴いの形」であったと思います。中村さん死後、すぐにコロナが起き、海外渡航ができなくなったそうです。でも、そのとき今度は現地の人々が中村さんの意思を引き継ぎ、自分たちでその計画を進行しているといます。私はこれはまさに中村さんの祈りが形となった結果であり、見えない思いが見える形として多くの人々の希望に繋がっていったのだと思います。

そしてこれは見えるところに目を注いだ結果ではなく、見えないところに目を注いだ結果だと思います。私たちは見えるところだけを見ると、困難に挫折してしまいそうになります。でも夢や希望を持ち、必ずや神がそれを導いて下さるということに目を向ける時、必ず新しい道が開かれていくのです。

さて、私たちにも困難な状況はあります。でも、神はこのようなときこそ共におられる。見えない神に目を注ぐことが大切なのです。何故かと言うと、まさにまず初めに神がちっぽけで何も見えないような私たちのいのちに目を注いでくださっているからなのです。

中村さんのようなことは何もできない私のようなものに対しても神は、「私はあなたを愛している。私はあなたのためにそのいのちを惜しまずに与えたのだ」と言ってくださり、御子イエス・キリストを示されるのです。そのときに気付くのです。あぁ、神はわたしたちに必要な恵みを与えてくださっている。私たちは無力ではない。神は私たちに、困難に立ち向かっていく知恵と勇気をお与えくださっているのです。神はわたしたちに「落胆しないように、」期待しておられるのです。私たちの内なる人は日々新たにされ続けているのです。

マルチン・ルターは、「たとえ明日世界が終わるとしても、私はリンゴの木を植える。」と言い、人は希望によって生きていくということを示しています。

今日は阪神淡路大震災が起きてから26年目の祈念日です。絶対に安全だと言われ、信じられていた土台が神戸だけではなくて日本中で崩れた日です。震災が多くの見えるものを崩していった一方で、確かに感じることができたものは、見えない多くの人々の連帯であったと思います。このことは、炊き出しやボランティアなどの助け合いが始まるきっかけともなりました。これが神戸の街の復興、また人々の心の復興に大切なものであったと思います。自分の人生の土台が崩れていく時、大切なのは自分に寄り添ってくれる隣人の存在なのです。

その日から26年が経つ今日は、感染症の拡大時期を迎え、私たちはどのように連帯するのかを問われています。でも、感染症からの復興も、形は変わりますが、同じく人の結びつきによって支えられていくのだろうと思います。見えないけれど確かにある私たちにはイエス・キリストによって交わりがあること。私たちにはお互いを覚え祈り合うことができることに希望を持ち感謝したいと思うのです。今日から2月末までの間、オンラインでの礼拝を共に守ることを皆さまにお願いしています。この間、私はまた皆さまのために祈り、またパウロのようにはできないかもしれませんが、祈りを見える形にしていきたいと思います。また皆さまもそれぞれ色々な祈りを重ねられると思います。

皆さまの歩みの上に主の伴いを祈ります。