本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「わたしはあなたの神である。」【西脇慎一】

〇聖書個所 マタイによる福音書22:23-33

その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

 

〇宣教「わたしはあなたの神である」

 改めまして、今日の礼拝は永眠者記念堂の前で守っています。1983年に献堂されてから37年になるこの記念堂は、私たち神戸教会の他に、神戸西教会、宝塚教会、神戸伊川教会という3つの教会で守っています。それは、1950年にシェラー宣教師によって神戸に蒔かれた一つの福音の種が増え広がって、4つの教会という実が結ばれた経緯があるからです。そしてこの永眠者記念堂には、今はそれぞれの教会だけれど元々は同じ一つの種であり、私たちが帰るところも同じ神の御許であるという意味があります。私たちは毎年イースターの後4月の第四週に合同でこの場所で礼拝を守っています。本当に心地よい春の自然の中に記念堂があります。

イエス・キリストが埋葬された墓がどういうところだったかはわかりません。でも水野源三という詩人が、イエス・キリストの復活の朝を思い描いて「こんな美しい朝に」という歌を作りました。「空には、夜明けと共にひばりが鳴き出し、野辺には露に濡れて、すみれが咲き匂う。こんな美しい朝に、こんな美しい朝に。主イエスさまは甦られたのだろう。」実は水野源三さんは9歳のころに小児麻痺になって全身の自由が利かなくなりました。唯一自由に動かせるところが目だけだったのですが、その瞬きで他の人と対話し、詩を伝えることができたことから「まばたきの詩人」とも呼ばれています。

イエスさまが葬られたのはエルサレムでしたので、この歌に歌われているような自然があったかはわかりません。でもこの詩には、イエス・キリストの復活の命が美しく表現されているように思います。そして復活はまさに生命の始まりであることを連想させます。そのとき生き物が目覚め、緑が太陽に照らし出され朝もやが晴れわたる。夜から朝へ。闇から光へ。いわば生命が動き出すようなイメージがあります。この永眠者記念堂の朝もまさにそのようないのちの動きを感じるのです。

 さて、イエス・キリストは今日の聖書個所で復活について教えています。復活とは理性的にはなかなか受け止めることが難しいテーマです。それは現代だけでなく、聖書の時代もそうでした。今日の対話相手であるユダヤ教サドカイ派の人々は、イエスさまが復活を教えていることをバカにしてそれで疑問を投げつけて返答に困らせようとしています。
彼らの質問はこう言うものでした。「結婚した夫婦に子どもができず夫が死んだ場合、律法では弟が兄嫁を娶り、子を残すことを教えています。それでは、その次の弟も、そのまた次の弟も、7人もの弟が兄嫁と次々に結婚しても子を残せず死んでしまった場合、復活の時、その兄嫁は誰の妻となるのでしょうか。」

この質問は色々な意味で問題に満ちていますが、彼らが何を正しいとしていたのかは明らかです。それは復活があるかないかということよりも、むしろ生きている間にその家を守り子孫を残すことが一番大切であるということです。サドカイ派の人々の問いかけは家族関係が残ることが前提になっています。だから復活した時にこの兄嫁は誰の妻になるのかと言うのです。ただ、彼らの関心は家制度の維持だけであって、この兄嫁が何をどう願っているかということは全く考慮されていないことが問題です。

私たちの中にもあるかもしれません。とても良い結婚関係を持ち、死してもなお一緒にいたいと思うこと。キリスト教に生まれ変わりと言う概念はありませんが、一般的に「もし再び生まれ変わったとしてもあなたと一緒になりたい」なんていうことは日本文化の中では尊ばれていることかもしれません。でも個々人でそう思うことは尊くて美しくても、これとは全く別の問題です。その関係が家制度に縛り付けられている場合は全く尊いことではありません。それはつまり女性が家のための、子孫繁栄のための道具のように位置づけられ、そしてそれが死後も続いていくことを示しているからです。ここがイエス・キリストが指摘しているポイントであるような気がします。

イエス・キリストは言います。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから思い違いをしている。復活の時には、娶ることもなく嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」つまり、イエス・キリストはその女性の立場に立ち、天使のようになる、つまり、家に属する者ではなく、あらゆるものから解放された存在として、神にのみ属する者として復活すると言うのです。
私たちは、この世で生きる上で色々なものに縛られています。それは愛のように尊いのもあれば、断ち切りたいのに断ち切れない鎖のような関係もあります。この話で言うならば、妻にも弟たちにもその結婚を選ぶ権利が認められません。ただ長男の後継ぎを得るためだけに、その関係が作られたのです。因習に縛られ、彼らには選択の自由も人権も認められていません。仮にそこで子供が生まれたとしても、顔も見たことがない長兄の子として人生を送ります。彼らの人生には自由はなく、かえって様々なものに縛られた人生であったと言えます。そして、そんな関係が死後も続くのでしょうか。

イエスさまはこう言っているのだと思うのです。「あほちゃうか。良く聞け、復活の時には、天使のように、そのような様々な関係からは解き放たれ自由になる。つまり神との関係によって生きる者になるのだ。」。神との関係によって生きるというのは、簡単に言えば神がその人に与えられた生をその人らしく生きることができるということです。私たちは日々、様々なことによって縛られて生きています。でもイエスさまは復活の時にはそのような関係ではなくなるのだ。復活の命、新しい命に生きることは、神によって愛された一人の尊い人格のままで生きることができることだと言うのです。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という言葉が心に響きます。これはイエスさまが言われた「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と重ねて響きます。つまり私たちは神にあって死んでも生きるのです。何故なら神は生きている者の神であるからなのです。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という神の言葉には、わたしはアブラハムの神であったという過去形ではなく、今もなお彼らが神との関係の中で生かされていること、つまり神の愛のもとで、すでに死者も新たないのちを得て生かされているということが分かります。イエスの友だちであったラザロも死にました。でも、イエスさまの呼びかけに応じて墓から出てくるのです。それは、死は終わりの出来事ではなく、神のもとでの新たな始まりであることを示しているのです。

わたしたちにも同じように語り掛けられています。聖書個所に出てくる兄嫁は、その個人のいのちは顧みられていませんでした。まさに死んだも同然のいのちだったともいえるかもしれません。でも、イエスさまはそんな彼女のいのちに目を留めて、あなたは天使のように自由になると言っておられるのです。神は死んだ者の神ではない。生きている者の神である。つまり、神はいま私たちのいのちに心を留め、「私はあなたの神である」と語ってくださるように思うのです。

神は私たちと共におられる。そして、永眠者のお一人一人も同じ神の御許にいる。何故ならば神が一人一人のいのちを顧みてくださっているからである。困難の中にいて、不安におののき、命の光が消えてしまいそうなときも、神が羊飼いとして一人一人の声を聞き、語りかけ、養い、導いてくださるのです。だから私たちは一人一人神にあって自由にされた者として「我らの国籍は天にあり」と高らかに宣言できるのです。

今日はこの場では共に集まって礼拝をすることが守れませんでしたが、しかし私たちは同じ神のもとで今、礼拝をしています。神が共におられるこの関係性の中に、再会の希望が与えられていることを覚えたいと思います。

 

〇祈り

 主なる神様、今日はこの永眠者記念堂の前で礼拝を守れたことを心より感謝申し上げます。私たちは、今あなたによって復活の命が与えられていることを信じます。また永眠されたお一人一人もまた神の御許において、新しい命に生かされていることを感謝申し上げます。「われらの国籍は天にあり」とあるように、あなたの命を頂き、私たちが生かされていることに心を留めて歩みだすことができますようにお導き下さい。私たちには困難があります。でもこんな時こそ、あなたの伴いを実感し生きていくことができますように慰めと励ましをお与えください。このお祈りを尊き主イエス・キリストの御名によって御前にお献げいたします。アーメン。