〇聖書個所 マタイによる福音書 6章19~21節

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

 

〇宣教「キリストが教える最高の資産運用」

今日の礼拝では、まず2つのことを心に留めながら福音について考えていきたいと思います。一つは、昨日8月15日に記念された75年目の敗戦記念日を覚え、平和への思いを新たにすること。二つ目は、当時の大変な状況で生きる人々にキリストの平和を実現するために、その5年後となる1950年8月20日に神戸バプテスト教会の初めての礼拝が行われ、福音が宣教されたということです。これは二つとは言いましたが、一つの連続した福音宣教の出来事であると思います。

初めての礼拝でシェラー宣教師が何を語られたかは残念ながら記録がありません。恐らくは、先々週の礼拝でお話ししましたが、戦争中日本で大変な状況に遭ったギャロット先生が、「それでも神はこの日本をも愛している」ということを自らの歩みをもって伝えられたように、シェラー先生もまた度重なる空襲によってぼろぼろになっていた神戸の人々の心に活ける水を注ぐような福音を語ったのだと推測をします。代表的な聖句をあげるとすれば、イザヤ43:4「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」、またはヨハネ3:16「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」一人一人の心に響く聖書個所はそれぞれに異なりますが、しかしシェラー先生はその福音の原点であるイエス・キリストの愛を語り、実際に生きて行ったのだと思います。そしてそれが、多くの人々の心に響くものに届くものとなったのだと思うのです。

ちなみに最初の礼拝は、上筒井の宣教師館の居間で行われ、大人42名が出席しました。教会学校は宣教師館前の野原にゴザを引いて行われ、子どもが36名参加したという記録があります。神戸に到着してまだ2週間、いわば自分の生活の基盤も整っていないかのようなその短期間の内にここまで大勢を集めたということは、恐らく出会う人すべてに語り掛け、その存在を通して福音を示していかれた結果だったのではないでしょうか。昨日、この宣教の準備をしているときに、ふと思いつき、神戸教会50周年誌をパラパラめくって見ましたら、ある人が教会に来たきっかけは、シェラーご夫妻が日曜日に会堂の前で「どうぞお入りください。」とたどたどしい日本語で声をかけて来られたからと書いておられる方もいました。もちろんその礼拝には物珍しさで行った人もおられるでしょう。でもその人々の中にはシェラー宣教師に何かを感じた、或いはそこに行けば何か求めていたものに出会えるかのような思いがあったのかもしれません。事実その4か月後の12月25日のクリスマスに15名がバプテスマを受け、翌年3月に正式に教会組織が行われました。その時のメンバーの一人が当時中学3年生であった藤谷吉春さんです。当時のことはまた藤谷さんからもお話を伺いたいと思いますが、やはりシェラー先生が熱心に声をかけられたのは、一人でも多くの人にキリストの福音に触れてほしい、困難な状況にいる人々に神による平和を伝えたいという思いだったのではないかと思います。

「平和を実現する人々は幸いである。その人々は神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)のイエス・キリストの教えは、わたしたちにとってとても大切なものであります。何故ならば神の福音というものは、まさに私たちに「平和」を与え、それによって生きていくように招くものであるからです。

例えば、先週は主日礼拝の宣教を関学の中道基夫先生がしてくださいましたが、その宣教の中で用いられた出エジプト記のモーセの話は、神が強制労働に服していたヘブライ人たちの叫びの声を聞き、彼らをエジプトから約束の地、父と蜜の流れる地へと導き上るお話しでした。聖書の中に安息という言葉がありますが、それは不安や困難の中で息が詰まりそうになる中から、ほっと一息深呼吸ができるような状況や環境に神が救い出すことを意味しています。つまり、様々な状況の中で息が詰まりそうな私たちに安息をもたらすことが神の存在であり、神の福音であるのです。そしてその福音は、イエス・キリストにおいて私たちに既に示されました。イエス・キリストは「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」という約束を通して、今も私たちを様々なしがらみや抑圧から解放し、自由をもたらし、希望を示してくださることを聖書は伝えています。振り返ってみたら私たちもまた色々な囚われからの解放の出来事があったのではないでしょうか。

ちなみに日本に初めてキリスト教が伝来したのは、16世紀1547年フランシスコ・ザビエルが来日したことによってですが、その日から徳川幕府によってキリスト教禁教令が出る時までにカトリック教会の調べによるとおよそ60万のキリシタン信者がいたようです。キリシタンというと大名が有名ですが、その内の多くの人々は名もなき民衆でした。彼らは迫害に遭いました。「踏み絵を踏ませる」ということが有名ですが、それでも彼らが信仰を捨てず隠れて信仰を守っていたのは、それは武士にあらずば人にあらずともいえるような社会の中で、誰にも顧みられなかった自分のいのちを、神は尊い、大切な命であり、私はあなたを愛していると言っていたからに他ならないのです。彼らはこの約束を握りしめることで、信仰を守った、いやいわば自分自身を守り通したのだと思うのです。これは彼らの囚われからの解放の出来事です。環境は変わらないまでも心は自由だったのです。

キリスト教の福音が困難や不安から救い出し、平和を与えるものであるということは、この神戸教会の中で受け継がれています。1955年の光の丘幼稚園の設立の時に語られた趣旨には「戦災の拡がるこの東神戸一帯が光の丘と呼ばれるように」と記されています。子どもたちを始め、全ての人が世の光である。一人一人の輝きからはそれぞれ違うけれど、違っていて良い。神があなたをそのようにお造りになったのだ。「わたしの恵みはあなたに十分である。」というような聖句が思い浮かびます。言ってしまえば単純な福音です。でもその単純な福音が私たちの心に響くということは、それほど私たちは自分たちのいのちを肯定しづらい環境に生きているということなのかもしれません。

実にイエス・キリストの福音宣教は、聖書の時代でも自分の命を肯定しづらい方々に向けられていました。でも、彼らはそのイエス・キリストの言葉を信じることで安息が与えられ、生き方そのものが変えられていったのです。福音を証しするものとはそういう意味では、まさしく私たち自身であります。福音は私たちの中で息づくものであり、私たちの生き方から発信されていくものであるのです。

先週の宣教の中で「終末」という言葉が使われました。「世の終わり」ということです。日本的な考え方だと、物事は移り行きそして巡り戻ってくるというような円のような時間軸がありますが、キリスト教の時間軸は直線であり、始まりがあって終わりがあります。「終末」というとおどろおどろしいイメージを持たれるかもしれませんが、世の終わりの時に何が起きるかということではなく、私たちがその時に向かってどう生きているかを問うものであります。中道先生は、この「終末を意識することがわしたちにとって非常に大切だ」と言われましたが、それをわたしも聞いて感銘を受けました。今を生きることを意識するからです。
でもこれを、何か別のもっと違う言い方で良く言い表しているフレーズないかなと考えました。思いつきました。ちょっと古いかもしれませんがCMやバラエティでもよく使われているものです。皆さんもご存じだと思います。「じゃいつやるか、今でしょ!」という言葉です。私たちは「今」を生きるしかできません。今を精一杯生きる。信仰をもって生きる。「明日でいいや、今度でいいや。」ではなく、今を、神が与えられた自分自身で生きることを神は願っているのです。

今日の宣教題は、「キリストが教える最高の資産運用」とさせていただきました。聖書箇所を読むと、私たちの富をどこに積むかというお話になっていますが、その前にわたしたちの富とはいったい何なのでしょうか。私は最初、神が与えられている賜物のことだと考えていました。またはその賜物を用いていただく利益のことだと思っていました。でも実は神が私たちに与えている最大の賜物というのは私たちのいのちそのものであるということに気付きました。「あなたの富のあるところにあなたの心もあるのだ」と言われる通り、富とはいわば私たちのいのちのこと、それをどこに置いて生きるかということが問われていることなのだと思うのです。

資産運用と言えば、自分に与えられているものを用いて、さらなる利益を得るために行うことです。そしてその富を得るためには、自分が支払うリスクを限りなく少なくした上で、大きな利益を得ようとしたいと思うのが普通なのではないでしょうか。このような時代ですから、お金は無いよりもあった方が安心ですし、誰しも資産を増やすことに関心があると思います。しかし、イエス・キリストは、「富は地上に積むのではなく天に積みなさい」と言われます。

私たちは不安定な時だからこそ、見えるところに安心が欲しいのだと思います。でも、確かに目に見える安心というものは、不確かなこの世の中で消え失せやすいものです。虫が食うというのは自然に減るということ、さび付くのはそれ自体に価値がなくなること、盗まれるというのは敵意を買うことがあるということでしょう。

ではどうやって富を天に積むのでしょうか。善行を行って、自分の得を高めるということではなさそうです。それは地上に富を積むことになります。そうではなく、つまり自分に与えられているものを自分自身のために運用するのではなく、他者のために運用するということなのです。相手に自分を投資すると言い換えられるのかもしれませんが、もちろんそれは回収できない可能性もあります。そのように聞くと、一見損なことのように思われるかもしれません。
でも、イエス・キリストがまず私たちのために来てくださった。そしてまさにそのいのちをかけて、私たちを愛してくださった。その愛によって突き動かされた方々がいた。これが、初めの人によって起こった一連の出来事です。そしてそれぞれのいのちがささげられてきたことによって私たちが今いるのです。キリスト教の面白いところ、それはそれぞれの出会いの中で働く神の導きが、結ばれていくということにあります。実は与えられた恵みは分かち合うことで増え広がるということなのです。

私たちは、今たくさんの不安の中にいます。感染不安、悪天候、それだけでなく政情不信、自分の健康の不安ことも挙げれば色々あるかもしれません。息が詰まりそうな環境に置かれることもあります。
でも、私たちは、キリストにあって自由にされた者であります。私たちを取り巻く環境はそんなに変わらなくても、私たちは変えられるのです。新しくされたものなのです。ですから喜んで生きていくことができるのです。
70年前に最初に語られた福音。それは、神にあってあなたがたは新たな力を頂いて生きることができるというイエス・キリストの証しと、そのようなイエス・キリストを与えてくださった神への感謝であったのではないかと思います。私たちもまた、神への感謝と共に新たな歩みへと信仰をもって踏み出して参りましょう。