本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「イエス・キリストの先制攻撃」【西脇慎一】

〇聖書個所 マタイによる福音書5:38-42

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 

〇宣教「イエス・キリストの先制攻撃」

今日は、マタイによる福音書5章から山上の説教の続きをお話しします。今日の聖書個所は新共同訳聖書では「復讐してはならない」という小見出しが振られていますが、イエス・キリストがここで伝えたかったことは本当に「復讐してはならない」ということだったのでしょうか。

確かにイエス・キリストは「目には目を、歯には歯を」という教えを「人々がこれまで教えられてきた、いわば当時の常識」として引用しています。これはやられたら同じ分だけやりかえすという「同害報復、つまり復讐の仕方に関する教え」でした。でも、イエスさまがその後に新しい教えとして言ったことは、「悪人に手向かってはならない」ということでした。私はこの「復讐してはならない」と、「悪人に手向かってはならない」とは、少し違う感じの印象を受けるのです。今日は「悪人に手向かってはならない」という言葉に込められたイエスさまの思いを探って参りたいと思います。

手向かうという言葉には、なんだか手をあげるようなイメージがありますが、ギリシャ語ではアンチステーマイという言葉です。アンチが「反対する」という意味、ステーマイが「堅く立つ、進み出る」という意味ですので、相手に対して立ち続ける、つまり抵抗するという意味があります。イエスさまはそれに否定語をつけて、抵抗してはいけないというのです。

それではイエスさまは「悪人にはされるがままでいなさい。耐え忍びなさい。」ということを伝えたかったのでしょうか。確かにイエスさまご自身はまさにゲッセマネの園で捕まえられる時、自分に対して悪を行う者たちに抵抗せずに自分の身を委ねられました。でも「悪人に手向かってはならない。」だけでは「目には目を歯には歯を」よりもさらに後ろ向きに思えます。

ちなみに当時の教えである「目には目を歯には歯を」ですが、これは決して同じ分だけやり返してよいということではなく、むしろ「やりすぎてはならない」という肯定的な意味を持った教えでした。多分私だけでなく皆さんも誰かに一度はやられた経験をお持ちだと思います。やられた側というものは、そのやられ方がひどければひどいほど、また納得ができなければできないほど怒りを収めることは難しいものです。そして自分がやられた以上に相手にやり返したいという感情に心が燃やされるものだと思います。もちろんやられたらやり返す、倍返し、そしてその仕返し行っていくと、その復讐は余計に燃え上がっていくわけです。どこかでそれに終止符を打たないといのちの奪い合いにまで発展してしまいます。でも怒りは納めることは容易ではありません。実は「目には目を、歯には歯を」というのは復讐の連鎖を止めるための教えであったのです。つまり、これは復讐を認めるものではなく、攻撃した側もやられるのだぞという警告と、やりすぎな復讐を避けるための教えであったわけです。

もちろん、人間の性として仕方ないのかもしれません。何故ならば、イエスさまも言われています。「悪人に手向かってはならない。」とは、悪人は依然として存在しているということなのでしょう。もちろん悪人という人がいるのではなく、自分に対して悪を行う者のことなのでしょうが、そういう人はいるわけです。自分に何の非もないのに、一方的に攻撃されることがあるのです。最近のことで言えば、コロナの緊急事態宣言の期間に自粛警察・自粛ポリスと呼ばれる人が現れているというニュースがありました。彼らは外出や休業などの自粛をしない人々に対して張り紙や中傷をもって自粛に追い込もうとしているようです。もちろん彼らは感染拡大防止のために正義感でやっているのでしょうが、当然そこまでする権利はありません。やられた方からしたら悪に他ならずたまったものではありません。復讐したい気持ちも当然起こってくるでしょう。

しかし、このことからも善悪というものは人それぞれの中で、良かれと思ってしたことが他人の目から見たら悪に映るということは、よくあることのように思います。悪を行う者を「完全悪」と決めつけてしまう私たちの視点も問題なのかもしれません。

私はイエス・キリストの教えというのであれば大切なことは復讐しないことでも抵抗しないことでもなく、これは究極の理想論になるかもしれませんが、その人が悪を行うようになる前に相手に対して善を行っていくことなのではないかと思うのです。しかし先ほども言いましたように善悪の判断は人によって異なるようです。このようなとき、私たちはどうしたらよいのでしょうか。

続くイエスさまの言葉を読んでいきたいと思います。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。この言葉を読むと、右の頬を打たれた後に左側の頬をも差し出しなさい。つまり、非暴力だけれど抵抗の意を表しなさいという風に受け取れます。でも、そうするとやはり手向かうことになってしまうのではないでしょうか。実は、この元々の言葉をわたしなりに訳してみました。すると「あなたの右の頬を打とうとする者には、反対側の頬を向けなさい。」と書かれていることがわかりました。もしかして、右を打たれてさらに左の頬を差し出すのではなく、右の頬を打とうとする者に、打たれる前に左の頬を出すということなのかもしれません。

右の頬を打つという行為については、私は以前皆さんにこのようにお伝えしたことがあります。相対する人の右の頬を打つためには、左手か右手の甲で打つ必要があります。左手はイスラム教のように不浄であると言われていたわけではありませんが、多くの人は右の手を使っていましたので、右の頬を打つために右手の甲でひっぱたくようであったのです。そしてこれは、主人が奴隷に対して行うように立場の違いを現わすやり方です。

では左の頬を出すとどうなるかというと、右手の掌が打つことになります。叩かれた場合、右手の甲で打たれるよりも痛いと思います。でもこうすることによって、立場の違いは出なくなり、自分と相手が対等の立場であることを示します。つまり、向かい合うのです。このような姿を相手に示したとき、私たちはどう思うでしょうか。恐らくちょっと戸惑うと思います。ムカッと感情的になるかもしれませんが、少なくとも相手を打ちにくくなることは確かだと思います。つまり、相手の痛みも感じずに接していた自分から、自分に対して向かい合う一人の人として認識を新たにさせられるのです。

もしかして、イエスさまはこの教えを通じて、やられることを容認するわけではなく、復讐してはならないということだけではなく、むしろ自分に対して悪を行う人を、我に立ち返らせるきっかけを与える積極的な姿勢を示しているのではないかと思うのです。そうであれば私は、これこそ悪に対するイエス・キリストの先制攻撃のように感じるのです。私は巻頭言に「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:21)というパウロの言葉を記しましたが、善を行うということは、わたしたちには難しいのかもしれません。しかし善というのが、相手が悪を行う前に自分にできる最大の事柄を相手にすることであるとするならば、また悪に支配されそうな人を立ち返らせるために向かい合うことであるとすれば、まさにイエス・キリストが言われたように、手向かうのではなく痛みを伴っても、そこに立つということが大切なのではないかと感じるのです。

今、コロナウイルスのことで多くの人が不安とストレスの中にいます。そして自粛傾向が続いている中で、感覚が少しおかしくなり、相手の心の痛みまで想像することはできなくなってきています。みんなが大変な状況です。でも、その中でも人のために何かしようということで動いている人々がいます。今日5月17日が何の日か皆さんはご存知でしょうか。「生命・きずなの日」です。ドナーと呼ばれる臓器提供者の家族で作る「日本ドナー家族クラブ」が2002年に制定した日だそうです。ドナーと今日の聖書個所が直接的に結びつくわけではありません。でも私の中でこの二つは結びついたのです。

復讐は自分の怒りや憤りの行き場所を自分に悪を行った相手に求めていくことです。これが連鎖すると果ては相手の命をも奪うことに繋がります。でもその反対に、相手の立場を考えた上で自分にできることを相手に献げていくことが連鎖していけば、この社会はもっと心豊かな社会になって行くのではないでしょうか。もちろんすべての人が同じことをできるわけでも、同じことをすればよいわけでもありません。相手のことを考えるということがもっとも大切なわけです。そしてそのために、相手のことを考えるそのような出会いが大切なのです。

私は実は、定期的にしていることとして「献血」がありますが、これは妻が慢性型の白血病であるということを知ってから始めました。それまで知らなかった世界が出会いによって、そして自分にできることとして広がっていきます。実はコロナのニュースが出され始めた時に、献血ルームが3密の場所になるので、献血者が減ったというニュースがありました。そんなときに、池江璃花子さんという東京オリンピックで水泳の代表候補になった方が、現在白血病で闘病中ですが、献血の大切さをツイッターに上げました。すると、多くの方がそれに賛同して一時期はとても献血ルームが混雑するという事態になりました。私たちはなかなか気づきませんが、献血を本当に必要としている人がいるのです。そして、一つの出会いが人を動かしていくということを感じます。

実は献血という言葉を用いたのは日本赤十字血液センターの所長であった大林静男先生なのですが、彼は藤沢にあるバプテスト教会の会員であられました。自分に与えられた恵みである血液を他者へ献げても、血液は自分の中で復活する。自ら痛みを負うことにはなりますが共に生きていくことができるようになるのです。

話が少し脱線しましたが、イエス・キリストは自分に悪を行う人と共に生きていけるように、向かい合うように私たちに伝えているのではないでしょうか。