本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「神の目には敵はいない」【西脇慎一】

〇聖書個所 マタイによる福音書5:43-48

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

〇宣教「神の目には敵はいない」

今日のメッセージは、先ほどの子どもメッセージのお話しとだいぶ重なるテーマだと思います。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」みなさんもこの聖書の箇所を何度もお読みになったことがあると思います。

しかし、果たしてこの教えを実践することができてこられたでしょうか。私自身のことを振り返ると「お前、どの口でこの教えを語れんねん」と思うほどお恥ずかしいことばかりしてきたように思います。例えば私にとっての敵とは、私に対して敵意のある行動を取る人です。つまりその人自身が悪を行おうとしたわけではなくても、私の心が「これは悪意だ」と判断した行動を取った人を、心から愛したいともその人のために前向きな気持ちで祈ったというようなことはあまり多くないような気がいたします。どちらかというと私もまたヨナのように感情のとりこになってしまい、自分にはそんな権限があるわけでもないのに、そんな人は裁かれたらいいと思いますし、もし仮に神がその敵を赦そうとするものなら何とかしてそれを阻止したいとも思うのです。

ヨナはまさにそのように思って行動していたと思います。彼はイスラエルという自分の国に敵対する者は滅ぼされることこそが神の御心なのだ、神の正義なのだと思ったのです。だから彼は神さまに言われたときに「もしかして神はニネヴェを救おうと考えているのかもしれない。そんなことは許されない。」と思い、正反対の場所に逃げて行こうとしたのです。私たちもこのように敵と呼べる存在に対しては非常に感情的にそのように思ってしまうことはあるのではないでしょうか。もちろん神の御心を人が決めることはできません。それに神の正義とは神の愛そのものであり、その愛は全ての人に向けられているということを頭では分かっているのですが、心がそれを許さないということがあるのです。ですから、神の愛に対して、自分の気持ちの置き所が見つからず、ヨナのように神に対してふて腐れてしまうこともあるでしょう。

ヨナは神の御心に反対して逃げ出しました。しかし神はそんなヨナを赦しています。そんな経験をしたものであっても、ニネヴェの人々の救いを毛頭願っていないというヨナの姿勢は、イエスさまの今日の教えの通りに自分を迫害するもののために祈ったとしても、本当に救われてほしいと思うことが難しい自分の姿と重なります。私たちは毎週主の祈りの中で「われらに罪を犯すものを、われらが許すごとく、われらの罪をも許し給え」と祈りますが、これは果たして本当に私たちの自らの言葉になっているのでしょうか。どちらかというと、「隣人を愛し、敵を憎め」という教えの中に私たちは生きているということを感じます。端的に言うならば、私たちはイエス・キリストの教えの通りには生きることができないのではないかと思います。

しかし、ヨナ書はまさにそのような私たちに向けられている神の愛を伝えています。つまり、人は神の愛を頭では理解できていても、心で受け入れることは難しいという人間の限界性を語ると共に、そのような限界性を持った人間さえ神は愛してくださっているということが書かれています。つまり、わたしたちは真正面から向かい合えない時があっても良いのです。向かい合えない時は逃げて行っていいのです。神は逃げて行ったヨナに時間を与えています。嵐に遭ったり、暗い海に投げ落とされるような絶望的な状況があることもあるでしょう。しかし、神はそのようなヨナを見捨てることなく、魚のおなかの中で祈りの時を与えられているのです。魚が実際にどんな魚だったかということはわかりませんが、私たちはどんな時でも神の伴いがあるということをここで受け止めたいと思います。

 

さて今日の聖書個所の「隣人を愛しなさい。」という教えはレビ記19:18に登場します。こういう言葉です。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である。」これはイエスさまの「隣人愛の教え」と共通しています。問題は後半の「敵を憎め」という言葉です。実はこの教えは聖書に書かれている教えではないのです。何故ならば、今の聖書個所にもあったように、敵に恨みを抱いて戦うのは人のするべきことではなく、神の領域の事柄であったからです。しかしながらではなんでこの「敵を憎め」という教えが出てきていたかというと、恐らく弱小国であったイスラエルが他の民族と戦ってきた中で、自分たちの国やアイデンティティを守っていくために、その歩みにおいて語られてきた言葉であったのだと思います。しかし、この敵という言葉と隣人という言葉を並べて使うことはとても危険です。並列して使った時、隣人は仲間・身内となり、敵は他者と切り離されてしまいます。個人という存在を色で区別し属性で人を判断してしまうことになります。そして「敵を憎め」という力強い言葉によって人々を支配していくことになります。「敵」という存在を造り出す時、共同体内部はまとまりますが、これは神の思いとは逆行することなのです。「隣人を愛しなさい。」という言葉にはその敵味方という分断がないからです。

イエス・キリストは今日の箇所で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。これは自分を迫害する敵という存在を、自分の隣人にしていく関係性の回復のための教えだと思います。つまりイエス・キリストが本当に伝えたかったことは「敵を愛しなさい。」ということではなく、「神の目には敵という存在はいない。いるのはすべて神の愛によって造られた尊い違いを持った隣人だけなのだ。」という宣言であり、「あなたたちは神の子として隣人とどのように生きていくのか。」という問いかけだと思うのです。

私たちはどうしてもその色分けの構造に生きています。しかし、イエス・キリストはそのような色分けは本来ないのだということを伝えようとしているのです。そして共に生きていくために、他者との関わりの中に神の視点を考慮する必要があるということを、イエス・キリストは伝えようとしているのです。

イエス・キリストの語る神は、「悪人にも善人にも」太陽を昇らせ、「正しい者にも正しくない者」にも雨を降らせてくださる方であります。そうであるならば、悪人と善人の区別というのは誰が付けるのでしょうか。正しい者と正しくない者を区別するのは誰なのでしょうか。それは神ではなく私たちの心や私たちの社会そのものが作ったものなのかもしれません。創世記のエデンの園においてアダムとエバが食べてはいけないとされた木は、「善悪の知識の木の実」でありました。つまり神の愛から離れ、善悪を自分たちで判断してしまうことが、神にしてはいけないと警告されていたことであったのです。しかしながら人間は神の言葉を都合の良いように解釈し、ついに神の領域にまで手を出し、神が共に生きるように造られた隣人を敵とするようになったのではないでしょうか。

イエス・キリストがここで教えようとしていることは、それでは、私たちは神の子としてどのように生きることを神は望んでいるかということです。「あなたがたの父が完全であるようにあなたがたも完全な者となりなさい。」とイエス・キリストは語ります。

「完全な者」というのはどういうことでしょうか。イエス・キリストがまさに歩まれたように、敵を愛し迫害するもののために祈っていくということなのでしょうか。しかしそれを実際に行うのは私達にはとても難しいことです。それでは、それが行えない場合、私たちは完全なものではないということになってしまわないでしょうか。そうであればヨナなんて逃げ出したわけですからもっての他だと思いますし、イエスさまの弟子たちも皆裏切っていますから完全な者ではありえません。完全なものは誰もいないのです。でも、私はそういう意味で「完全(パーフェクト)な者になりなさい。」と言われているのではないと思います。完全と訳されている言葉は、「十分に成長した」とか「目標に到達する」という意味がある言葉ですので、むしろ、私たちが神の愛によって満たされているということが「完全」という意味なのではないかと思うのです。

私たち自身が神の愛によって満たされているとき、私たちは「仮想敵」によって一致団結する必要はありません。戦うことよりも共に生きていくことが神の願いであるとするならば、もちろんそこにはたくさんの課題があるわけですが、神によって満たされているとき、自分に不足するものがないという安心感は、私たちの心を落ち着けます。不安や恐怖が敵を生みだすのは、私たちが今経験している通りです。イエス・キリストは当時共同体の外側に置かれ差別されていた徴税人や異邦人という言葉を用いて例を語りますが、だれでもやっていることをあなたがたも同じようにしていてどうなるのだ。あなたがたは神にあってもっと自由に生きていきなさい。神の愛は、私たちの世界観を超えて大きく超えている。神の愛に満たされた者として、共に生きていこうとイエス・キリストは今日も私たちを招いておられるのです