本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「聖霊は新たな歩みへと導く」【西脇慎一】

〇聖書個所 使徒言行録2:1-4

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

 

〇宣教「聖霊は新たな歩みへと導く」

今日は通読の箇所であるマタイ福音書から離れ、ペンテコステ-聖霊-についてのお話をしたいと思います。聖霊について私が今日最も皆さまにお伝えしたいことは、聖霊は私たちを新たな歩みへと導く存在であるということです。聖霊が降ったことによって弟子たちの歩みは劇的に変化したということは先ほど子どもメッセージでお伝えした通りです。弟子たちは困難の中にありました。イエスさまがいなくなってしまったのだから当然です。聖霊を与えてくださると約束してくださったものの、それがまだ与えられていない段階では、家の中に閉じこもるより他はありません。そのような大変な時というものは当然、嬉しいものではありませんでした。しかし聖霊が与えられた時、彼らがおかれている状況は何も変わってはいないのに、彼らの生き方が変わっていったのです。しかもそれは、イエス・キリストがおられたときと同じ状況に戻ったのではなく、新たなステップに進んでいきました。聖霊の伴いは、わたしたちを新たな歩みへ導くために与えられる神の霊なのです。

この聖霊の働きについてもっとも顕著な例が使徒言行録8章です。そこにはエルサレムでクリスチャンへの大迫害が起こったということが書かれています。このきっかけとなったのが、ステファノという弟子の殺害でありました。ステファノが捕まえられた理由について、人々は「イエス・キリストが神殿を破壊し、モーセが人々に伝えた慣習を変えるだろうと言っていた。」と訴え出ています。

確かにイエス・キリストは「あなたがたはこう命じられているが私はこう言っておく」というこれまで山上の説教で私たちが学んできたようなスタイルで教えていました。その教えは古い教えを完成させるものでありましたので、この人々の指摘は間違いではありません。つまり、ステファノは「新しくなっていくこと、変化」を伝えたのです。しかし、「変えられること」を恐れた人々がステファノを殺害し、弟子たちへの大迫害を行って行ったのです。

でも、迫害にあった弟子たちはエルサレムに留まることにこだわりませんでした。むしろその迫害がかえって福音を多くの地域に広めていくことに繋がっていったのです。普通、自分の住んでいた町から追い出されたらどうするでしょうか。まず悲しむでしょう。怒りもするでしょう。これまでの交わりから断たれるわけですから、とてもつらいことです。ですから中にはそこで信仰を捨てる決断をした人がいてもおかしくなかったのではないかと思います。しかし、弟子たちにとっては、そんな状況さえ絶望と捉えるのではなく、一つの出発と受け止めたのでしょう。彼らは、新たな歩みを始めていきました。ここで私たちが受け止めたいことは、弟子たちには迫害も困難もありましたが、そこで気落ちしたり、福音を諦めてしまうのではなく、むしろその場においても柔軟に対応し、喜び勇んで歩んで行くように彼らを支えたのが聖霊の存在であるということなのです。聖書には「キリストのように迫害されることを喜ぶ」ということも書かれていますが、そのように私たちの発想を変えていくのが聖霊の力であるのです。そしてその聖霊が私たちを自由へと導くのです。

対照的に、元々の形から変わらない、変えられていくことを好まない方々は、自らを正義とし人々を捕え、そのいのちさえ奪うことに繋がっていってしまうのです。彼らは新しいものとの出会いを拒否しています。受け入れませんでした。その中にはパウロと呼ばれたサウロもいました。でもパウロのケースを考えれば、彼はその後イエス・キリストとの個人的な出会いを通して、変化を余儀なくされていきました。この出会いによって変えられていくということこそが私たちにとって大切なのだろうと思います。そして、このことこそ、イエス・キリストがわたしたちに伝えていること。キリスト教信仰の最も大切なことなのだろうと思うのです。

ペンテコステの日はそのような記念日です。その日、弟子たちは家の中に座っていました。そこに突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まったというのです。そして、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに他の国々の言葉で話し出した。とあります。

時は五旬祭の日、多くのユダヤ人がエルサレムにやって来て穀物の献げ物を捧げる日です。町は大賑わいであったことが想像されます。しかし、その日、弟子たちは家の中に座っていました。家の中に留まっていました。しかし突然、ここに聖霊が降ります。聖霊とはヘブライ語では「息」「風」を表す言葉なので、この家の中に激しい風のような音となって響いたのでしょう。想像は難しいですが、この出来事は弟子たちの心に恐怖や不安を与えるものであったと思います。

聖霊は、炎のような舌として分かれ分かれに現れて、一人一人の上に留まりました。聖霊は単数で書かれていますが、一人一人には別々の国の言葉が与えられました。つまり、聖霊は一つのものを一人一人に分けるように個別の賜物と働きを与えそれぞれの場所に遣わされていくものであったということなのです。

弟子たちは、家に座っていました。家に座っているとは、そこに落ち着いているということです。しかし、聖霊はそこを揺り動かしました。つまり彼らの落ち着いている場所自体が揺り動かされて、新しい歩みのために聖霊が与えられたのです。人は家の中にいた方が安定しますし、一同が一緒にいる方が安心します。私たちも今回のような状況であればとてもよく分かります。しかし、神はそうではない新しい歩みへとわたしたちを招くのです。あなたたちは安定によって生きるのではなく、自分自身がいる環境そのものが問い直されるような出会いの中で生かされていきなさいと言っているようにも聞こえるのです。

弟子たちにとっては、家の中に留まっていた方が何倍も楽だったと思います。ステファノのように迫害されることもあるわけです。でも、そこから外に出て自分自身に与えられたものを用いて生きていくことが大切なのだ。またその中で与えられる新たな出会いへの導きが、まさに聖霊の導きに他ならないのだと思うのです。

このようにお伝えすると、「わたしたちももう安心なのだから、外に出ましょう」と言っているように聞こえるかもしれませんが、そういうことをお伝えしたいわけではありません。私がお伝えしたいのは、実は新たな出会いというものは、今回、私たちが礼拝を休止しているときにも起こってきたことであると思いますし、その出会いを大切にしていきたいということなのです。

 

この礼拝を休止していた3か月、私たちは共に集うこともできず、信徒同士の交わりを楽しむこともできませんでした。この期間は紛れもなく私たちにとって困難でした。でも、この期間に私たちそれぞれにとっての信仰とは何か。教会とは何かということを改めて問いかける機会になったのではないでしょうか。これはまさに私たちが揺り動かされる出来事であります。

でも私はこのペンテコステを今日、この時に守るということは本当に神の導きだと感じているのです。何故ならば、来週6月7日から私たちはいよいよこの教会においての礼拝を再開させていくことを考えているからです。待ちに待っていた日、まさに待望の日であります。

でも、残念ながら直ちにこれまでと同じように戻れるわけではありません。やはり、今回の新型コロナウイルスは私たちの日常を大きく変化させたのです。神さまに礼拝を献げること自体に変わりはなくても、その礼拝方法、集会の持ち方については変わらざるを得ません。以前に戻るのではなく、これからの礼拝の在り方を検討していかなければならないのです。

しかし、わたしたちには聖霊によって希望が与えられています。私はこの間、すべての方ではありませんが、個人的にそれぞれの方を訪問させていただく中で、多くの気付きと恵みを与えられました。特に、ステイホームが続く中でほぼ皆さんが他の礼拝出席者のことを気にかけておられるということが印象的でした。私が皆さんの状況を説明するのもどうかなと思い、そのために皆さまから近況をお知らせいただきお手紙を作りましたが、このような教会員同士の直接的な交わりができなくなったからこその深まりというものが生まれていったのではないかと思います。これはこの状況がなければ感じなかったことであると思います。

また、礼拝ビデオについても出会いの中で始められていきました。最初は宣教を原稿でお配りする、またはホームページに上げるという形で行ってきましたが、長く続く礼拝休止でそれだけで良いのかという思いが与えられ、一人で宣教原稿を読むのも長く続くとしんどいという声を聞き、役員会で協議して始めましたが、本当に多くの方から好評いただきました。特に、礼拝を長期欠席されている方や、療養中で礼拝に来ることができない方と繋がることができたことは恵みに他なりません。試行錯誤は今も続いていますが、来週からは礼拝再開するので、礼拝の時間にライブ配信という形でお届けいたしますが、これらも全て、聖霊による導きによって起きたことです。

私だけではなく、多くの方々がこの期間、共に祈りを合わせてやってきました。場所は離れていても私たちは教会として一つであることを感じました。まだまだ終息したわけではありませんので、祈りは必要ですし、いまはまだしばらくご自宅で礼拝を守りたいという方もおられます。安心してご自宅で礼拝できる環境を作るということも、一つの聖霊の導きであるでしょう。

今このように、今私たち一人一人には聖霊が注がれ、新しい気づきを与えられています。一人一人に与えられた聖霊が語り出すように、私たちも「違いの中に働くキリストを告白する新たな神戸バプテスト教会へ」と導かれて参りましょう。