宣教題:「主イエス・キリストの祈り② 御名と御国と御心を」【西脇慎一】

〇聖書個所 マタイによる福音書6:9-10

「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」

〇宣教「主イエス・キリストの祈り ②御名と御国と御心を」

今日は、先週の説教に引き続き、イエス・キリストが教えられた「祈り」について共に読んでまいりましょう。先週は「天の父への祈り」と題してお話ししました。振り返りとしては、イエス・キリストが教えておられたことは、偽善者のように祈ってはならないということ。つまり本来の自分自身を隠して祈ることに注意しなさいということでした。私たちは時々なにかかしこまったような祈り、上手な祈り、人に聞かせられるような祈りをしなければいけないと考えてしまうことがあります。でもそうであってはならない。むしろ、祈りとは自分の心の奥底にある祈りをあるがままに神に捧げることであるとイエスさまは言われるのです。イエスさまが神にアッバ、お父ちゃんと呼びましたように、私たちも神にアッバ父ちゃんと呼びかけ、祈りなさい。神は必ず私たちをあるがままに愛し受け止めてくださる。それによって、私たちは隠れたことを見ておられる神の報い、すなわち神との本質的な出会いに至るのだ、それがイエスさまの教えられた本当の祈りであるということをお話ししました。

今日の聖書の箇所は、その続きです。通常私たちが祈る主の祈りでは「天にまします、われらの父よ」の続きは「願わくは、御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」となっています。でも聖書の箇所を読んでみると、「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」となっています。ここで2つのことに気が付くかと思います。

まず一つは、実は聖書には「願わくは」という言葉はないということです。「願わくは」という意味を皆さんはどうお考えでしょうか。私は「もし出来る事でしたら崇めさせてください。」みたいなやや後ろ向きなイメージを抱くのです。でも、祈りにおいて「もし出来るのでしたら」という消極的な祈りはないと思います。イエスさまは、マルコ9章で「できれば、というのか。信じる者には何でもできる。」と言われました。祈りにおいては、もっと積極的に求めていくことがわたしたちにはできるのです。

二つ目のポイントですが、イエスさまが教えられたことをもう少し丁寧に見ていきます。9-10節のギリシャ語原文を見てみると、これは3つの別々の祈りなのではなく形式的には並列に繋がっています。直訳するとこうなります。「崇めさせたまえあなたの名前を。来たらせたまえあなたの国を。なさせたまえあなたの心(意思)を。天におけるように地の上にも。」。主の祈りでは、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈りますが、私は「天におけるように地の上にも」は3つにかかっているように思います。ですから、もっと丁寧に訳すとしたら「天におけるように地の上にも、御名があがめられますように。天におけるように地の上にも、御国が来ますように。天におけるように地の上にも、御心がなりますように。」という祈りなのです。

イエスさまが主の祈りで、天におられるアッバ父ちゃんを賛美し、地の上にもことごとくなるように祈ることを教えられたことは極めて大切なことです。何故ならば、私たちは日常的に自分の必要を求めたり、不安からの救いばかりを祈り求めたりしますが、まさしくそのような私たちに本当に必要なものは、イエスさまが「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(8節)と言われた通り、本当に必要なものは神御自身であるということを教えるからです。私たちが神の御名と御国と御心を求める事こそ、実は私たち自身の根源的な救いに繋がるのです。

何故か。その理由をこれから「御名と御国と御心」の3つのポイントでお話ししたいと思います。

まず一つ目、「御名を崇めさせたまえ」ですが、御名とは神さまのお名前のことです。「御」とつくと仰々しい感じがしますが、ギリシャ語では普通の「名前」を現わす名詞です。神の名前があがめられるようにということです。崇められますように。誰から崇められるのでしょうか。それはまずは私たちでしょう。では、崇めるとはどういうことでしょうか。辞書を調べてみましたら2つの意味がありました。一つは崇拝、極めて尊いものとして敬うことです。もう一つは大切にすること、寵愛することです。なるほど確かに聖書には神の御名をみだりに唱えてはならないとありますが、まさしく神の名前を尊いものとして大切にすることが神の御名をあがめることになるのです。

さてそれでは、私たちは神を崇めているのでしょうか。神の名前を大切にして、汚すことのないようにしているでしょうか。むしろ神の御名をみだりに唱えていないでしょうか。神の名を都合よく利用してはいないでしょうか。私たちは神を信じますと言いながら、神を信じているようには生活をせず、むしろ口を開けばうそをつき、時には神の名を騙って誓ったりして、神の名を汚してしまうことがあるのではないでしょうか。私たちは、神の御名が天におけるように地の上にも崇められるように、果たして本当に神を崇めているのでしょうか。

私自身のことを振り返って考えてみますと、残念ながらそうではないと思います。皆さんはわかりませんが、私には神の御名をあがめることができているかわかりません。むしろ時々、私などが牧師になっていてよいのだろうかと思うこともありますし、多くの人の躓きになってはいないだろうかと思うわけです。もちろん、こういうことは心配しても尽きないものであります。でも、私は心配していません。何故ならば、私にはできなくても、神ご自身が神の御名を崇めさせてくださるからなのです。

どういうことかというと、神はイエス・キリストを通してこんな私に伴っていてくださるのです。神をあがめることさえできない私さえに神は「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる。」と宣言してくださっています。そして、私に必要なものを日々与えてくださるのです。そのような神の愛によって、神の御名はますます地の上で崇められるようになっていくのです。だから大丈夫なのです。私が崇めるより先に、神が働き、こんな至らない者さえ愛してくださるという神の御名が崇められるようになるのです。そして私たちもまたそのような神の伴いにおいて、神を崇める者へと変えられていくのです。

私は先ほど、「願わくは」という言葉について、「後ろ向きのような祈り」だと言いましたが、実は祈ることさえおこがましいような私たちでも祈ることが許されている。祈ることが許されている者として神に願い続けてよいのだという意味があるのかもしれません。

また、崇めるという言葉は「名前を聖とする。」とも訳すことができます。いくつかの英語訳の聖書では、この「聖なる」をHolyと記しています。HolyとはWholeすなわち全きものです。汚れから清めてくださるということではなく、神は全き者として常に私たちをありのままで愛してくださるのです。

続く2つ目のポイントである「御国」とはそういう神の愛の国であると思います。「御国」とは神の国とも言われますが、ギリシャ語を直訳すると、「神が王として治められる国」のことです。神の国の秩序と、その法は愛です。私たちは罪深い者であるかもしれませんが、御国はそのような者たちでさえ、いやそのような者たちこそ招かれるところであり、私たちはその神の支配の中で心が満たされ、生かされていくのです。

 

御国がどのようにやってくるか、ということは重要です。私たちは御国がやってくると聞くと、イエス・キリストが再びやって来られる時のように、この全世界が新しく作り変えられる時を考えるかもしれません。しかし、イエス・キリストにおいて、御国は既にやってきているのです。イエスさまの福音の第一声は、「悔い改めよ、神の国は近づいた。」でした。この言葉は悔い改めという言葉に大変インパクトがありますが、心に留めたいことは、まず悔い改めることさえできない私たちに一方的に神が来てくださる出来事であります。私たちの悔い改めに先立って、神の一方的な招きがある。それによって私たちは悔い改め、つまり方向転換していくことができるのです。

またルカ17:20-21でイエスさまは言われました。「天の国は見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」つまり、全世界の救いというものは見える形で、いついつやってくるものではない。まさに天の国は既に神によってあなたがたの間で始まっていることなのだと言うのです。私は、これこそ教会の働きでありその存在理由なのだと思います。

コロナによる自粛要請が始まってから、私たちは教会で共に集うことができなくなりました。私は、この間に教会とは何かということを考えさせられました。こんな困難の時こそ集まって祈りたいと思うわけですが、会うことが許されない中で、教会も牧師も直接的には皆さんの何の力にもなれませんでした。しかし、神は違いました。ふと思いました。元々教会は「エクレシア」つまり、「主によって召された人々の群れ」であります。私は、教会で共に集うことができなくなっても、神が皆さまと共におられました。そして歩みを信仰によって守ってくださったことを感じました。またこの教会の交わりができなくなったように思えて、そうではなく、むしろ互いに互いを覚え祈り合う「共同体感覚」というか「繋がり」が強まったことも、ここに神の国があることを現わしているように思いました。

もちろん、教会だけが神の国なのではありません。また教会にも色々と問題は起こります。違いを持った人々の集まりですから当然です。でも、私たちの中心には神がおられ、私たちはその神によって繋がっていることを感じたのです。私はこのことをとても嬉しく思いました。そしてこれこそ教会であると思いましたし、この神を広く皆さんにお知らせしたいと思いました。教会の働きというと、何かしなければいけないように思うかもしれません。でも、そうではなく、何もできないような私たちが神の愛によって生かされていること、生かされていてよいのだということを感じることが教会の使命であり、福音宣教なのではないかと思ったのです。

何故ならば最後のポイント、神の御心とはそのように私たちすべての命を肯定し、包み込むことであるからです。主の祈りでは「御心を為させたまえ」と言い、私たちが御心を行うことができるように祈っているように思えますが、御心がなりますようにという意味です。そして実に御心を為すことができるのは人ではなく、イエス・キリストご自身であります。

イエス・キリストはヨハネ福音書で十字架に架けられた時、最後に「成し遂げられた。」と言いました。何を成し遂げたのか、それは神の御心です。神の御心とはなんであったのか、それは最も小さな存在のいのちにさえ、自分の命の限りに愛しぬく神の愛の姿です。イエス・キリストはこう言われます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない。」(マタイ18:14)イエス・キリストの死についてヨハネ福音書は、まさに「善き羊飼いはその羊のために命を捨てる」ことであったと言います。つまり、私たちのいのちの守りのために献げられたいのちであったのです。たとえそれが、どこかに迷い込んだ羊であろうが、自己責任であろうが、どこまでも探し出して見つけ出す羊飼いの愛なる姿です。必要のないいのちなんてどこにもない。あなたを愛するために私はいるのだ、という強烈なメッセージです。

そして私たちはこのような神の御心によって救われたものです。そして、私たちは神の御心に救われたものとして、神が願っていることを共に祈り求める者でもあります。でも、「御心を為させたまえ」という祈りは難しいです。何故ならば、時に自分の思いと神の思いが相反するときがあるからです。でも、そのような時にイエス・キリストの言葉が聖霊を通して、私たちの心に突き刺さります。しかし、そのようなときこそ、私たちはまた神との対話が始まるのです。

私たちは、そのような時にこそ、イエス・キリストによって招かれた者たちであるということに心を留めたいと思います。そして改めて神の国と神の義をまず求めなさいということを考えていきたいと思うのです。今日はこれより主の晩餐式が行われます。主イエス・キリストの裂かれた体と流された血が私たちのためのものだったということを改めて覚え、パンと杯を分かち合います。これが共に生きていくように招かれたものであったということを改めて覚え守って参りましょう。