〇聖書個所 マタイによる福音書 6章22~23節

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

〇宣教「澄んだ目を羨む濁った目の人々へ」

今日の聖書個所を読んで、皆さまはどのようなことを感じられたでしょうか。「目が澄んでいれば全身が明るくて、目が濁っていれば全身は暗い」と言います。確かに人の目の輝きというものは、その人自身を表すものであると思います。例えば、日本語でも「澄んだ目(瞳)」という表現があります。この表現に込められている意味合いとは恐らく、「目が美しい」ということ以上に「邪心が感じられない」とか「まっすぐで誠実さを思わせる」などの印象を感じさせます。それでは反対に「濁った目」という言葉にはどのような印象を感じるでしょうか。恐らく「目そのものの問題」以上にその人に対してネガティブなイメージを感じると思います。ちなみに「濁った目」という言葉の類義語には、「死んだ魚のような目」という表現があります。ひどい言葉だと思いますが、これにも「覇気がなくて、うつろな目」まさに濁っていてもはや何を考えているかわからないような不気味な印象を受けます。つまり「目の輝き」には、その人の心や姿勢、生き方などが投影されるわけです。

それでは、皆さんの目はどのような輝き方をしているでしょうか。私はコロナの問題が起きてから、出張が少なくなった代わりに、ズームというパソコン上での会議ツールを用いて、いわゆるビデオ会議が増えました。その結果パソコンに目をくぎ付けにすることが多くなり、本当に目が疲れているわけです。実は以前にもパソコンの見過ぎで目が充血してしまい、眼科に行ったことがありますが、ドクターの話によると、「目の使い過ぎり老化によるものだ」と言われました。ショックでしたが私も若いとは言われても早いもので今年40歳になりますので、気を付けて目を休めるために遠くの緑でも見ようと思うのですが、ふと手持無沙汰になったときや考え事を始めた時、気が付かないうちにスマホに手が伸び、調べ物をして、小さな画面をまた見つめてしまい、また目を疲れさせてしまう結局何のために緑を見に行ったのかということになってしまうことがあります。

ところで「目の疲れと目の輝きに因果関係はあるのか」ということを検索してみたところ、やっぱり因果関係はあるそうです。でも、「あなたの目の輝きを取り戻す方法」として、目の疲れを取るためにビタミンAを取りましょうとかアンチエイジングケアとかドライアイに効く目薬とか化粧方法とかいったものが宣伝されていました。でも、恐らく最も目を輝かせるものとは、私は外的な方法論ではなく、その人の生き方がその人らしく満ち満ちた時だと思います。私は、イエス・キリストは今日の聖書個所でそれを伝えようとしているのではないかと思うのです。

今日の箇所の前半の部分は「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば全身が暗い。」とありますが、実はここには少し現代とは異なる理解があるようです。というのは、イエス・キリストが生きていた2000年前には、目から光が出て周りのものを照らし見えるようになると考えられていました。
現在では目は光を感知して取り入れる部分だと思いますので、まったく逆の考え方であったわけです。ですから、当時は目が見えないというのはその人の内側に光がないからだと考えられていたわけです。なの、で自分の目が澄んでいて光があれば周りが明るくなるし、自分の目が濁っていたら周りは暗くなるというわけです。でもこれも当時の社会の中で、目が見えない人への差別意識を造り出していた問題であったと思います。

イエス・キリストはそのような目の見えない人に対して、どのように関わっていったのでしょうか。マタイによる福音書では9章27節からと20章29節からの2つの箇所で目の見えない人への癒しの物語があります。
詳しくは読みませんが共通していることがあります。それは両方とも二人組の目の見えない方々がイエス・キリストに対して「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言ったこと、しかも彼らは、イエスさまが家の中に入っても追いかけて来たり、周りの人から止められてもあきらめずに憐れみを求め続けたりしたということです。つまり彼らは、イエス・キリストなら私たちの求めに応えてくれると信じていたということです。そして彼らはイエス・キリストによって目を開かれました。

これはただの癒しの奇跡物語ではないと思います。というのは彼らが「すべての人を照らすまことの光」であったイエス・キリストに出会ったことで、彼らの内側に光が射した出来事であるからです。言い換えるなら、彼ら自身の中から消されていた光が再び輝いた出来事であったとも言えるでしょう。私としてはイエス・キリストに出会い求めた時点で、彼らの光はまさに復活していたのではないかと思うのです。何故ならば、「求める」という希望に満ちた主体的な行動を取る時に、確かに私たちの目は輝くからであります。

もちろん、彼らはイエス・キリストに出会う前にもたくさんの人に助けを求めていたことでしょう。しかしながら、自分の内に光がないというレッテルがあることによって、彼らは傷つけられていたことだと思います。自分が求めたようには誰も助けてくれない。一縷の望みを持っていても誰も顧みてくれない時、まさに私たちは失望します。他の聖書個所にあるように、長年出血の止まらなかった女性が、治るために医者にかかってお金を使い果たしても返って傷つけられてしまっていたことと同じことです。そんなことが続けば私たちも次第に疲れ、目も濁ってくるように思います。

でも、そこにまさに自分の光を回復させてくれる人がいる。この希望に立った時、彼らの目は恐らく迷いなかったと思うのです。周りにはイエス・キリストの迷惑になるから黙りなさいとたしなめた方々もいました。でも、彼らはあきらめませんでした。共通しているもう一つのことは、そこでイエス・キリストとの対話が生まれたということでした。「わたしに治せると信じているのか」という言葉、もう片方では「わたしに何をしてほしいのか」という言葉があります。彼らの返答は迷いのない純粋な答えでした。「主よ、目を開けていただきたいのです。」「はい、主よ、あなたなら治せると信じています。」この時、彼らの目は澄んでいたのではないかと思います。そしてイエス・キリストは彼らのそのストレートな思いに応えられたのだと思うのです。そして彼らはまさに光を身に受けて歩みだしたわけです。
今日の聖書個所に戻りますが、私は、今日の箇所を読んでイエス・キリストが来られたのは、私たちの濁った目を再び澄んだ目にさせてくださる希望を与えるためであると思います。でも実は最初に23節の後半の部分、「だからあなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」という個所を読んだとき、「え、これで言い切って終わり?」「じゃあどうすれば濁った目をしている人が再び澄んだ目になるためにはどうしたらいいんだろうか。」と思いました。

皆さんは、自分の目を見られることはあるでしょうか?一つ質問ですが、皆さんから見て私の目は澄んでいるように見えるでしょうか。それとも濁っているように見えるでしょうか。私は自分自身の「目」について、先ほど疲れていると言いましたが、目それ自体よりも、「濁った目」をしているのではないか、或いはそのような生き方をしているのではないかと不安になったのです。これは私が自分の内にキリストの光があるかということを確認することでもあるからです。

残念ながら人は皆、自分で自分自身の目の輝きを見ることはできません。私たちは自分の目については、直接見ることはできず、鏡を通してでないとみることができないのです。でも、鏡を持ったとしても自分の目の疲れや充血具合はわかると思いますが、その瞳の輝きについてはわかりません。わたしたちの目が澄んでいるか濁っているかということについては、別の視点が必要になるということだと思います。先ほど、イエス・キリストの元に目の見えない人が来た二つの物語をお話ししましたが、実は二つの物語とも二人組でイエス・キリストの元にやってきています。これは自分が見えるようになったという証言をするためには自分だけではダメだという理由があったそうですが、反対に考えればイエス・キリストに出会うことで彼ら自身の光の輝きを二人で確認するためであったともいえるのかもしれません。

自分だけで自分をメンテナンスすることはとても大変なことです。特に信仰を持っていたとしても、いつの間にか喜びがなくなり、自己流の信仰に変わっていってしまうことがあります。キリストに祈り求めることが許されているという希望が無くなり、諦めでおとなしい信仰に変わっていってしまうこともあります。

実は私もこのコロナのことがあってからかその前からか、やはり情緒不安定になっていることを感じています。皆さまと直接お顔を会わせてお話しする機会が少なくなり、自分が今していることが本当に皆さまの助けになっているのか心配になることがあります。特に「教会」というこれまで形作られてきたものが無くなってしまうのではないかという不安もあります。この夏まさに宣教開始されてから70周年の時を過ごしている中で、未曽有の出来事に見舞われ、まだこの出来事を信仰をもって受け止めきれていない自分に気付かされるのです。

この間、ずっと祈っていた時期もありますが、最近祈る意識、或いは神の前で心を静めること、応答を求める事への意識が自分の中で希薄になっていることを感じるのです。私の中ではこれはやはり「濁り」なのです。純粋ではいられなくなってきています。今朝、妻に今日の宣教題がドキッとすると言われました。最近インパクトを持たせる宣教題を敢えてつけているわけですが、でも実は、「澄んだ目を羨む濁った目の人々へ」の人々というのは、何を隠そう私自身のことであるのです。

私たちが様々な出来事によって揺られるときに、私たちはぐちゃぐちゃにかき回されます。でも、濁りというものの性質を考えれば、その濁りは時間と共に落ち着いていきます。その時に、私たちが何の土台の上に落ち着くか、どこにその土台を持ってくるかということがやはり大切なのでしょう。私たちには土台があるということをまず改めて覚えたいと思うのです。

私は、イエス・キリストが今日の聖書個所を通して、濁りきったこんな情けない私をそれでも愛して下さっていることを伝えるために、このような言葉を残してくださったと受け止めました。私たちの光はイエス・キリストにあって消えることはないのです。むしろその光により頼んでいく時に、私たちは本当に大切なことに気付くようになります。そしてその生き方から、私たちは再びキリストの福音を輝かせていくことができるようになるのです。イエス・キリストは御言葉を通して、私たちを悔い改めに導き、真なる生き方へと私たちを招いてくださるのです。

このイエス・キリストに共に生かされて参りましょう。