本日、会堂での祈祷会は休止です。それぞれの場所で祈りの時をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「一同は聖霊に満たされて」【西脇慎一】

【聖書個所】

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。」(使徒言行録2:1-13 新共同訳)

 

〇メッセージ

5月31日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。聖霊が弟子たちに降ったことによって福音宣教が開始されていったことから「教会の誕生日」とも言われます。通常今日の聖書箇所はペンテコステ当日に読まれることが多い箇所ですが、日本バプテスト連盟発行の『聖書教育』では本日に指定されています。ペンテコステ当日には使徒10章が選ばれ「神は人を分け隔てなさらない」というメッセージが語られるようです。ということは恐らく今日の聖書個所で私たちが期待されている受け取るべき内容とは、神が聖霊を与えた時に聖霊は一人一人の上に個別に留まり、聖霊によって満たされた一同は、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したということなのでしょう。その言語の数と言えば、17もの地方や文化によって生活していた人々の故郷の言葉(方言)であったのです。そして、この言葉でもって世界への福音宣教が発信されていったというわけです。

でも今日わたしの心に留まったメッセージは、「彼ら一同がひとつになっているときに聖霊が降った」ということです。実は彼らが心を合わせて祈っていた時、つまり彼らの一致団結したときに一塊の聖霊が彼らに降ったということではありません。聖霊は一同が一つになっているときに、一人一人の上に留まったのです。そして彼らは他の国の言語で話し出したのです。むしろ聖霊というものは、一つのものを一人一人に分けていき、個別の賜物と働きを与えそれぞれの場所に遣わされていくものであったということなのです。でも、それが一同がひとつになっているときに与えられたということと、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたということが大きなメッセージだと思います。この出来事は弟子たちの心に恐怖や不安を与えるものであったと思うのです。つまり、人は一つになりたがりその方が安定するのですが、神はそうであってはいけないと言うのです。あなたたちは安定によって生きるのではなく、自分がいる環境そのものが問い直されるような出会いの中で生きていくのだと言っているのではないでしょうか。

弟子たちにとっては、家の中に留まっていた方が何倍も楽だったと思います。でも、そこから外に出て自分自身に与えられたものを用いて生きていくことが大切であり、そのような出会いが与えられることが、まさに聖霊の導きに他ならないのだと思うのです。

人との出会いは、自分の価値観や生き方を問い直すものであります。でも、その出会いによって人は新しくされていくのです。でも特に人は集団になると新しくされていくことが難しくなります。集団は内部において自己完結してしまい、異論が排除されてしまう構造を持っているからです。教会もまた安定してしまった時が一番危ないのです。というのは、自分たちに居心地の良い環境が他者を排除してしまっているということに気づかせないからです。教会は、聖霊の導きによって変えられていくことがなければいつしかキリストの使命を忘れてしまうことになってしまいやすいのです。

昨今、新型コロナウイルスの影響によって「自粛警察」という言葉が出てきました。政府や地方自治体からは「緊急事態宣言」は発出されましたが、その権限は「要請」でしかありませんし、その要請に従わなかったとしても罰則はありません。休校要請、外出自粛に続き休業要請も行われましたが、「保障」が約束されていないために、休みたくても休めない方々がたくさんおられます。「コロナ関連倒産」が身近に迫っている中、保障を求める声をあげてもその声が取り上げられないために、仕方なくお店を開いている方々もおられます。でも、そのような方々の「実名を公表する」と脅したり、民間の正義感を振りかざす方々が私的制裁のような形で休業への圧力をかけたり、子どもが公園で遊んでいるのを見て、家に帰れと叫んだり通報したりする社会は、「一つの在り方のみの正義」を信じているからなのでしょう。もちろん感染症対策ですから、要請を拒否して良いということを言うつもりはありませんが、要請ならば要請の形で、要請が聞き届けられないならまた別案を示して、人々が安心して要請を聞き入れられるようにしていくことが大切なのです。

聖霊はそのような抑圧されゆがんだ社会の中で生きている個人の命を守るために、神が与えられたものであります。すべての人がそれぞれの形で安心して生きられる社会をどのように作るか。それは一つの理念ではなく、個々人との対話、違う文化へ出かけていくことから始まっていくというメッセージをここから受け取ることができるのではないでしょうか。

不安によって色々なひずみが生まれる社会の中で、キリスト教会が伝えるべき福音のメッセージはプライスレスです。今こそ、神の言葉が必要なのです。ですから、私たちはどのように社会に繋がっていくかということを考えさせられます。共に祈っていきましょう。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)