本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「誓うのではなく、自らの言葉に誠実であれ」【西脇慎一】

〇聖書個所 マタイによる福音書5:33-37

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 

〇宣教「誓いではなく、自らの言葉に誠実であれ」

今日の宣教は、通読の続きであるマタイによる福音書5章、山上の説教からお話をします。イエス・キリストは山の上で、弟子たちとご自分のもとに来るより他なかった群衆に向かってお話をされています。ここでイエス・キリストは、「あなたがたはこれまでこう聞いている。しかし私はこう言っておく。」という形式で教えられました。これはいわば、これまでの常識であった教えを突き詰めて完成させる新しい教えでありました。
今日の教えは「誓い」についてです。「誓い」というと、皆さんはどんなイメージを持つでしょうか。キリスト教会に関連することで言うと、「結婚の誓い」を思い出す方が多いのではないかと思います。「あなたはこの人が、健康なときも、病の中にあるときも、豊かなときも、貧しいときにもこの人を愛し、この人を敬い、この人を慰め、この人を助け、その命の限り最後まで誠実に尽くすことを誓いますか。」

実は、キリスト教の結婚式の場合、この誓い合う相手とはパートナーではありません。主なる神の御前にお互いの思いを誓うのです。誓約とも呼ばれます。ちなみに人の前でお互いに誓うのは人前式と言います。この誓約に象徴的だと思いますが、誓いとは基本的に自分の言葉が真実であることを神の名に誓い、表明し相手に信頼してもらうための儀式的行為であります。結婚式ではプライベートなことですが、公に誓いを宣言することもあります。例えばスポーツ大会でスポーツマンシップに則り、正々堂々と戦うことを誓う「宣誓」も、元々は神仏の前にこれを誓い、多くの人にこの言葉を信じてもらうためになされていたことだそうです。

このように考えると、わたしたちは日常的にはあまり「誓う」ことはないかもしれません。でも相手の信頼を得るために「約束」することはよくあるのではないでしょうか。もちろん誓いと約束は違います。誓いは神からの権威を借りて信頼を得ることですが、約束は人同士の信頼関係によって成り立つものであるからです。でも、今日わたしはイエス・キリストのこの教えにおいては「誓いと約束」は重ねて考えられるのではないかと思います。何故ならばイエスさまは「誓いによって権威を得ようとするのはやめなさい。むしろ自分の責任の持てる範囲で発言しなさい。」と言っているように思えるからです。

さて、これまで人々が聞いていた誓いについての教えがどういう内容だったかというと、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」というものでした。皆さん、この言葉を聞いてどう思われますか?私はこれは別に普通のことだと思います。偽りの誓いを立ててはいけません。それに神の前に誓うわけですから、それは果たされなければならないと思います。もちろん何か理由があって誓いを果たせなくなることはあるでしょう。でも、誓ったことを守ることはやはり大切なことです。もし仮に本当は守る気持ちもないのに偽って形だけで誓いをする人がいたということであれば、これはとても問題であると思います。特段、問題にもならない普通のことだと思いませんか。それでは、イエスさまはここに集まった方々に、誓いについて何を伝えようとしているのでしょうか。

もしかして御許に来ていた群衆は誓いによって傷ついてきたからイエスさまはこのテーマを取り上げたのかもしれません。イエスさまのもとに集まってきていた人々は、何も自分では誇る者も持たない人々であったことが考えられます。その人が信頼を得るためにはどうするか。誓いを立てるわけです。決して軽々しい気持ちで誓ったわけではないけれど、でもそこで誓いを果たせずに人々の信頼を失ってしまった人たちもいたのではないでしょうか。また、そのような人々のことを誓いが果たせないということで非難する人たちもいたのではないかと思います。

実はマタイ福音書23章には、「神への誓い」をわがものとし、誠実に行おうとしていない律法学者やファリサイ派の人々を非難する言葉が並べられています。マタイ15章にはその方々のことがイザヤの預言を用いてこのように表現されています。

「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教え、むなしくわたしをあがめている。」(マタイ15:8-9)彼らは、神に誓いはするものの人の教えを優先させて、その誓いを反故にしてしまっていた、或いはその教えでもって人々の誓いを破らせていたのです。つまり、イエスさまのもとに来ていた人々とは、そのような神の名をほしいままに語っていたような方々から傷つけられてきた人々であったのではないでしょうか。

だから、イエスさまは言うのです。「一切誓ってはならない。」この言葉のギリシャ語を読むと、とても強い言い方がされています。「あなたがたは誓うことを決してしてはいけない。」というのです。でもよくよく読んでみるとイエスさまが伝えようとしていることは、あなたがたはその誓いにどのように責任を取っているかというポイントにあるように思えるのです。

イエスさまは言います。天にかけて誓ってはいけない。地にかけて誓ってはいけない。エルサレムにかけて誓ってはいけない。自分の頭にかけて誓ってはいけない。つまり、わたしたちが誓う対象は自分の手ではどうしようもない存在や場所に対してなのです。そのような権威のあるものに対して誓うことによって私たちはその権威を受けているかのように振舞うことができるのです。
でも、イエス・キリストはこれがいけないと言っているように思えるのです。つまり、イエス・キリストは誓いの言葉を発しているあなた自身は何の権威によって誓っているのかと問いかけているのではないでしょうか。

実はわたしは個人的には誓いが全てダメだとは思いません。象徴的にその行為が必要な場合もあるでしょう。人間、自分一人では弱い者だから、神の前でこそ誓いを行い心を新たにしたいと考えることもあるでしょう。むしろ誓いは、己の弱さを知っているからこそ行うことでもあるのだと思います。でも確かに、誓ったことが守れない時に、その言葉にどう向かい合っていくのかということについては疑問が残ります。神への誓いには、それが守られない時に与えられる裁きがセットなはずなのですが、そこは見落とされており、軽々しい言葉だけが交わされるということは確かに問題なのです。

そして頻繁に行われる誓いはその信頼性を貶めていきます。また果たされない誓いは意味がありません。そんな誓いはしない方がましです。そんな人は信じることができません。詐欺です。むしろ考えてみれば、そもそもその人の言葉が信頼できないからこそ、神の名という権威が必要になってくるのかもしれません。つまり自分を信じてもらうために誓うのです。でもそれは、神の御名をみだりに唱えることであり、神の御名を自分の都合の良いことのために利用していることに他ならないのです。

だからイエス・キリストはこう言われるのです。「一切神に向かって誓ってはならない」。これは私たちは神に対して責任を取れる存在ではということを示しています。私たち人間は完全なものではありません。でも、その弱さが神にあって認められている。だから「あなたがたは『然り、然り』『否、否』」と言いなさい。」と教えているのではないでしょうか。これはどういうことでしょうか。わたしの受け取り方によれば、誓うという儀式にあなたの言葉の信頼性を持たせるのではなく、むしろ神に愛されているあなたがたが自分自身の日常的な言葉を吟味し、その言葉に誠実に生きていくことで人々から信頼されるような関係性を作っていきなさいということなのではないでしょうか。

然りは然り、否は否。これは英語では、YesとNoと書かれていますが、別にはいかいいえだけで答えなさいと言っているわけではありません。むしろ、わたしたちで判断できる事柄に対して、自分で誠実に決断していきなさい、どのような時もあなたの真実な言葉で対応していきなさいということだと思うのです。

それ以上のことは、悪い者から出る。確かにそうです。私たちの未来に対して、軽はずみな威勢の良い誓いの言葉や約束の言葉は世に溢れています。それが実現するかはわかりませんが、そのような言葉によって、世の中は動かされていっています。しかし私たちはそうであってはいけないというのです。むしろ神が私たち一人一人を、良しとして作られた神にあって、光の子として生かされている私たちが、神の権威を利用するのではなく、自分自身の真実な言葉によって隣人と共に生きていくこと。神がおられることを証ししていくことが大切なことだとイエスさまは言っているのではないでしょうか。

信頼のおけない誓いの言葉が溢れかえっている現代社会において、私たちの信頼できる言葉は、イエス・キリストであることを改めて受け取って参りましょう。