〇聖書個所 マタイによる福音書6:12

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

〇宣教「主イエス・キリストの祈り ④赦すことによって赦され」

私たちはイエス・キリストが教えられた「主の祈り」を共に読んできていますが、今日の箇所は、私たちにとって最も祈りにくい部分であると思います。「われらに罪をおかす者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。これはただ単純に「私たちの罪を赦してください。」という祈りではありません。むしろ、「私たちが相手を赦したように私たちの罪を赦してください」というように、私たちの決意と行動が含まれています。

さらに言えばイエスさまの言葉を考えると、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」です。こちらの言葉の方が、「我らが赦すごとく」という言葉の順序よりもストレートに心に響くように思います。つまり「既に私たちが自分に罪を犯した者を赦しましたから、それと同じように私たちの罪を赦してください」という祈りなのです。

それでは、私たちは果たしてこの祈りの言葉の通りに祈っているでしょうか。自分のことは赦してほしいとは祈りますが、自分に罪を犯す者は赦していないなんて言うことはないでしょうか。私たちは祈る時に、その意味を考え自分の言葉として祈ることが大切です。そのために今日は自分自身と向き合いながら、イエス・キリストがこの祈りの言葉に込めていることは何なのかということを考えていきたいと思います。

先ほども申し上げましたがこの箇所が最も祈りにくい原因は、まず私たちが相手を赦すという前提条件があるということです。相手を赦したうえで神に私たちの赦しを乞い願うのです。これは私たちにはとても高いハードルなのではないかと思います。どうでしょうか。果たして私たちは我らに罪を犯す者を本当に赦し、その上でこの祈りを祈っているのでしょうか。先に私たちが赦されていれば相手を赦せるかもしれませんが、相手を先に赦すことなんてできるのでしょうか。

ちなみに主の祈りでは「罪」とありますが、イエスさまの言葉では「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」です。負い目とは何かというと、直訳すると「借金、負債」です。これらは自然に発生するものではなく相手があって、その人に迷惑をかけている状況があります。しかもこの負い目は単数形ではありませんので、もろもろの迷惑を他の人にかけている状態があります。しかもその負い目について、自らはもはや何の申し開きもできないような状態です。そのような時、まさに私たちは負い目を赦してくださいとしか祈ることができません。でもイエス・キリストが神にこう祈りなさいと言われたわけですから、私たちには本当に申し開きもできないような事柄に対して神の赦しを祈り求めることができますし、その赦しを頂くことができるわけです。でも、その赦しを頂くために必要なことが実は自分に負債のある者を赦すということなのです。

この点についてマタイ18章23-35にわかりやすい譬え話がありますので読んでみます。

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

この家来が王から借りていた一万タラントンというのは、1タラントンが1日分の労働対価の6000倍と言われますから、もはや天文学的な金額です。この家来がこのお金を何に使ったのかは不明ですが、この王さまはこの家来を憐れに思い、その借金をすべて帳消しにするという破格の赦しを受けました。ところがその帰り道、彼は自分に借金している仲間に出会います。その仲間が借りていた金額は100デナリオン、100日分の労働賃金ですから、彼が赦された借金とは比べ物になりません。でもなんとこの家来はその借金を返済しない仲間を赦すことができず、彼を牢獄に入れてしまいました。そのことを知った王さまは激怒してその家来の破格の赦しが帳消しになってしまったというお話です。

もちろん借金は返さなければいけません。100デナリオンとはいえ、簡単に赦してしまってよいものではありません。しかしこの物語でもっとも大切なポイントは、この王さまがまず最初に家来を憐れに思い、借金を帳消しにしたということです。この憐れに思うという言葉は、イエスさまが群衆を深く憐れみ自らのこととして腸が千切れるほどの痛みを覚えたという言葉と一緒です。つまり彼のために王さまは自分も痛む決断をされたのです。ところがその赦された家来は、仲間のことを憐れには思いませんでした。つまり、彼は王さまの痛み、その赦しがどれほどのものであったかということに心が回らずに「ラッキー」くらいにしか思っていなかったのでしょう。でも、それは彼自身がその赦しを自覚的に受け取れていなかったということです。つまり彼にとってその天文学的な借金は負い目ではなかったのです。だから、彼は赦されたものとして赦しを行うことができなかったのでしょう。でも、この家来の姿は、はっきり申し上げて、私たちのありのままの姿ではないかと思うのです。

今日の聖書個所に戻りますが、私たちは人を赦すということは難しいことです。特にお金のことでもそうですが、その他の部分についてもそうだと思います。自分に対して深い傷をつけられた相手であればあるほど赦せない気持ちになりますし、むしろ仕返しをしたいと思ってもおかしくありません。かくいう私もやはりそのように赦せない相手がおります。詳しくお話をするととても長くなりますし気分もよくないので差し控えますが、私はこれまで理不尽な仕打ちを受けたこともありますし、いじめのような思い出したくもない経験を受けたこともありました。

やった相手はそういうことを覚えていないと思いますが、やられた方は忘れません。時々その記憶がフラッシュバックのように襲い掛かってくることがあります。「赦したいけれど赦せない。どうしたら赦せるようになるでしょうか」という相談を受けることもありますが、心情的にどうしても赦したいとは思えないことだってあるのだと思います。私たちの神に対する負い目とは、神の愛される他者を自分自身が赦すことができないことであると言えます。でも、仮にこれがすべてを赦さなければいけないということだとしたら、これはこれで暴力的ではないかと思います。実は今日の聖書個所の続きですが、14-15節にはこうあります。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

私たちがまず赦さなければ私たちが赦されることはない。これは脅迫めいた言葉だとも思いますし、このような言葉があるからこそ私たちは苦しむのです。赦せない自分がいる。そんな自分こそ赦してほしいと思うのに、私たちは赦されないのでしょうか。

私は、そうではないと覆います。

実は先ほどのマタイ18章の譬え話の前にイエス・キリストが弟子たちに対して、自分に罪を犯す者を7の70倍も赦しなさいと教えられています。(マタイ18:22)しかし、その教えの前には兄弟があなたに罪を犯したら、個人的に、或いは信頼できる者や教会と共にその兄弟に忠告をするようにと伝えています。(マタイ18;15)つまり、安易に赦すということを薦めているわけではないということに注目したいのです。また、弟子たちもそうであったように、全てを赦すなんて聖人君主のようなことは、私たちには難しいということも告白しなければいけません。

それでは、イエスさまはここで何を伝えようとしておられるのでしょうか。それは、あなたが赦す決断をする前に私があなたと共にいるということです。私にその思いを吐き出しなさい。赦せない自分の思いを吐き出し、神が私たちのために深く憐れんでいてくれることを受け止めなさいと言うことだと思うのです。相手に思いを向けるのではなく、神の愛に私の愛に生かされなさいということなのです。

赦せない思いを持つ者としての実感は、自分自身にとってその人との出来事が過去ではなく、現在進行形のままであるということです。そしてその赦せない気持ちというものは相手に対して向けられている思いなのではなく、結局のところ自分自身だけを苦しめるものに他なりません。

つまり、イエスさまは、相手のために赦しなさいということを言うのではなく、自分がその出来事から解放されていくために、むしろ自分自身のために赦しなさいと言っているのかもしれません。そしてそれができない私たちを包む神の愛に生かされていきなさい。

 

実はこの「赦し」という言葉は、「行かせる」「去らせる」とも訳すことができます。つまり、自分に罪を犯した者を自分の心から去らせるときに、自分が抱えていたもろもろの重荷から解放されるようになるとイエス・キリストは伝えようとしているのではないでしょうか。

これは私たちの決断によるものです。過去のものに捕らわれるのではなく、新しく歩みだすことができる。イエス・キリストはこのように私たちを招いてくださるのです。