〇聖書個所 マタイによる福音書6:13

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

〇宣教「主イエス・キリストの祈り ⑤我らを誘惑に遭わせず」

今日も先週に引き続きイエス・キリストが教えられた「主の祈り」を共に読んで参ります。主の祈りは毎週礼拝の中でも祈られていますが、実際に私自身も経験がありますけれども、時々その意味を吟味しないまま呪文のように唱えてしまうことがあります。でも、主の祈りは「祈り」ですから自分の言葉として思いを込めて祈ることが大切です。今日は第五回目で「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という個所についてこれを自分の祈りとするために、私自身が感じていることをお話ししたいと思います。

今日の聖書個所では「誘惑」と訳されている言葉、主の祈りでは「試み」という言葉になっています。元々のギリシャ語では同じペイラスモスという言葉なのですが、「誘惑」と「試み」には若干のニュアンスの違いを感じます。例えば誘惑と言えば、イエスさまが荒野で受けた悪魔の誘惑や最初の女性であるエバが蛇から受けた「誘惑」を連想します。聖書では誘惑を行うのは悪魔であり、その目的は、私たちを神が示されるまっすぐな道から的外れな歩みに導くことであり、まさにその言葉に引っかかってしまえば、全てが間違った方向に向かっていってしまうような心を惑わせて誘う誘惑です。英語で言えばtemptation。私たちの本能が刺激され正常な判断ができず、欲望に抗うことができなくなる状態です。

皆さんは誘惑に遭ったことはあるでしょうか。私は心が弱いのかもしれませんが、常に感じます。一番身近なこととしては、実は最近太ってきていまして、食べることを控えなければいけない、運動しなければいけないと思っているのに、目の前にあるお菓子に目が留まり、いけないと思いつつも手が伸びてしまう。少しぐらいいいか、と思っているうちに一袋すべて平らげている、その事実に我に返り、ショックを受け後悔する。でも、翌日同じことを繰り返してしまう…なんてスパイラルに陥ることがあるのです。他にも私たちの心を奪う実例はきりがありません。

私は神学校で「牧師になる前に3つのことに気をつけなさい。」と言われました。それは、異性関係、金銭欲、そして権力欲です。この三つの失敗は決して赦されないと言われたわけです。なにもこれは牧師だけに限られた話ではないと思います。でもそもそも牧師になるとは、ある意味で言うと、そういう欲望を諦め、すべてを神さまに献げていくまさに献身をするわけですが、でもそういう者でも、すぐにそういう誘惑に負けそうになるのです。

有名人の薬物問題、不倫問題なんて見ていると誘惑に陥り、すべてが破滅に向かっていくなんてことをよく見聞きするわけですが、それは決して他人ごとではありません。わかっているんだけれどやめられない状態があるのです。そんなときに思うんです。誘惑に打ち勝つことは容易ではないことです。むしろ誘惑に打ち勝つことができると思っているんだとしたら、その時はまだその問題の深みに気付いていない状態だと思うのです。誘惑に打ち勝つのは自分では無理なのだと理解することから始まります。そして自分が誘惑される状況に身を置かないこと。逃げることが大切です。

イエスさまは御言葉によって誘惑に打ち勝ちました。でもそのようにはできないのが人間であることをまさにエデンの園のエバは象徴しています。その手に取った果実に魅惑され、決して食べてはいけないと言われたその神の言葉を自分流に解釈し直してしまうのです。ですから私たちは、まさにイエス・キリストが言われたように「天の神様に誘惑に遭わせないように、悪より救い出してください」と祈るしかないのだと感じます。

一方で、「試み」という言葉ですが、これは「試練」として考えることができます。有名な言葉としては、Ⅰコリントの信徒への手紙10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
ここに出てくる試練が、ペイラスモスです。英語では「TrialとかTest」と訳されることが多いですが、これには誘惑が持っているような「心を惑わせ誘い出す」という意味合いはありません。むしろ、積極的な意味で用いられています。例えば「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」かのような試練です。実は聖書にはこのような意味の試練が多く出てきます。例えば、ヘブライ人への手紙12:5-6には少し言葉は違いますがこのように書かれています。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」

よくよく考えるとイエス・キリストが受けた荒れ野での誘惑も、これは悪魔の言葉はまさに誘惑そのものでしたが、実はこの誘惑を受けるように導き出したのは神の聖霊でありました。つまり、これ自体がイエス・キリストにとって「試練」であったわけです。そしてイエス・キリストがこの試練を無事に乗り越えた結果として、「天使が来てイエスに仕えた」、そしてメシアとしての働きが始まっていったのです。

他の聖書個所でもそうですが、聖書は神が人に試練を与えると書きます。ヨブ記のように、まさに直接的に神の試みを受けられる話もありますが、多くの場合神が与えたというよりは、人がその自分自身に起きた苦難を神からの試練と受け止めて乗り越えてきたのです。特に聖書の時代に起きていた迫害は典型的なものです。もちろんその困難は歓迎されるべきものではありませんでした。しかしその苦難を耐え忍んだ時に、栄光を受けるというような希望が見出されるようになっていました。それが「苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む」というような言葉に表されているのです。でも、人が他の人の苦難を見て「これは神が与えた試練だ」ということは、できません。自分自身がそれを感じて、主との対話と伴いによって再び立ち上がる時が与えられることが大切なのです。

さて、これまで誘惑と試練についてお話してきました。誘惑については逃げる他ないものだけれど、試み(試練)は、時として歓迎されることのように聖書に書かれていることをお伝えしました。しかしイエスさまは、「われらを誘惑や試みに陥れることなく、私たちを悪い者から救ってください。」と祈りなさいと言います。何故試みについても神に祈ってはいけないと言うのでしょうか。それは、試みでさえ私たちにとってままならないものであり、それを求めることは神を試みることになるからです。

実は私はかつて、神さまに「わたしを試みてください」と祈っていた時期があります。それは私の青年期、まさに神さまに身を献げて生きていきたいと思い始めた時期です。詩編139:23-24にこのような詩があることをご存知でしょうか。「神よ、私を究め、私の心を知ってください。私を試し、悩みを知ってください。ご覧ください。私の内に迷いの道があるかどうか。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」この賛美はダビデの詩と言われますが、まさに神さまに私自身の心を探り知って、その真実な思いを知ってくださいという祈りであります。自分自身をもって神を試みる言葉でもあったと思います。でも、自分自身は神に対して真実に生きてきたつもりでありますので、そのように祈ったわけです。

ダビデもそうだったのでしょう。ところがダビデはその後バテシバという女性と不倫した挙句、子どもができたことを知ると、不倫の事実を無くすためにバテシバの夫であるヘト人ウリヤを殺しました。この一連の出来事が預言者ナタンを通して糾弾されると、ダビデは初めて自分自身もまた罪深い偽善者であることがわかったわけです。

私もまた、同様でした。私はその思いをまっすぐなものであることを認めてほしかったのです。でも、振り返ってわかったことですが、実はその祈りを口にすることが、自分自身の心を神に献げると言うよりも、その行為を通して多くの人の称賛の声を求めることであったことを思い知らされました。またこれは神を試みることであることに気づきました。まさに私たちは神が与える試練以外に、その試練を通して何かを求めてはいけないのです。

だから、イエス・キリストは試みに遭わせず悪より救い出したまえと祈るのです。何故ならば彼こそがその試練の厳しさを知っているからです。メシアとしての働きをする前に行われた40日40夜に及ぶ空腹、何も自分を守るものがない荒れ野での極限状態。その中で食事や身の守りや経済的な祝福を与えると言われたら、皆さまはどうされるでしょうか。恐らくそれらは私たちが喉から手が出るほど欲しいものであります。悪魔の誘惑は実に巧妙かつ狡猾です。「自分を拝めば、神の言葉を試せばこれらすべてのものを与えるよ」というのです。これに対してイエスさまは神の言葉により頼むことを教えています。食事や身の守りや経済的な祝福のために生きていくのではない。神の言葉によって生かされていくのだということです。誘惑や試みに遭う時に私たちにとって本当に必要なものは、神の言葉により頼むことであることをイエスさまは伝えているのです。

そのように考えると、私たちが聖書の中で唯一神を試みることが許されているとよく言われる「献金」に対しても、印象が変わってきます。マラキ書3章10節には、このように書かれています。「10分の1の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって私を試してみよ、と万軍の主は言われる。必ずわたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」

これもまた神を試みるというよりも、神の言葉に従った時、あなたがたに与えられる祝福に心を留めなさい、ということなのではないかと思うのです。

最後になりますが、ですが、祈りを日本語で表現するとどうしても「・・・ください」という懇願の形になりますが、実は聖書本文は命令形で書かれています。直訳すると「あなたは私たちを誘惑(試み)に遭わせてはいけない。あなたは私たちを悪から救い出しなさい。」となります。この祈りは懇願というより、むしろ子どもたちが「アッバ(父ちゃん)、助けて!」「父ちゃん抱っこして!」というような切実で悲痛な叫びであるように思うのです。神は必ずや愛する私たちの祈りに応えて手を差し伸べてくれるでしょう。

イエス様は、私たちに神に信頼し、祈りなさいと言われているのです。誘惑に遭わせず悪より救い出したまえ。それは私たちを神の御言葉から引き離すものです。そこに留まってはいけない。そこからの救いを祈りなさい。神は必ずあなたがたを助け出してくださる。そして神が与えられるあなたへの御言葉によって生きていきなさいと言われるのです。

今日はこれから主の晩餐式を守ります。命のパンでありぶどうの木である主イエス・キリストの体と血を共に分かち合うことは私たちが、イエス・キリストによって生きるというという告白でもあります。主の晩餐にはすべての人が無条件で招かれています。どうぞその招きに従って共に受け取って参りましょう。