本日、会堂での祈祷会は休止です。それぞれの場所で祈りの時をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「一同は聖霊に満たされて」【西脇慎一】

【聖書個所】

「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。」(使徒言行録2:1-13 新共同訳)

 

〇メッセージ

ペンテコステの後、家の中に閉じこもっていた弟子たちは神殿に出かけていきました。神殿とは、いわばイエス・キリストを十字架に磔にした「体制の象徴」でありました。弟子たちにしてみれば、神に礼拝を献げる大切な場所ではありましたが、同時に自分たちの身にも危険が迫る場所でもあったと思います。しかし、ペトロとヨハネというイエスさまの主要な弟子の二人は神殿に出かけていきました。自分たちが祈るためというよりは、多くの人々が集まる時間にイエス・キリストの福音を伝えようとして出かけて行ったのでしょう。そこで生まれながら足の不自由な男に出会ったのです。

彼は生まれつき足が不自由でした。施しを得るために毎日「美しい門」のそばに置いてもらっていたようです。このように聞くと、彼は多くの人から憐れみを受けていたと理解できるのですが、もしかしてそんな単純なことではなかったのかもしれません。彼は人々に抱えられて門のそばに置かれていました。そんなことをするよりも先に、人々に助けてもらえていればそれで話は終わっていたのかもしれません。でも、人々は彼を門のそばに置くだけで、その他の助けはしなかったのかもしれないのです。「置かれる」という言葉は、他に「任命される」「定める」「設ける」と訳すことができますが、彼はもしかして運んできた人々によってそこに設置され、人々の憐れみを受けさせる「貧困商売」のようなことをさせられていたのかもしれないのです。

以前東南アジアのタイにいた時に、街中に憐れみを乞う人々の姿をよく見ました。タイでは仏教的な教えからも施しを行うことが勧められていましたので、憐れみを乞うことは恥ずかしいことではなく権利の一つとして行われることだったのだと思いますが、その憐れみを狙って犯罪者集団が組織的に活動していることを聞いたことがあります。駅前だと町の目立つところに手を失った人が座り、傷跡を見せつけて施しを求めるのです。多くの人はその姿を見て心打たれ施しをするのですが、そのような人の善意に付け込んで、もっと大変な体の痛みを持った人がその集団によってそこに「置かれる」ということがありました。

聖書に登場する彼は自分の生活を守るために、憐れみを乞うことを日課として行っていたのでしょうが、その心には自分が治りたいとか生活を変えたいとかそういう発想は既になかったように思います。これしかできない彼は、いつもの通りペトロとヨハネを見て施しを乞うていきます。

しかしペトロとヨハネは、彼のことをじっと見つめています。「わたしたちを見なさい」という言葉に次いで彼も二人のことを見つめます。彼の目に何を感じ取ったでしょうか。もはや希望を持つことができない彼に、神の憐れみを感じ取ったのでしょうか。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」金や銀とは、彼が求めていた憐れみであり糧に他なりません。でも、彼らはそれを与えることはしませんでした。金や銀が救いとなるものでは二からです。

もっと本質的に彼が求めていたもの、でも見失ってしまっていたものを弟子たちは与えたのです。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」彼に信仰があったとかそういうことは問われません。ナザレの人イエス・キリストは、ご自分で人々と出会いに行って伴われ、人々の声なき声に耳を傾けていかれた方であったからです。「イエス・キリストが働かれる。」これを信じ宣言した弟子たちの言葉によって、足の不自由な男は歩き出したのです。

この言葉によって、彼は自由を得ました。これまでの囚われていた生まれつきの病気からだけではなくそのような環境から新しい歩みへと導かれていったのです。聖霊の伴いとはこう言うものなのだと思います。

ところで『聖書教育』では、この聖句に出てくる「見る」という言葉がそれぞれ異なる単語が使われていると指摘しています。3節の足の不自由な男性がペトロとヨハネを「見た」のは、「なんとなく目に入る見る」でした。4節ペトロとヨハネが彼を「じっと見た」のは彼の姿を通し、「彼の苦しみ・社会の矛盾や不条理をも見ている」と言います。同じく4節「わたしたちを見なさい。」は「心を向けて心で感じなさい。」という意味であり、5節「彼は二人をみつめ」だときには、ここに何か自分の求めるものがあるのではないかという期待が込められているそうです。

心が変えられていく出会いによって、新しい歩みが始まっていくその心情の変化が心に留まります。そしてその心によって私たちは捕らわれから解放され、新しい歩みへと導かれるのです。イエス・キリストの名前は、そんな歩みへとわたしたちを導くのです。