本日より教会堂での礼拝が再開されますが、まだしばらくお休みされる方々のために礼拝メッセージをアップします。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「主イエス・キリストの祈り① 天の父への祈り」【西脇慎一】

〇聖書個所 マタイによる福音書6:5-10

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」

〇宣教「主イエス・キリストの祈り ①天の父への祈り」

今日の聖書箇所は、山上の説教の中でイエス・キリストが祈りについて教えておられる場面です。私たちは毎週礼拝の中で「主の祈り」を祈りますが、その根拠が今日の聖書個所にあります。
私は主の祈りほど大切な祈りはないと思います。何故ならばこれは主イエス・キリストの祈りであるからです。祈りというものは自分自身の神に対する信仰告白に他なりません。そうだとしたらこの祈りには、イエスさまの信仰や世界観そのものが含まれているのです。

でも、正直主の祈りほどぞんざいに扱われている祈りもないと思います。私たちはこの主の祈りを毎週どのように祈っているでしょうか。宗教改革者マルチン・ルターは「主の祈りは日々殉教している。」と言いましたが、わたしたちもまた主の祈りを呪文のように唱えるだけになってしまってはいないでしょうか?でも、それには理由があると思います。祈りというものは、自らの事柄にならないと真実に祈ることが難しいことであるからです。祈りは自分の真実となって初めて祈り続けることができるのだと思うのです。これからしばらくの間主の祈りについて共に学んでいきますが、今日は特に9節の前半までの部分で、自分自身の事柄として祈るということの大切さをお話ししたいと思います。

主の祈りは実はマタイ福音書とルカ福音書に書かれていますが、それぞれ異なる文脈の中で教えられています。ルカ11章では、イエスさまが祈っておられたとき、弟子たちがやってきて「わたしたちに祈りを教えてください。」と言います。イエスさまは、それに応えて「主の祈り」を教えておられます。そして主の祈りを教えた後、それに続けて「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」という言葉を付け加えます。つまりルカでは熱心に祈り求めることの大切さや、あきらめないで祈り続ける大切さが教えているように感じます。

マタイ福音書の主の祈りの特徴は、5-8節までにあるように、イエスさまが「祈る時には偽善者のようであってはならない。」と言っていることです。つまり、祈りとは私たちにとって何であるか。祈りの言葉より先に「わたしたちはどのような姿勢で祈っているか」ということをまず問いかけているのです。

私たちにとって祈りとはどういうものでしょうか。「祈り」とは神に何かを願い求めるものでしょうか。時々祈る時、自分のお願いばかり口にしていることに気づくことはないでしょうか。もちろんルカの福音書に書かれているように祈り求めることは大切なことです。でも、祈りは神さまとの対話であるとも言われるのに、自分のお願いばかり一方的にしゃべっていて静まって応答を頂く時間を持っていないときもあります。そのような時、もしかして私たちは祈るという行為を神に献げるものではなく、自分自身のためにしまっているのかもしれません。

実はマタイ福音書が教えようとしている「祈り」とは、神の前に自らを捧げる物であるということです。会堂や大通りの門で他の人々から関心を得るためにされることではないのです。先週のメッセージでも「施しをするときには人前で行なってはならない。」というイエスさまの教えをお話ししましたがこれと同じように私たちは時々、他の人から「この人は敬虔な人だ。信仰深い人だ。」という称賛を受けたいがために祈るという欲求が湧いてくることがあるのです。そこまでは思っていなくても人前で上手に祈れるようになりたいと思うことはないでしょうか。うまい下手ではないのだろうけれど、しっかり祈れるようになりたいということもここに含まれるのかもしれません。でも上手な祈りというものは、恐らく言葉なのではなく、私たちの心を神の前に献げるということなのだと思います。現にイエス・キリストは祈りの時には、親しい弟子たちにも邪魔をさせることはありませんでした。しばしば一人静まって祈るということがイエスさまの力になっていたことが聖書には書かれています。

もちろん、他の人と共に祈るということは素敵なことです。他の人に自分のために祈ってもらうことはとても嬉しいことですし、一緒に祈ることは勇気が湧いてきます。私たちはコロナが起きてから共に会って祈り合うことはできなくなりましたが、今も午前10時と午後8時に祈りの時を持っています。一人だけでは祈れないという時でも、同じ時刻に共に祈っている人がいると思うだけでもとても励まされたり、慰められたりもします。もちろん自発的にするのが祈りでしょうが、心を合わせて祈るということは教会にとってはとても大切なことなのです。それは、私たちが同じ神を信じ、それぞれのために祈ると言う関係性がそこにあるからです。
ですが、もしその祈りの言葉、或いは祈りの姿勢が神に向いているのではなく人に向けているポーズなのだとしたら、その祈りにはおそらく意味がありません。まさに聖書に書かれているように、人からの報いを受けるだけになってしまっていて、神からの報いを受けることはできないのです。いや、むしろ神からの報いを期待していないということになってしまうのだとも思います。
神からの報いとは何なのでしょうか。それは祈りの深みと言いますか、祈りの中で働かれる神との出会いであります。祈りの中でそのまさに私に対して語られる神の言葉との出会いが私たちの祈りの中で起こる出来事なのです。

イエスさまは人に見てもらうとして祈る人を、「偽善者」だと言います。ですが、たとえ人前で祈るということではなかったとしても、わたしたちも注意しなければないことが、この言葉からわかります。先週もお伝えしましたが、「偽善者」とは他の訳し方では、「俳優」とも訳せます。芝居を演じる人のことです。つまりイエスさまが祈りにおいて注意しなさいと言っていることは、本来の自分自身ではない偽った姿を人に見せることなのです。さらに言えば、本来の自分ではない心で祈ってはならないと言うことなのです。自分自身を偽って祈ることでは本質的な神との出会いには至らないと言うのです。

むしろ「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて祈りなさい」と言うのは、環境的に一人ぼっちになって祈るということだけを意味するのではありません。最も奥まった自分の部屋というのは、私たちの心のことです。ですから、自分自身の心の中で根源的な部分、他の人には見せられないような生々しい自分自身を神の前でさらけ出して祈りなさいと言っているのです。隠れたところを見ておられる神は、私たちの最も内面の、自分自身でさえ蓋をしてしまっているような、見たくない自分自身さえご存知です。そのような私たちが取り繕った祈りをするのではなく、そのような心の内側にある思いを祈りとしたときに、神はまさに私たちに出会ってくださるのです。そして、そのような時に私たちは祈りによって変えられていき、まさに生かされるのです。

このようによくよく考えると、真実に祈るということはまさに神の前で真っ裸のような自分を出すことですから難しいことなのだと感じます。怖いと思うことかもしれません。でも、イエスさまは、私たちにありのままで、何も隠すことなく安心して神に祈り求めなさいと語り掛けられるのです。

イエスさまは祈りの時に、「アッバ父よ」と呼びかけられました。アッバというのは、本当に小さな子どもが父親にむかって「父ちゃん」と呼びかける言葉です。つまりここには、関係性があるのです。

ビデオ礼拝をしているときに、私の子どもたちが「父ちゃん父ちゃん」と呼び続ける声が入っていたということで、皆さまから微笑ましかったというお声を頂きました。私としては撮影しづらかったわけですが、しかし、父ちゃん父ちゃんと呼び続けられるのは、やはりここに関係性ができているからなのだろうと思ったのです。いつか必ずこっちを向いてくれる。私の呼びかけに答えてくれる。自分には何もできないけれど、父ちゃんは必ず助けてくれる。自分の必要を満たしてくれる。自分に対して悪を行うことはない。信頼関係ができています。だからあきらめることなく父ちゃんと呼び続けることができるのだと思うのです。
私たちの祈りというものも、取り繕う必要はありません。むしろ、アッバ父よと祈り求める時にこそ、神は「わたしたちに本当に必要なもの」をお与えくださるのです。私たちの祈りはまさに神に対する要望の祈りが多いと思いますが、まずはそこから始まります。このような祈りの中で次第に神が働き、私たちは神の恵みによって生かされている感謝へと変えられていくのです。

イエス・キリストが教えられた主の祈りの最初にある天の父への呼びかけは、このような意味があるのだと思います。この祈りは、イエスさまご自身の天の父への祈りでありますが、イエスさまは私たちが本来の自分を隠して祈るのではなく、あなた自身の祈りを「アッバ」と呼んで大丈夫な方に祈っていきなさいと教えておられるのです。何故ならば、私たちの父は、願う前から私たちに必要なものをご存じであるからです。神はわたしたちに本当に必要なものを与えようとしておられます。だから、わたしたちはその心を神の前に献げて参りましょう。