〇聖書個所 マタイによる福音書6:11

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」

〇宣教「主イエス・キリストの祈り ③我らに日用の糧を」

私たちはイエス・キリストが教えられた「祈り」の第三回目で「われらに日用の糧を今日も与えたまえ」という部分を共に読んでいきましょう。皆さんはこの祈りをどのような気持ちで祈っているでしょうか。私は昔、この祈りについて、日用の糧を、日曜日の糧だと勘違いしていました。なるほど「教会に来る人たちは、日曜日は忙しいから神さまどうぞご飯を用意していてください。」という祈りだと思っていたのです。現に実は先週は礼拝後に役員会が開催されましたが、Zoomというオンラインサービスを使って行われましたが、なんと5時間に及びました。皆さん、ご飯は大丈夫でしたでしょうか。でも、日用の糧は、日曜日の糧という意味ではありませんでした。

「日用の糧」とはその日一日に用いられるどうしても必要な食事のことです。「日用の糧を今日も」というと、どうしても「毎日ください」という安定を求める祈りのように思えてなりません。でも、イエスさまが教えられた言葉で言うと、「わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい」です。ここには教えられた主の祈りと少し異なる印象を覚えます。この箇所の聖書本文を直訳するとさらにわかりやすいと思います。私が訳したところ、「私たちにこの日にどうしても必要なパンを、今日私たちに与えてください。」となるからです。「この日にどうしても必要なパンを今日」という言葉を見る時に、実はこの祈りは非常に緊急を要している切実な祈りであることが分かります。ですから、ここに込められている祈りをさらにわかりやすく意訳すると「天のお父ちゃん、今日わたしはおなかがペコペコで何も食べる物がありません。助けてください。ご飯をください。」という意味になるのではないかと思うのです。さてそれでは皆さんは、今日一日の食事に困り、ご飯をくださいと祈ったことがあるでしょうか。

先週6月23日には沖縄の慰霊の日がありましたが、戦中・戦後初期を経験された方は「ご飯をください」という切実な祈りの言葉を口から発したことがあるかもしれません。特に敗戦後、食べ物が何もないときは、大変だったということはよく耳にするところであります。現代の私たちにはなかなか想像もしづらいことではありますが、特にこの神戸が舞台となっているスタジオジブリの映画「火垂るの墓」を見ると、アニメ映画ではありますが切実な様子がありありと見て取れます。ご存知の方が多いとは思いますが、少しだけストーリーを振り返ります。

1945年に起きた二度の神戸大空襲で済む場所や両親を失った14歳の主人公清太と4歳の妹節子は、戦後の食糧難の時代を生きていました。初めは親せきの家に住まわせてもらいましたが、実子との差別を受け邪魔者扱いをされるようになります。居づらくなった二人は西宮満池谷の防空壕で生活を始めました。妹を養うため、清太は頑張りますが誰からの支援も受けられず、畑で大根を盗んだり、火事場泥棒を働いたりしてまで食料を得ようとしましたが、次第に妹節子は栄養失調で弱っていき、最終的に亡くなってしまいました。そして、最終的に清太も寝起きしてきた三ノ宮駅の構内で衰弱死を遂げるという、非常に救いのない悲しいストーリーです。

私は涙なしにはこの映画を見ることができませんでしたが、同時に強いショックと恐怖を感じました。何故ならば、わたしたちは戦後70年を迎え、飽食の時代を過ごしています。現代社会では、よほど経済的な困窮を経験した方でも、セーフティネットがあります。選り好みしない限りは、経済的な困窮はあっても食事に困るということはないと思うのです。実は私も経済的な困窮を経験したことがあります。昔私が高校生の時に、父の会社が倒産した時のことでした。幸い私の祖父母の家が新潟で田んぼや畑をしていたので、ご飯を食べることに困ることはありませんでした。また地域に助けてくれる場所もありました。よく、近くのパン屋さんにパンの耳をもらいに行きました。でも、パンの耳をもらいに行くということは、思春期真っただ中の私にとって、とても恥ずかしいことであったことも覚えています。しかしこれが私にとって、「おなかペコペコなんです。お願いですから、ご飯をください」という祈りに他ならなかったわけです。この祈りは、私たちの手ではもはやどうしようもないという中で、神に助けを乞い願う祈りに他ならないのです。そして結果的に多くの方々のご好意によって私たちの食事は守られたのです。

でも、戦争によって引き起こされた世界はそう言うものではありませんでした。どこにも十分な食べ物がないのです。分けてあげられるものがないのです。映画とはいえ、食事に事欠き若くして衰弱死に至るということが恐らく現実にあったのです。これが私のリアルとは違いすぎ、受け止めることができませんでした。でも、こういうことが起きてもおかしくない状況を引き起こすものが戦争であることを知りましたし、戦争は二度と起こしてはいけないことであると感じました。

どうしたらみんなが平和に暮らすことができるのか、実は、今日のイエス・キリストの祈りの言葉の中に、もう一つのポイントがあります。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」糧というのは、単語としては「パン」です。私たちに必要なパンをください。というわけです。しかも、このパンはたくさんのパンではなく、単数形です。でもこの祈りの主体は、わたしではなくわたしたちなのです。つまり、一日に必要な一つのパンをわたしたちで用いるようにイエスさまは教えておられるのです。でも、わたしだけだったら一つのパンでも十分かもしれませんが、私たちに一つのパンでは少なすぎるのではないでしょうか。私たちが持っているものが例えば有り余る食事があれば分かち合うことはできるかもしれませんが、一つのパン、これを分かち合ったら私自身の必要にも足りなくなってしまうような中で、私たちはそのパンを分かち合うことができるのでしょうか。

私は、自分の経験上、それがとても難しいことを知っています。私は一卵性双生児の弟を含め、5人兄弟の家族で生まれ育ちました。先ほど私たちの家の経済的な問題について触れましたが、食べる物はありましたが、決して満たされているわけではありませんでした。大皿で料理がでてくると、即座に奪い合いが始まるのです。弟の方が量が多いとか難癖付けて、自分の取り分を有利にすることばかりに知恵を使っていました。まして好きなご飯が出たら、それを一人占めしたくなるのです。そしてその結果、いつも犠牲になるのが姉であり、妹でした。食べ物の恨みは忘れがたいものだそうで、いまだに根に持たれています。

でも、イエス・キリストはこの祈りを「わたしたち」の祈りとして私たちに教えています。最初に申し上げた本文の直訳から考えると、「私たちにこの日にどうしても必要なパンを、今日私たちに与えてください。」私たちという言葉が重ねられていることから考えると、やはりこれは、自分自身を中心に考えやすい私たちにとっては忠告なのでしょう。それでは、イエスさまは私たちにこの祈りをどう祈れと言うのでしょうか。

実は、イエス・キリストも空腹を経験したことがあります。公生涯を始められる前に荒れ野でサタンの誘惑を受けられた時のお話です。40日40夜の断食、しかも荒れ野という危険で自らの命を守る者が何もない極限状態の中で、イエス・キリストはサタンから誘惑を受けられました。「あなたが神の子であれば、この石をパンに変えてごらんなさい。」このサタンの誘惑は実に巧妙です。何故ならば、私たちが祈り求める救い主像というものは私たちに必要な食事や経済を与え、心にある不安を解消し、その歩みを守られる方であるからです。イエスさま当時の食糧事情がどうだったのかは分かりませんが、5000人の給食の話を見る限り、貧しい人々はやはりその日の生活さえかつかつであったと思われます。であるとしたら、イエスさまが救い主として認められるためには、石をパンに変え、人々の生活を支えることが求められていたからです。

でも、イエス・キリストはその言葉に乗ることはありませんでした。かえってこう言っています。「『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある。」(マタイ4:4)

「そうだよね。パンじゃなくて神の言葉だよね。」なんて困窮状態にあっては口が裂けても言えません。いやいや、イエスさま、そんなきれいごと私たちには必要ありません。「衣食足りて礼節を知る」ではありませんが、食べることなしにそれ以上のことは言えないわけです。まさに「必要な糧を今日与えたまえ」です。でも、イエスさまの言葉をよくよく見ると、人はパンだけで生きるのではないと言います。つまり、パンも大切だけど、パンだけなのではないのだということです。言い換えるなら、パンは必要だ。でも人は神の言葉によって生かされるのだと言うのです。私たちはパンだけに心が奪われてしまいやすい者です。でも私たちが生かされるというのは、食事だけではないのだ、むしろパンだけを食べていても生きることにはならない。カロリー摂取はできるかもしれませんが、私たちが生かされるとは、神の言葉によるのだと言うのです。

それでは、私たちが生かされる神の言葉というものが何かというと、一つのパンを分かち合うということなのではないかと思うのです。つまり神の与えられる糧は、一人の人の満たしのためのものなのではない。むしろその糧が分かち合われたときに神からの糧になるのだ。そして、神は全ての人に分かち合って、共に生きていくことを願っているのだ。また反対に考えると、私たちは既に神の恵みを分かち合われることによって生かされているのだと言うことなのではないでしょうか。

イエスさまがわたしたちにこの祈りを教えられた理由、それは私たちに与えられているものはすべてを前もってご存じである神が、わたしたちが祈り求める前に先に与えてくださったものである。私たちは、その恵みに感謝し共に生きていくために一つのパンを分かち合っていきなさい。これこそ、神がわたしたちに与える今日必要な糧なのであるということなのです

今日はこれから主の晩餐式を守りますが、これもまた一つのパンを皆さまと共に分かち合い、共に受ける神の出来事であります。厳密に言えば、私たちの教会では、一つのパンでも一つの杯でもありません。色々な方がおられることに配慮しているためです。今日は特に個包装になったパンと杯を準備しています。しかしそれでも、場所は違えど、時は異なれど、頂くものも違ったとしても、共に主の晩餐式を守ることができることは、私たちが神の恵みに生かされており、私たちも自分たちに与えられたものを分かち合うことに他ならないのです。皆さまと恵みを分かち合いつつ、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈り続けたいと思います。