本日より教会堂での礼拝が再開されますが、まだしばらくお休みされる方々のために礼拝メッセージをアップします。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「隠れたことを見ておられる神」【西脇慎一】

〇聖書個所 マタイによる福音書6:1-4

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 

〇宣教「隠れたことを見ておられる神」

宣教の初めに、先ほど共に読んだ交読文詩編133編1節についてお話をしたいと思います。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」という聖句です。

この聖句は、まるで「兄弟たちが共に集っていることの麗しさ」を歌っているかのように感じますが、実はもっと深い意味があります。この歌は「都に上る歌」であるということです。イスラエルはその歴史の中で国という形を失い、それぞれバラバラなところに暮らしていたという経緯があります。イスラエルが「離散の民」と呼ばれる所以です。でも彼らは年に3回、過越祭、七週祭、仮庵祭の時に、エルサレム神殿に来て献げものをすることが決められていました。偶然ですが、先週のペンテコステはちょうどその内の一つ七週祭に重なる時でした。なので、人々が各地方からエルサレムに来ていたわけです。先ほどの聖句「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」というのは、実に神殿に献げ物を献げるために各地方からエルサレムに集ってきたときの再会の喜びの様子が書かれているのです。彼らは普段はそれぞれの場所に住んでいて、今とは違い電話もメールも手紙もありませんでしたので、お互いの消息を知ることはできませんでした。でも、エルサレムで顔を合わせる時、お互いの無事を確認し、神に感謝を献げ、共に交わりを楽しむのです。これは、心待ちにしていた神の民の再会の出来事を喜ぶ歌なのです。

この聖句はヒネマトーブという歌にもなっています。ヒンネ―(さぁ)、マ(なんて)、トーブ(良い)、シェベット(座る) アヒーム(兄弟)、ガム(共に)、ヤーハッド(ともなる、連なる)直訳すると、「なんてすばらしいのだろう。兄弟が共に座っていることは。」という歌です。

再会の喜びは今、わたしたちも感じているところだと思います。私たちは本日、約3カ月ぶりに教会での礼拝を再開します。コロナ禍で外出もできず、お互いへの連絡もなかなかできませんでしたが、ようやく共に教会に集い、顔を合わせ、礼拝を献げることができるのです。もちろん、いましばらくの間は分散礼拝が続きますし、濃厚接触は避ける時期です。また今日は密を避けるためにオンラインで礼拝を守るという選び取りをしてくださった方々も多くおられますが、やはり共に礼拝を守れることはとても嬉しいことですね。これまで私も皆さんにも心配されましたが、一人で誰もいない礼拝堂に語り掛けるのではなく、皆さまのお顔を前にお話ができる喜びを感じています。

久しぶりなので、若干緊張もしていますが、やはり嬉しいですね。来週お会いできる方はまた楽しみにしております。主の名によって共に集うことができることを感謝しつつ、何の不安も心配もなく皆さんで集まることができる時まで祈り続けて参りたいと思います。

 

それでは、今日の聖書個所に入ります。今日は、イエス・キリストの山上の説教の続きです。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」と言います。

こう聞くと、恐らく「人前で善行することがいけない」と言われているように思いますが、この聖句を直訳すると、イエスさまが言おうとしているポイントが明確になります。

「あなたがたは気をつけ(注意し)なさい。あなたがたの正しさが他の人に向けて見せるものとならないように。そうでないと天におられるあなたがたの父から報い(報酬)が受けられません。あなたが施し(慈善)をするとき、あなたの前でラッパを吹いてはならない。まるで偽善者たちが、会堂や通りで行い、人の前で光を輝かせるために(ほめられるために)するように(してはならない。)。まことに私はあなたがたに次げます。彼らは報いを既に受けている。」

イエスさまが恐らくここで伝えようとしていることは、あなたの正しさを他の人に向けて見せるものにしてはいけないということです。その具体例が善行であり、施しでありますが、人に見せるために行うすべての行為について注意しなさいと言われているように思います。

例えば善行や施しをする場合、その目的は自分が人々から称賛を受けることであり、その行いは全部自分に返ってくるためになされるものです。相手のためになされるものではありません。日本の言葉でも「情けは人の為ならず」とありますが、これもまた「情けは人のためにするのではなく、自分に返ってくるためにするものだ。」という意味です。でも、イエスさまはそうであってはいけないと言うのです。それは偽善者のすることである。偽善者という言葉は「俳優」という意味でも使われます。本当の自分ではない姿を偽るという意味でしょう。人前でラッパを吹くというのは自己顕示欲を満たすことを指す当時の言い回しです。そのようにして人からの報いを受けるためにしてはいけない。むしろ、あなたがたは、右手のすることを左手に知らせないようにしなさい。これは、相手のためになされる善行を自分自身で意識して行ってはならないということなのです。そうしたとき、隠れたことを見ておられる神があなたに報いてくださるというのです。

さあ、皆さんはイエスさまの教えをどのように受け止めるでしょうか。私は最初正直に言ってこれもまた難しいことだと感じました。何故ならば私たちは何か自分が行動するにしてもやはり周りからの評価を求めたいと思うからです。私たち人間は計算高く、見返りなしに善行を行えるほど純粋に出来ていないのではないかとも思うわけです。創世記のカインとアベルの物語では、二人とも献げものをしたのに、神に顧みられなかったカインが弟アベルを殺すという物語があります。見返りなしに献げることの難しさを感じます。人間はやはり自分に利するように造られているように思います。

私自身、善行というわけでもないですが、教会に来られる方々を乗り掛かった舟でお助けすることがあります。しかしそういうことをしている自分自身が誰かに評価されることを期待している心が時々芽生えてくることもありますし、そういう思惑から完全に逃れることは困難です。もちろん、評価されるためにしているわけではありませんが、でもイエス・キリストはそんなことを意識せずに、善行を行いなさいと言われるわけです。それでこそ神からの報いが受けられるというのです。

私は最近、私はこの言葉を黙想する中で、とても難しいだなぁと感じます。神の報いを期待する一方で、人の報いも受けたいということが私たちの本音なのではないでしょうか。でも一方で、この世の中には本当に自分の正しさを他の人に向けて見せるために行っている人々の姿が多いことに気づきました。神の報い、つまり真実や誠実さとはかけ離れて人にポーズだけ見せている方々が多いです。

今週のニュースを見てみると、先日亡くなられた横田滋さんや韓国では従軍慰安婦であった方々も、そのような人に見せる正義のアピールの犠牲者となったともいえるかもしれません。両者ともその支援を約束していたそれぞれの団体に期待していたけれど、結果は出ずに騙されていたからです。とりわけ、このことには触れないではいられません。皆さんはアメリカでデモが起きていることをご存知でしょうか。白人警官が黒人容疑者の首に8分乗り掛かっているビデオがネットに流れ、彼が病院に搬送された後死亡したというニュースが流れるやいなや全米各地で人種差別問題反対のデモが起きました。これには経済格差やコロナ対策の不満なども含まれていると言われています。

これに対しドナルド・トランプ大統領は、ツイッターでデモ参加者を煽った挙句、ホワイトハウス近くにあるセント・ジョーンズという聖公会の教会に行き、聖書を片手にアメリカの安全を守るために、暴動の鎮圧を軍隊に命じるというアピールをしたことがニュースになりました。ちなみに、このことに、一番激怒したのは、その聖公会の教会のエリアを担当する主任司祭でした。その怒りは当然だと思います。教会の中に入って祈るわけでもない、聖書を読むわけでもなかったそうです。そもそも聖書が語るのは分断や暴動の鎮圧ではなく、平和や和解を求めることです。そして、大統領であるならば、何故このようなことになったのかを冷静に考え、むしろ自らに悔い改めを促すものであります。しかし、トランプ大統領はいわば教会を利用し、聖書を利用し、神を利用して、訴えの声をあげている人々を力で押さえつけようとしているわけです。それが神の御心であるかというように。私は正直、自分の正しさをアピールするために、色々なものを利用する人間のおぞましさを感じました。

でも、振り返れば、色々な危機的な状態を利用して自分が「やっている感」を出して人気を得ようとしている人々もたくさんいます。これは自分の善行を人に見せるためにしていることと同じではないでしょうか。問題は、見せるためにすることと本当にその人のためになっているかということが違ってきているということなのです。

もちろん、私も自分も自分の正義を主張したいと思いますし、そのことによって人からの称賛を得たいと思う気持ちがあることを否定ません。でも偽善者たちが自分の前でラッパを鳴らすという行為は自分では気づかなかったとしても、冷静に見た場合とても愚かしいことを感じたのです。それは結局のところ、自分自身のために他の人を利用してしまうことにしかならないからです。

それでは、イエスさまが言われるように私たちが人からの評価を求めないで、何か行動するということがあるとすれば、それはどういうときでしょうか。それは、私たちが自分のために行う時であるように思います。本当にその人のためになることは、自分自身の事柄になるのです。人の目を意識しないで何かの行いをする場合も、それ自体が自分の事柄であったときではないでしょうか。

つまり、イエスさまは、善行をするとき、自分の事柄として相手に行なっていきなさいと言っているのです。善きサマリヤ人が倒れている人を自分の事柄のように介抱していったように、良いことをするために行うのではなく、まさに自分自身のこととして行うのです。これこそ、神が喜ばれること、まさに「隣人愛」と呼ばれるものなのではないでしょうか。

パウロはコリントの信徒への手紙の「愛の賛歌」で、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ私に何の益もない。」(13:3)と言います。しかし、愛のない私たちにはそんなことはできないと思います。でも、唯一イエス・キリストがこれをわたしたちになされたのです。

イエス・キリストは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱っているのを見て、深く憐れまれました。」つまり、わたしたち一人一人の苦しみをご自分自身のこととして受け止めているのです。そして、私たち一人一人の命が輝いて生きるために、イエスさまにそのいのちを捧げてくださるほどに愛してくださったのです。そしてそのイエスさまは、いまペンテコステに与えられた聖霊を通して私たち一人一人に語り掛けてくださっています。聖書の言葉とは、今を生きている私たちに語り掛け、そのいのちを生かしていく愛の言葉であるのです。

私たちは礼拝を再開したとはいえ、まだまだ続く困難の中にあります。それぞれ違う課題を抱え、いまを生きています。イエス・キリストは、そんな私たちを励まし、支えてくださるお方なのです。皆さまの新しい一週間の歩みの上に、主の恵みと導きと守りがありますようにお祈りいたします。