〇聖書個所 マタイによる福音書6:16-18

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

〇宣教「私のしていることは偽善ですか?」

今日の聖書個所を読んで、皆さんはどのような印象を受けられたでしょうか。新共同訳聖書の小見出しには「断食する時には」と書いてありますので、今日の中心的なテーマは「断食について」だと思われた方も多いと思います。もちろん皆さんの中にも「断食」に関心がおありの方もおられるでしょう。でも、多くの方は、「断食かぁ。自分とはあまり関係がないなぁ。」と思われたのではないでしょうか。実は私も最初はそのように思いました。皆さんは断食をしたことはあるでしょうか。私はしたことがありません。具合が悪くて食べられなかったことは経験がありますが、断食はそれとは性質の違うものだと思います。このように俗的な私からすると、「断食したことあります」と言う人は、何やらとても精神的に強い人だなぁとか本当に敬虔な信仰者だなぁと思うわけです。皆さんもそのように思われるのではないでしょうか。

確かに断食については宗教的なイメージがついていて、古今東西を問わず様々な宗教で聖なる宗教的な行いの一つとして理解されています。マルコ2章には、イエスさまがファリサイ派の方々から断食について質問されている箇所があります。「わたしたちもヨハネの弟子たちも断食しているのに、何故あなたたちは断食をしないのですか。」つまり宗教的な人間であれば当然断食すると言うのです。このように質問されたイエスさまは、その返答に結婚式の譬えを引用して「花嫁と花婿が一緒にいる時には誰も断食はしない。」というようなことを言われました。私はそんなイエスさまの言葉に正直ほっとしている俗的な人間であります。

そんな私が、この箇所をどのようにお話しできるのか考えました。「断食をする人はすごい人だ、自分にはなかなかできない。」そのように告白しようとも考えました。でも、そのように思った時に、今日の聖書個所がすっと入ってきたわけです。つまりこのような断食への意識に注意しなさいということを、イエス・キリストがこの聖書個所で言おうとしていることだと感じたのです。

断食とはいったい何なのでしょうか。なんで断食を行うのでしょうか。なんで断食を行う人はすごい人だと思うのでしょうか。実は、断食の本当に大切なことは、断食を行うことではないと思うのです。何故ならば断食とは後で詳しく話しいたしますが、自分のためにするものではなく、本来は自分の食事を相手のために献げることであるからです。でも、断食をする人の中には、そういう本質的なことよりも、断食というすごいことをやっている自分自身へ意識が向くということがあるのではないでしょうか。

その中には他の人に見てもらうために「頑張ってやっています感」をぷんぷん匂わせている人もいたのだと思われます。断食は苦しいことです。でも尊いものです。だから頑張っている自分を見てほしい。ストイックに断食しているように見せかけて、実は称賛を得るための手段になり替わってしまっている。そんなものはいくら食事をしなかったとしても、断食ではないということをイエスさまは忠告しているように思うのです。

実は私は今日のこのように聖書箇所を読む中で、ちょっと思ったのですが、イエスさまがここから本当に伝えたいと思ったことは、別に断食だけのことではなく、「偽善的に見せること」への忠告なのではないかと思ったのです。それを示すかのように、聖書個所には「隠れたことを見ておられる天の父」という言葉が登場します。これは、最近耳なじみのある言葉だと思いますが、実はマタイ6章に継続しているテーマなのです。6章1節には「施しをするときには。」5節以降に「祈る時には」というテーマで、人前で行うのではなく、隠れたところにいる天の父に向けてすべてを行うようにと進めているのです

隠れたことを見ておられる神に報いてもらうためには、隠れて物事を行いなさいとイエス・キリストは言われます。でも私たちは偽善者のように、例えば「いかにも断食をしています」という風に悲壮感を漂わせながら、肉に鞭を打って「がんばってますアピール」をすることがあるのではないでしょうか。どうしても人は人の視線を気にしてしまうのですが、イエスさまは、それが本当に大切なことなのではないと言われるのです。

実は、断食というものがどうして宗教的な訓練のように受け取られたり、尊ばれるようになっていったかというと、理由があります。様々な宗教では多くの場合、極限状態に身を置き、祈りや瞑想に集中できるようになる、神に近づくことができるようになるという理由がありますが、聖書ではそういう目的で断食が推奨されているではありませんでした。聖書で断食が尊ばれる理由とは、先ほども申し上げたように本来的には自らに与えられている糧を、持っていない人に差し上げる行為であるからです。自分の身を割いて、自分自身も共に痛みを負って相手のために食事を差し出していくことが断食であるのです。だから本来であれば、糧を与える相手がいないのであれば、或いはそのような意識で行わないならば、断食とは単に一食抜くだけのものでしかありません。断食の中で一番大切なことが欠けてしまっているからです。言い換えれば断食とは相手に対して自分の心を差し出す行為なのです。ですから、聖書個所にある通り、食事を抜いて、苦しそうな振りをするだけでは既に周りからの報いを受けていることになってしまい、それは神に対しては、或いはその食事を抜くことに関しても何の意味もないのです。

断食と聞くと、私たちにはハードルが高いことのように聞こえるかもしれません。でも、断食とは言わなくても私たちも相手に対して自分の心を差し出して関わるということはあるのではないかと思います。例えば身近なところで言えば、ボランティアとか寄付とか、あるいは教会の奉仕・献金などを断食に置き換えて考えてみることだってできます。聖書個所を身近なことと置き換えて読むときに、私たちは初めて、断食という距離のある事柄が、私たちに迫ってくるように思えるのではないでしょうか。

ボランティアや寄付とは相手の為を思って自分にできることを進んで行う尊い行為です。強制されてするものでもありません。また見返りを求めて行うものではありません。もちろんその出会いの中で自分が受ける恵みというものはあります。でも、ボランティアや寄付などをするというと、決まって出てくるものが「偽善的だ」とか「売名行為」という声なのではないでしょうか。

確かに中にはみせかけだけで「いいことをしているアピール」をする人はいるのでしょう。近年頻発する災害で被災した地域で芸能人が隠れてボランティアをしに来ているというニュースがあります。隠れてやってくる人とマスコミを連れてやってくる人がおられるようですが、政治家の被災地視察も含めてそんな人がいることは挙げられます。一方で、その現場に混乱をきたさない限り、「偽善」でも見ているだけや言うだけよりはマシだという意見もあります。

「善」と「偽善」の境目は本当に難しいと思います。良かれと思ってしたことでも自分の心が相手に必ず届くともいえません。また慈善をしていたとしても、その人の心の奥底にある思い、例えば差別意識や上から目線、現場のニーズに配慮しない善意の押し付けなどが表面化してむしろ相手を傷つけてしまうということだってあります。

問題なのは、私たちは常に人の目を気にしてしまうという性質があることです。人からの称賛を求めるために支援活動している人もいる一方で、本当は支援活動をしたいのに「偽善」だと言われることが嫌だから出来ないという人がいます。でも、本当に相手のことを思って「善」を行うのであれば、他人から誹謗中傷を浴びようとも恐れる必要はないのではないかとも思います。もしその行為をすることで人から好かれたいとか、人の批判を受けたくないとか思うのであればそれは恐らく「偽善的」なのかもしれません。

長年、被災地支援や福祉活動をしてこられた方の一人に俳優の杉良太郎さんがおられます。彼はこれまで数10億円の身銭を切って、被災地支援を続けていました。東日本大震災の支援で炊き出しをしているとき、あるメディアから「これは売名行為ですか?」というストレートな質問を受けたそうです。杉さんは、「はい。偽善で売名行為です。」と返答されたそうです。そして続けて「あなたも同じことをやってからもう一度その質問をしてくれませんか。」と言われたそうです。売名行為とは費用対効果で名前を売るものですが、杉さんが個人的に行った支援活動はほとんどメディアには出ていません。効果はないに等しいものです。それでもその活動を長年続けているというのは、違ったところに目的があるからなのでしょう。でもその行いに対して批判的な声はやはり上がるのです。

イエス・キリストは言われました。「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」私はこの箇所について、人に隠れて行いなさいということの他に、他人の目を気にすることのないように振舞いなさいということだと受け止めていきたいのです。

というのは、全てを隠して行うということはとても難しいことだからです。でも確かにそういうボランティアの形が一時期流行ったことがあります。覚えておられる方もいると思います。2010年頃、伊達直人の名義で、児童養護施設にランドセルを贈る「タイガーマスク運動」が流行りました。本人の名前を隠していたわけですから、これは隠れて行われた慈善の一例だと思います。でも、実際に支援物資を受けた団体は戸惑われたそうです。そして、できれば一方通行的な善意の押し付けではなく、きちんとコンタクトをとって、本当に相手のためになる支援の形で行ってほしいという意見が出されていました。本当にその通りだと思うのです。

私たちは、自分が何かを行うことで満足してしまいます。そしてその行為で称賛されれば本望だと思います。でも本当に大切なことは、相手がいるということをしっかりと認識することだと思うのです。

「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。」
これは行いが人に気づかれないためであると共に、人に気付かせないようにするということです。それは人に気を使わせないためであり、立場の違いを作らないことです。つまり、やってあげているのではなくて、神の恵みを共に分かち合っていく関係であることが大切なのです。

断食をする人、食べ物を恵んでもらう人、どちらが偉いかということではありません。共に生きていくために神は私たちに糧を与え、恵みを賜るのです。でも、それに比べて私たちは正直に言って偽善的であります。俺のものは俺のもの、おまえのものも俺のものという世界に生きています。

でもこの世の中で、たった一人だけ自分の糧を分かち合い、共に生きていこうと招いてくださったのが、イエス・キリストであるということを覚え、その方に対しては真実に生きていきたいと思います。

先日久しぶりにある高校の団体がこの教会を見学しに参りました。観光地にある教会ですのでよくあることなのですが、コロナがあってからはかなり久しぶりのことでした。キリスト教について、教会の歴史、バプテストとは何か、信仰とは何か、ということについて話した後、質疑応答の時に良い質問を受けました。「あなたは何故信仰を持ったのか教えてください。」直球で問われるとドキッとする質問だと思いました。で私は自分の信仰を持った時のことをお話ししたのです。自分があなたたちと同じ高校生の時に父親の会社が倒産したこと。クリスチャンの父を守らない神なんて信じられないと思ったこと。それまでは神が祝福を豊かにしてくれることを信じるのが神の守りだと思っていたこと。でも、本当に大切なのは自分に何もできない状況になった絶望的な状況の中、神が希望の光として心に留まり続けてくれたことだったということ。

話している内に改めて思ったことですが、やはり私はイエス・キリストによって救われたのだと感じました。そしてこのイエス・キリストによって生かされていることをお話ししていきたいと思いました。イエス・キリストを証ししていくということ。これはお話をするたびに自分自身の心に実体験が起こります。思えば人の目ばかり気にしているようなところがありました自分にとって、神は隠れたことを見ておられる。小さな力かもしれないけれど、恐れず神さまに仕えていきたいと思いました。神は私たち一人一人に十分な賜物を与え、出会いを備えていてくださいます。共に支え合いながら歩んでまいりましょう。