〇聖書個所 マタイによる福音書6:14-15

「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

〇宣教「主イエス・キリストの祈り ⑥他人の過ちを赦す」

今日は、イエス・キリストが教えられた「主の祈り」の続きの箇所です。でも、これまでの箇所とは違い、ここはいわゆる「主の祈り」には入っていません。新共同訳聖書をよく見てみると13節まではカッコが付けられていて、今日の箇所はその後にありますので、「主の祈り」ではないのです。私は最近一節ずつ聖書個所を選んで宣教をしているわけですが、当初はここを飛ばそうと思っていました。というのは、この箇所は13節の「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも許したまえ」という個所と重なる内容であると思ったからです。13節は「負い目」であり、今日の箇所は「過ち」という言葉の違いはありますが、どちらにせよ自分に罪を犯す者を赦しなさいと言う教えだと思います。でも負い目にせよ過失にせよ、自分に罪を犯すものを赦すことは私たちにとって特に難しいことだと思います。さらにもしそれができなければ赦されないということであれば、どうした良いのでしょう。私は、自分の行いを通して神が救ってくれると言うのであれば、それは神の無条件の救いとは違うように思えるのです。

何故ならば、イエス・キリストが示された神の愛は「悪人にも善人にも雨を降らせる」普遍的な愛です。それによって私自身が罪びとであっても救われるという平安に至るのです。でも今日の箇所はそうではありません。裁きを強く補強している言葉のようにドキッとしました。私にとっては不都合な言葉です。でも、今日の箇所も主イエス・キリストが教えられた主の祈りに続く一言ですから、何らかの意味があるはずです。実は私はこの箇所がとても気になりまして、註解書やインターネットで色々と探したりしました。でも残念ながら、この箇所をクローズアップしているものは全くありませんでした。でも、それでも聖書に意味のない言葉はないと思います。

そんな時にふと、マタイ福音書が実は「赦し」にこだわっていることに気づきました。例えばマタイ18章では、兄弟の罪と赦しのテーマをよく取り上げています。マタイ福音書がもっとも伝えたいことは、わたしたちがどのように信仰を守りながら他人と共に生きていくかということだと言っても良いのかもしれません。そうであればこの箇所には大切なことが隠されているのかもしれません。私は、祈りの中で、実はこの言葉こそ、マタイが主の祈りのまとめとしたかったのではないかと思うに至りました。ですので、今日はここから「他人の過ちを赦す」と題して3つのことからお話しさせていただきます。

まず大前提として確認します。聖書にはイエス・キリストが主の祈りを教えている箇所が2つあります。マタイによる福音書6章とルカによる福音書11章です。内容にはそれぞれ少しずつ違いがあります。でもそれはどちらが正しくてどちらが間違っているということではありません。その言葉だけではなく前後の文脈やそれらの聖書が書かれたときの状況を比較してみる時に、それぞれが本当に伝えたいことが分かってくるものです。例えば主の祈りの言葉については、マタイとルカにはあまり大差はありません。大きく違っているのは文脈です。実は今日の聖書個所マタイ6章14-15節に当たる箇所がルカにはありません。今日の箇所はマタイ独自の言葉であるのです。

その上でまず第一にマタイが私たちに伝えようと思っていることは、私たちにとって祈りというものは人間同士の営みの中で生まれるものであるということです。人間関係には楽しみや喜びもあると思いますが悲しみも憤りも争いもあります。実は、マタイによる福音書は、紀元80年頃、シリア地方の異国の地で書かれたと言われています。つまり、彼らは自分たちの国ではない場所で、違う文化の中でごく少数の寄留者として生活していたわけです。そこでは、恐らくイエス・キリストを信じる者たちが共に支え合いながら生きていたのだと思います。これは言うは簡単ですが、行うは大変なことです。異文化の中、信仰を守って生きるということだけでも色々な軋轢があるのです。私たちも異文化の中、信仰を守って生きようとしていますが、しばしば多くの問題が起こります。信仰者の群れであっても、意見のすれ違いや衝突、或いは分裂など、共に生きるということが難しい出来事が多々起こったと考えられます。

モーセが与えた十戒という神の教えも、半分は神と人との関わりについて、残りの半分は人と人との関わりについて教えていると言われますが、主の祈りについても後半は、罪を犯す者との関わり、また私たちが試みる者とどのように向かい合うかについて教えています。というと私たちの祈りの半分もまた人間関係での助けを求めている言葉であるともいえるかもしれません。イエス・キリストは、そのような色々な人間関係に苦しむ私たちに、人の目を気にするのではなく、その思いをすべて隠れたことを見ておられる神にありのまま包み隠さずに出してよいのだということを教えられました。

そして、これらの祈りが神にあって、わたしやあなたという個人の祈りから我らの祈りになって行くことを伝えておられます。赦しに関して言えば、これは私が赦すという一方的なものではなく、わたしがあなたによって赦されるという双方向的なものであるだけでもなくて、自分だけではなくすべての者が共に赦し赦されて、共に生かされているという現実を示すものであります。共に生きるとは、私だけが良ければ済むというものではなく、自分だけが犠牲になることでもありません。共に支え合って生きていることに気づくことが大切であるのです。

二つ目に、私たちの人間関係を損ねるものは何でしょうか。12節には「負い目」という言葉が登場します。これは相手にかけるもろもろの負債であります。今日の箇所では、「過ち」という言葉が出てきます。過ちと聞くと皆さんはどういう意味を連想されるでしょうか。この「過ち」という言葉について辞書で調べてみました。

1番目は「間違いや失敗」です。これが一番よく連想されるかもしれません。過去の過ちとかの表現から考えると何か間違いや失敗をしたのだなと思います。
2番目は「過失や犯してしまった罪」です。過失とは、意図的ではなかったとしても犯してしまった罪です。古代イスラエルでは意図的な殺人は赦されませんでしたが、過失で殺人を犯してしまった人については復讐から守るために「逃れの町」が造られたことが旧約聖書に記されています。
3番目に「男女間の不倫」です。一夜限りの過ちとかワイドショーで使われそうな表現です。
4番目は「怪我や負傷」だということです

この過ちという言葉には、単純にミスをするということよりも、向かっている方向性があるように感じます。「過失」という言葉が特に象徴的ですが、やりすぎてしまって思ってもないことになってしまったというイメージです。人間関係でもそういうことがあるかもしれません。人のために良かれと思ってしたことが実はやりすぎだった。人を傷つけてしまった。こうなるとは思わなかったということです。過失を犯したときのショックは、自分がやろうと思ってした罪よりもショックが大きいと思います。

実は、この過ちという言葉、新改訳聖書では、「罪」と訳されていますが、実は聖書の中でよく使われる「ハマルティア(的外れの意)」とは違う言葉が使われています。それは、パラプトーマという言葉です。これが「過失、過ち、違反、罪」と訳されるわけですが、実はパラという前置詞とプトーマという単語の合成語です。パラはBeside傍らに伴うという意味です。プトーマは何かというと、「倒れている者や死骸」を意味します。つまり、過ちを犯すことというのは、あなたのそばに倒れる者である、まさに死にゆく者であるのです。確かに、過ちを犯したことに気づいたとき、私たちは立ち上がれないほどの苦しみを覚えます。やってしまった。周りにいる人たちに対しては非常に迷惑なことであります。では、そのような人の過ちをあなたはどうするのかということです。イエスさまはそれを赦す、つまり自由にさせなさいということなのです。

でも、やっぱり赦すということが私たちには難しいことがありますよね。赦せないということは、実際に私たちがその痛みを今もなおありありと受け続けていることだと思います。そして相手を赦せなくて苦しいのは自分自身なこともわかっているのですが、それでも赦せないことがあるのです。でも、この過失についていえば、相手も同様に苦しんでいる状況があるのです。イエス・キリストがそんな私たちに伝えようとしていることは、何なのでしょうか。傍らに倒れ込み今にも死にそうな者。それは私たち自身ではないでしょうか。イエスさまはそんな私たちに愛を示されました。そしてあなたがたも同じように赦されて生きてきているのだということを改めて教えているのではないでしょうか。だからこのような言葉を通して考えさせるのです。赦すとはどういうことか。自分はいったい何なのか。これはもう赦さなくては赦されないということではなく、赦せないということでもなく、あなたがたも赦されて共に生かされているのだということなのです。

最後の三つ目として、この祈りというものは、最終的にはまさに私たちの生き方そのものに反映されてくるものです。ここでは私たちはまさにお互いに赦されたものとして支えられながら生きていくように招かれているのではないでしょうか。

みなさん、スピードスケートという競技の中にパシュートという種目があることをご存知でしょうか。2018年に平昌で行われた冬期オリンピックで日本が金メダルに輝いた種目です。三人一組でトラックを回ってその速さを競うのですが、面白いのは3人の内の一番最後にゴールを通過する人の速さがそのチームの記録になるのです。ですから、早い人がいくら先に進んでも、遅い人が遅れていれば何にもなりません。速い人は遅い人をかばうように列を作って共にゴールを目指して走る支え合いのスポーツです。これは共に生きるということを見事に表現しているように思います。自分だけが生き残ればよいというものではありません。むしろ自分も他の人から助けられて生かされていることで共に進むことができるのです。でもなかなかそれを体現することは難しいものです。チーム内に不和が出ると、早い人はより早く進み、遅い人は置いて行かれます。実際にそういうことでバラバラになっていったチームもあるのです。ミスした選手を一方的に赦すだけでも関係性はぎくしゃくします。心に残るしこりというものは簡単には消えません。ですから、向かい合うことが必要です。そして対話の中で共に生かされていることを喜ぶことこそ、大切だと思うのです。わたしたちの信仰の世界も同様です。強い者だけが生き残れる世界ではなく、共に生かされていることを喜べるようになることこそが大切なのです。

終わりになりますが、異文化社会の中で共に生きていくために、マタイは「赦し」という事柄をよく私たちに伝えているのです。赦しという言葉は、「自由にする」とか「行かせる」という意味でもあります。相手を赦すという一方で、私たちが自由になるということでもあります。私たちに必要なことは、赦せない自分自身を知り、そんな自分こそがイエス・キリストに赦されていることを知ること。私個人の祈りをみんなの祈りとすることであり、与えられた糧を分かち合い、共に自由になって生きることなのではないでしょうか。