本日、会堂での祈祷会は休止です。それぞれの場所で祈りの時をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「神は人を分け隔てなさらない」【西脇慎一】

【聖書個所】使徒言行録10章9~16,44~48

「翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」

「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。」

 

〇メッセージ

三人の来訪をペトロが知らないように、聖霊の働きは私たちが認識する前から神によって始まっています。ローマの軍人コルネリウスは聖霊の導きによってペトロを訪れていますが、これは当時のローマ軍人の常識からは考えられないことだったと思います。聖霊は既成の枠組みから私たちを導き出す存在であるのです。

既成の枠組みがわたしたちを知らず知らずのうちに縛り付けていることは、ペトロの姿を見ても明らかです。彼は昼の祈りの時間に屋上に上がりました。断食でもしていたのでしょうか。彼は空腹の余り我を忘れたようになり、幻を見ました。聖書個所にもある様に、「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。」というものでした。神は言います。「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」しかし、ペトロはその神の言葉を受け入れることができません。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」神は改めて言います。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」このことが三度続きました。

ペトロが神の言葉を受け入れられなかったのは、彼が長年伝統や公衆秩序として守ってきていた「食物規定」に抵触する可能性があったからです。「食物規定」と「安息日規定」はイエス・キリストにも論争が吹っ掛けられたくらい、身近でデリケートなテーマでありました。具体的な食物規定についてはレビ記11章に記してありますが、神が食べてもいけないと言ったものの内には、現在私たちが食しているものがあります。しかし、その内のいくつかは今も食べることができないものです。食物規定では「汚れている」と書かれていますがその存在自体が汚れているわけではなく、むしろ衛生的に良くない状況の動物を恐らく旧約聖書時代に安全に調理することができなかったことで、人々のいのちを守るために神が禁止されたのだと考えられます。そういえば新型コロナウイルスの発生原因も、最初は中国武漢の海鮮卸売市場で売られていた「野生の小動物」ではないかという情報がありました。人が手を出してはいけない領域は依然として存在するのでしょう。

ペトロは神が「清めている」と言ったのに、それを受け入れられなかったということも無理はないのだと思います。何故ならば、私たちも長年口にしていなかったものが目の前に出されたとき、それに手を付けられるかというと、かなり難しいことだと思うからです。また、どんなに神が食べてもいいよと言ったって、実際に食べたくなるかは私たちの判断によります。人間苦手なものはあるわけです。

でもこれが神が見せた幻であることを忘れてはなりません。つまりこれは象徴なのです。だからペトロはこれがいったいどういう意味かを考えこんだのです。その時に、コルネリウスがペトロのところに到着するのです。そこで彼は、神が清めた食物規定に抵触するものが、異邦人の救いを現わしていると悟るわけです。でも、実は聖書の中には異邦人の救いは元々概念として存在しています。神は寄留者と共に生きていくように招いているからです。でも、そのような私たちの固定観念から逃れるのが大変であるということを示しているのでしょう。

ペトロの常識を打ち破ったものは、幻でもなく神の言葉でもなく、コルネリウスとの出会いでした。しかし、幻を通して神の言葉を受け取ることができなければ、コルネリウスとも出会えていなかったでしょう。神との出会いと人々との出会いという2つの出会いがわたしたちを新たにしていくということを心に留めたいと思います。