本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「イエスの教え 人の尊厳を守るために」【西脇慎一】

〇聖書個所 マタイによる福音書5:27-32

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 

〇「イエスの教え 人の尊厳を守るために」

先週のイースター礼拝では私たちは、イエス・キリストの復活についてルカによる福音書から御言葉を受けました。イエスは復活されたあと、直ちに弟子たちのもとを離れて天に帰ってしまったわけではありませんでした。イエスは40日に渡って弟子たちと共に過ごされ、神の国について教えておられたのです。この時期をキリスト教では「復活節」と言います。つまり今私たちは復活されたイエス・キリストの伴いがある中を歩んでいるのです。そして今私たちはイエスの伴いの中で、新たな歩み出しのための励ましと慰めを与えられていることを心に留めて参りたいと思います。今日の聖書個所もそのような文脈の中にあるものとして受け取って参りましょう。

今日の聖書個所はマタイによる福音書に戻ります。「あなたがたは〇〇と教えられている。しかし私はこう言っておく。」という形式で始まるイエス・キリストの教えは、これまでに教えられてきた内容が当然だと思っていた人々にとっては、常識を覆す教えでありました。新しい教えのように受け取った人もいるでしょうし、「常識と違う、聞いていられん」と反発する人たちもいたことが予想されます。

今日のテーマは、姦淫と離婚についてです。これは語るにはなかなかに難しいテーマであると感じています。何故ならば、とてもデリケートなテーマであり、語った言葉がどう皆さまに響くかがわからないからです。そして語る者自身がどのようにそれを守り実践しているかを明らかにするからです。ちなみに新共同訳では「姦淫してはならない」と「離婚してはならない」と二つになっていますが、口語訳聖書では連続した教えだと理解されています。私はこれは一つの人の尊厳を守るための教えとして捉えていきたいと思います。しかし注意したいことは、これらの教えは同列に考えてよいというわけではないことです。特に「離婚してはならない」と言う言い方は正確ではありません。イエスは一律に離婚してはならないと教えたわけではないからです。でも姦淫、これは不倫のことですが、これについては疑いなく、そして厳しくダメだと言っています。

例えば27節、「あなたがたも聞いている通り、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」こんな風に言われてしまえば、わたし自身は姦淫は行っていないものの、しかし果たしてその心の中はどうであったのかと言われると、何と答えてよいかわかりません。地獄に投げ落とされるかもしれません。皆さんはどうでしょうか。ちなみに、新共同訳聖書では「他人の妻」と限定されていますが、聖書の言葉では、結婚しているかいないは問わない、一人の女性についてです。一人の女性をみだらな思いで思うことがダメだというわけです。もちろん、言われていることはわかります。だめだと言われたらその通りです。ぐうの音もでません。でも本当にそれを完璧に守れる人っているのでしょうか。ちなみに聖書では男性から女性を見る視点で書かれていますが、女性から男性を見る視点ても同じことが言えるのではないでしょうか。

最近の日本は空前の不倫ブームだと言います。毎月のように芸能人の不倫がニュースになり、「不倫は文化だ」という言葉も出るくらい、悪いことだとは思うけれども興味も尽きないこと。パートナーにわからなければ一度くらいならば別にいいか、あの人もしているし、というようにそのハードルは下がってきています。もちろん自分の中では不倫ではない。この一線を超えたらやばいけど、これくらいだったらまだ大丈夫というような感じで程よい交際関係を楽しんでいる人は男女を問いません。

でも、イエス・キリストの言葉を借りるなら、そのような関係に陥る前にそのように異性を見ることだけで既に心の中で姦淫を犯しているのだと言うのです。そして姦淫というものは、全身が地獄に落ちるほどの罪であると言うのです。どうしてでしょうか。それは実に姦淫とは自分だけではなく周りのものの心をまさに地獄に突き落とすほどの不幸に陥れるものであるからです。

イエス・キリストは「みだらな思いで他人の妻を見る者は」という言葉で忠告しています。ここには二つのポイントがあります。一つは「みだらな思い」とは何かということです。不倫している人はみだらな思いと言うよりはむしろピュアな思いに突き動かされるように行動に走るそうです。まさに眠っていた青春の心がドキドキしてキラキラと輝くようなものだとも聞きます。でもそのピュアな思いも聖書ではみだらな思いという記述になります。ちなみに他の聖書では「情欲も持つ」と書かれていますが元々の言葉では「相手を熱望することに向かっていく人」のことです。これは頭ではいけないことだとわかっているのに、性的・肉体的欲望を含む気持ちから逃れることができなくなった人のことです。そしてその思いがコントロールできなくなる時、見過ごしにされた家庭が崩壊し周りの人間が傷つくのです。

男性が他人の妻に情欲を持った場合、その妻の主人に対して罪が生まれます。聖書の当時の話ですが、妻とは夫の財産でした。ですから、もし仮にその相手である妻が合意していたとしても、それは主人の尊厳を傷つけ主人の財産をむさぼることになったのです。そして、その場合の賠償というものは死をもって償わなければならないものでした。とても厳しい罰則のように思えるかもしれません。そこまでしなくても良いのではと思うかもしれませんが、でもそのようになった時点で相手のパートナーの尊厳を傷つけるだけではなく、自分の家族の尊厳をないがしろにすることになります。自分の妻はじめ子どもやその他の人は既に殺されているも同然なのです。これが姦淫の罪の重大性なのです。

もう一つのポイントです。イエス・キリストがここで「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも」と言っているのは、実は結婚している男性に対してであるということを心に留めたいのです。女性に向けて言っているものではありません。聖書には有名な「姦通の現場で捕えられた女性」(ヨハネ8:1-11)の話がありますが、姦通はそもそも律法の規定に従うならば、男性も女性も石打にならなければいけないほどの不名誉な罪でありました。しかし、この時捕えられまさに殺されようとしていたのはむしろ女性だけでした。社会全体が家父長制という男性優位の社会にある中で、女性が誘惑し男性は騙されたという差別と不公平の構図があります。ですから、イエスさまがここで言おうとしていることは男性中心社会に対して、弱い立場であった女性を自分の都合の良いようにしてはならないということなのです。

「離婚してはならない」という教えも同様です。これは一般化してはいけません。イエスさまが言っていることは、「不法な結婚でもないのに、妻を離縁しようとする男性」に対して、「離縁してはならない」と語られているだけです。つまりあなたは自分の心の欲情に引きずられて妻を一方的に離縁して他の人と一緒になろうとしてはいけないと言っているのです。それは妻に対して罪を犯すものであり、結び合わされた神に罪を犯すものであります。そしてその結果、その妻の相手となった男性にも罪を負わせてしまうことになるからです。

そしてそれはあなた自身が滅びるだけではなく、あなたの家の者すべてが影響を受けることになる。あなたは隣人の家をむさぼってはいけない。むしろ自分に与えられている伴侶を愛し、その伴侶の尊厳を守り、そして家族を愛しなさい。これが、あなたのするべきことである、それが地獄に落とされる道なのではなく反対に、天の国に至る道であると言っているのだと思うのです。

やはり問題は、離婚や姦淫の自由が男性側にしかなかったということです。「妻を離縁する者は離縁状を渡せ」とはモーセが人々に教えたことですが、何故そのように教えたかと言うとマタイ19章によれば、「初めからそうだったわけではない。あなたがた(男性)がかたくなだったからだ。」と言います。つまり、もともと結婚関係は男性の身勝手によって弄ばれてはならないと言うのです。結婚とはむしろ神が創造した者同士の巡り合わせであり、それぞれの尊厳を守るために結び合わされたものです。そしてそれを他人が離してはならないのです。しかしお互いの尊厳が守られないためには、むしろ自ら離れた方が良い場合もあります。離婚はしても良いのです。結婚がお互いを尊重し守るためにあるならば、離婚も同様に、それぞれの人格と尊厳の守りのために、尊重されるべきことなのです。

ところでなんでイエスさまはこの時にこの教えを人々に語ったのでしょうか。姦淫の罪や結婚関係の破綻が蔓延していたのでしょうか。それはわかりませんが、先行きの見えない不安の中で自分より弱い立場の家族を傷つけたり、自分の不安解消にばかり走ったりして心の安定を図ろうとする状況があったのかもしれません。

最近、コロナDVやコロナ離婚という言葉をよく聞きます。コロナウイルスの影響で多くの人が経済的な不安や先の見通せない不安から、家にいるだけでイライラし、パートナーや家族と関係が悪くなり、DVや離婚が増えているのです。フランスでは外出自粛が始まって1週間でDVの相談件数が3割増えたようです。色々な要因があるのだと思います。でも、自分のみだらな思い、欲情、すなわち自分勝手な思いで生きてはいけない。あなたがたはむしろ皆と共に生きていきなさい。あなたの不安な心を守るためにわたしは今共にいるのだ。あなたは大丈夫だ。そのようにイエス・キリストは他者の尊厳を守るように、すべての人の命を尊重し共に生きていくようにと教えているのです。

最後に言いますが、イエス・キリストは結婚されませんでした。それは結婚関係がすべてではないということを教えることであり、結婚しなくても私たちが共に生きていくことに何の支障もないということを現わしています。イエス・キリストの伴いの中、私たち一人一人のいのちが尊重され、共に生きることこれを神は願っているのです。

最後にガラテヤ5:13-14を読み共に祈って参りましょう。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」(ガラテヤ5:13-14)

祈り