本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「伴いの神 イエス・キリスト」【西脇慎一】

〇聖書個所 マタイによる福音書8:1-4

イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 

〇宣教「伴いの神 イエス・キリスト」

今日の宣教は通読の箇所を少し離れて、聖書における感染症についてお話ししたいと思います。これまで私たちがこのテーマについて受け取ってきたことは、フィリップ・ニコライという牧師のことでした。彼はペストという感染症におびえる人々を励まし、「苦難の時は必ず終わりを迎え救いがやってくる」という希望を伝えるために、「起きよ、エルサレム」という賛美歌を作ったということをお話ししました。私たちはこれまでその讃美歌をずっと歌い続け、励まされてきました。でも、聖書からこのテーマについてお話をするのは今日が初めてです。今日は特にイエス・キリストは感染症にかかった方々にどのように対応されたかをお話をしたいと思います。

聖書には感染症という言葉は登場しませんが、他の人にうつる病気は「疫病」と書かれています。そしてこの疫病は神が災いとして人々に下されるものと理解されていました。神は人間を愛し守り導かれる存在ではありますが、ひとたび人間が神に背いたり、悪いことをしたりしときには災いとして疫病を下す神の姿が旧約聖書には描かれているのです。例えば出エジプト記9章では、神はヘブライ人たちをエジプトから解放させるために10の災いの一つとして疫病を引き起こしました。これは神がモーセたちを救うためでしたが、今度はイスラエル人が荒れ野に入った後に神に反逆したとき、裁きとして疫病が起こりました。(民17章)

当時の人間にとって疫病というものは、何故起こるのかもわからず、どのように対処して良いかもよくわからないまま他の人にも広がっていく恐怖の対象であったと思います。ですから全ては神の御手にあるはずだと信じていましたので、その神が疫病を引き起こしたと考えたわけです。そして、神がなさることには何か理由があるはずだ。だから、神から赦しを乞おうとしたわけです。そして罪を犯した者が捜し出され、共同体から取り除かれたわけです。それは疫病からの守りというよりも神の怒りから共同体を守るための対応でした。このように神は信じる者たちにとっても畏れ敬う存在であったのです。

ところで聖書の中で最も有名な疫病とは「重い皮膚病(らい病・ハンセン病)」です。らい病の細菌は現代ではとても微弱な感染力しかもっていないことが分かっていますが、栄養状態も衛生状態も良くない当時の人々にはとても恐れられていました。レビ記にはその病気にかかったときにどうするべきか、その人が癒されたときにはどう判断するかということが書かれています。
しかし感染症についてもっとも問題だったことは病気にかかってしまったということよりも、集団感染を避けるためにどうするかということよりも、神の名によって私たちの心の中に感染者への偏見や差別が生まれてしまうことでした。私たちの心の中には「神がいるならどうしてこんなことが起きるのか。」という問いかけと共に「あの人が何かをやったからああなったのではないか?」という思いに支配されてしまうことがあるのです。

仮に、神がこの世の全てを支配しているとして、この病気が神の怒りによって引き起こされたのであるとすれば感染者は裁かれるべき存在であります。その人が自分の近くに来ることで自分にも危害が及びそうになるのだとしたら、そんな人には近よってほしくないと思うことは普通だと思います。もちろん今では、病気が神の裁きだなんて考えられているわけではありません。感染した人に罪があるわけでもありませんが、それでも感染者に対する差別意識は私たちの心の中にも簡単に芽生えてくるのです。

もちろん昔も今も疫病は、神が引き起こしたことではありません。人々がそう信じたからそう書かれているのです。その出来事を通して神の仕業だと考えてしまうのはむしろ私たちの心の問題です。もちろん、この疫病を通して神が人間に何かメッセージを伝えようとしているという解釈は、自然災害に見舞われるたびに私たちの心を収めるために出てくる考えではあります。例えば今回の新型コロナウイルスに関しても、神が起こしたことではありません。今もまだ原因は調査中だと思いますし色々な陰謀論もありますが、元々このウイルスは自然界に存在していたものでしょう。でも人間社会には入り込んできてはいませんでした。人間とウイルスにはソーシャルディスタンスがあったのです。ではどうしてこうなったかと言うと、人が踏み越えてはいけない線を超え深入りしすぎてしまったからだと言えます。しかし、これをもって世の終わりだとか裁きだとかそういうことは言えないのです。

何故ならば、私たちの主イエス・キリストはそんな感染症にかかり、悩んでいた人たちの救いとなられたからです。疫病が起きた時、神はわたしたちを裁こうとしておられるのではありません。神は裁きの神ではなく、むしろ私たちに伴い給う神であるのです。それはイエス・キリストだけではなく、旧約聖書の神を見ても、私たちが苦難にある時こそ近くにおられる方であることを示しているのです。

「神は乗り越えられない試練をお与えにならない。」という聖書の言葉が、今色々な芸能人を通じて発信されていますが、まさに主イエス・キリストは私たちと共におられ、私たちの嘆き悲しみを知り、そして私たちにこの困難を最後まで歩み通す力を与えてくださるのです。そして、わたしたちはイエス・キリストを通して神に癒しや疫病の収束を祈ることができるのです。

今日の聖書個所を見ると重い皮膚病を患った方が、山上の説教を終えて山を下ってきたばかりのイエスさまとその群衆の前に姿を現しています。もしかして、その山からの帰り道に重い皮膚病人々のコロニーがあったのかもしれませんが、その人は独りでイエスさまのところに来ています。これは驚くべき事柄であったと思います。彼は、集団から隔離されたものとしていてはいけない集団の中に来ていたからです。恐らく彼の姿を見た人は、眉をひそめ目をそらしながら彼から離れていったのだと思います。場所が場所なら石など投げつけられてもおかしくなかったかもしれません。

しかし、彼はイエス・キリストに会うために切実な思いをもってやってきたのです。彼はイエス・キリストにあったときこう言います。「主よ、御心ならばわたしを清くすることがおできになります。」この言葉を読むと、何やら上から目線のようにも聞こえます。「私を憐れんで癒してください。」というのかと思いきや、「あなたは御心ならば、つまり、あなたがしたいと思えば私を癒すことができるのです。」と挑戦的な発言をしているように思えるからです。なんてふてぶてしい病人だと聖書を読んだとき、私は思いました。でも、よくよく聖書を読んでみると、彼はイエスさまに会うなりひれ伏しています。彼は声をかけるよりも先にひれ伏して先ほどのセリフを言っているのです。どういうことなのでしょうか。もしかして彼はもはや自分が願い求めることさえはばかられると思っていたのではないかと思います。自分にはお願いする値打ちもない、ただ御心であれば清めてください。清めとは罪によって病気が起こったと考えられていた時代ですから癒すと同じ意味で考えていただいてよいと思いますが、まさに人は、最も弱くなった時にはお願いすることよりも、むしろ憐れみにすがる他ないのです。

イエス・キリストはそんな彼に言います。「よろしい。清くなれ。」これはもう少し直訳すると。「私はしたいと思う。あなたは清められる。」と言うのです。イエスさまは彼の言葉にしっかりと向き合い、彼に憐れみをかけられました。わたしはこれを見て、「あなたの信仰があなたを救った。」という言葉を思い出します。彼に信仰があったかどうかはわかりませんが、彼が本気でイエス・キリストに救いを求めていたことだけはわかります。もしかして聖書の中でイエス・キリストに出会った人々の内、彼が一番最も根源的な救いを求めていたのではないかとさえ思うのです。彼は何がわるいわけでもないのに感染症にかかり、有効な治療方法もなく、結果として環境的にも心理的にも一人ぼっちにされていたからです。でも、イエスさまはそんな彼に自分の思いが向いていることを告げられたのです。

イエス・キリストの存在とは、そう言うものなのだと思います。先ほど子どもメッセージでマタイさんのお話をしましたが、彼の場合も同様です。イエス・キリストは、最も彼らが大変な時に、最も救いを求めているときに、彼らを見捨てることなく、彼らに出会って行かれる方であるのです。そしてまさに彼らの心の痛みに寄り添い、わたしの心はあなたに向いていることを伝えられるのです。まさに「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」関係です。わたしは、イエス・キリストの癒し、或いは清めとはここからスタートしていったことではないかと思います。

聖書においては、イエスさまの言葉によって彼らの病や思い煩いは癒されました。私たちについて考えてみると、イエス・キリストを信じても、直ちに癒しや平安には至らないかもしれません。でも、そのイエス・キリストの伴いによって、私たちの状況はなにも変わっていないはずなのに、心はまさに復活したようになるということ、そして新たな歩みが始まっていくことがあるのではないでしょうか。その時、まさに私たちに癒しが起きるのです。人は病を恐れるあまり病になった人さえ攻撃する時がありますが、神の愛はその人の痛みをすべて包み込むのです。神は、最も弱く小さくされた方々に伴われるかたであるからです。

私たちには時々不条理ともいえる苦難が襲って来る時があります。それは科学や医学がどれだけ発達しても起こることだと思います。しかし、そのような人間の歩みを励まし慰め、「共に生きていこう。あなたは大丈夫だ。神はあなたを愛している。」という応援をイエス・キリストは伝えているのだと思うのです。苦難の時、「神がいるなら何をしているのか!?なんで私だけこうなるのか!?」と叫びたくなる時があります。でも、神は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く。」という姿で私たちにの日々の歩みに伴っていてくださるのです。これが神の愛であり、これによって私たちは立ち上がっていくことができるのです。

 今日わたしたちは、これより主の晩餐式を守ります。主の晩餐式とはただ単に一緒にパンと杯を交わすことではありません。イエス・キリストが再びやってこられるその時まで、わたしたちがイエス・キリストの歩みを思い起こし、わたしたちに伴っていてくださることを確認する儀式です。私たちは困難の中にいますが、こんな時こそ神が私たちを憐れんでくださるということに感謝し、応答の思いを新たにしていきたいと思います。

〇祈り