本日、会堂での祈祷会は休止です。それぞれの場所で祈りの時をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「一同は聖霊に満たされて」【西脇慎一】

【聖書個所】

「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。」(使徒言行録8:1-8 新共同訳)

 

〇メッセージ

ステファノが殺害されたのは、当時のユダヤ教が土台となっていた市民社会の常識となっていた教え・伝統に対して意見表明したことがきっかけでした。ステファノは7章においてユダヤの歴史を紐解き、神の導きに対して選民イスラエルが反抗してきた数々の出来事を披瀝します。神殿と律法に権威を置いて自分たちの正統性を主張していた人々は、それを聞くのが耐えられません。彼らの中では、イスラエルが神に逆らってきていたことは知ってはいたと思いますが「美化」され、批判的に直視してこなかったのでしょう。彼らがステファノを訴えた時の言い分は6:13-14に記されています。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレ人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」この言葉に表されているように、、人間は自分たちが慣れ親しみ浸っている環境が変えられそうになることを拒み、それを変えようとする人々の口を封じようとする傾向があるのです。しかし、これをステファノは痛烈に批判し「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。」(7:51)というのです。

後にイエス・キリストの弟子となるサウロも当時はこの価値観から逃れることはできず、イエス・キリストと出会うまでは、弟子を次々と逮捕していました。しかしながら彼にとってイエス・キリストとの出会いとは、自らの価値観がひっくり返された出来事であったのです。これがステファノの言葉によれば、「聖霊の出来事」に他ならないのです。

さて、この大迫害によって散らされていった人々は、「使徒たちの他」であると書かれています。つまり、使徒たちは安全であって迫害の対象にならなかったのです。実はここで迫害されていたのはヘブライ語を話すユダヤ人ではなく、ギリシャ語を話すユダヤ人たちでした。この両者の間には経済的な問題も含めて様々な違いがありました。正統的なユダヤ人は当然ヘブライ語を話すユダヤ人でしたが、環境的にはギリシャ語を話すユダヤ人の方が豊かであったと思います。でもそのような違いが、差別と妬みをうみ、日々の分配のことで苦情が出てきて、それに対処するためにステファノを始めとした奉仕者が7人選ばれたということが、使徒6章に書かれています。

私は今日この聖書を読んだときに、変化をどのように受け止めるかということが問われていると感じました。ステファノの言葉を受け止めきれなかった人々がいます。ステファノは問題に目を向けています。人々は散らされていきました。サウロも新しい教えを信じた人々を古い価値観に立ち返らせるために投獄しています。しかし、それでも彼らは喜び勇んで福音を伝えているのです。

福音とはむしろ苦難の中で私たちの心に喜びとなることであり、聖霊は福音によって私たちを喜びで満たし、新しい歩みへと導いていくものなのではないでしょうか。フィリポはサマリアの町に行きました。サマリアの町とは伝統的なユダヤと非常に難しい関係にあった町です。彼らはフィリポの行うしるしを見聞きしていましたが、自分たちに語られるとは思っていなかったのでしょう。こぞってその話に聞き入ったとは好んで聞いていたということです。そしてその福音は、これまで福音が届けられてこなかったところで花開いていくのです。

「コロナ禍」と呼ばれる出来事が起こり、わたしたちの日常は一変しました。これまでの常識がひっくり返り、ポストコロナの時代がやってきます。わたしたちキリスト教会の礼拝の形も、伝道方法も変わっていくことが予想されています。私たちは以前のように礼拝を再び教会で共に行えることを待ち望みますが、これまでと同じようにということは恐らく困難でしょう。しかし、新たな形で再び始めていくことはできます。もちろんコロナを引き起こしたのは神ではありませんし、私たちにとって嬉しいものでもありません。しかし聖霊の導きは、困難の中で私たちを新たな道へと導いていくのです。わたしたちにはそのような道がイエス・キリストによって示されているのです。イエス・キリストに希望を持ち、歩みましょう。