本日、会堂での祈祷会は休止です。それぞれの場所で祈りの時をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「見ること、信じること、生きること」【西脇慎一】

【聖書個所】

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20:19-29 新共同訳)

 

〇メッセージ

イエス・キリストが復活後、弟子たちの前に現れたのは、彼らに平和を与えるためでした。彼らが「ユダヤ人たちを恐れ、家の戸に鍵をかけて」閉じこもっていたのは、彼らが恐怖と不安に満ちていたからです。そんな彼らの閉じこもった心と居場所に一方的に入り込んできたのがイエスでありました。

聖書には「弟子たちは主を見て喜んだ」としか書かれていませんが、弟子たちは大変びっくりしたと思います。息が止まるほどのびっくりだったと思います。いるはずのない人が突然現れたわけです。しかも、手と脇腹を見せられています。生々しい傷跡があったのか、それとも傷跡が治っていた後だったのかはわかりません。でもそれは弟子たちにとってはイエスを見捨てた証拠であり、見るに堪えない部分であったはずです。
しかしイエスは重ねて「平和があるように」と言い、弟子の派遣を告げました。息を吹きかけてから「聖霊を受けなさい」と言われたことは、「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」(創世記2:7)とあるように新たなスタートの象徴です。聖霊は、恐れや不安から私たちを解放し、喜びのいのちへと導く神の力であります。

ところで23節の言葉が気になります。罪(的外れな生き方)の赦しについてですが、イエスにとってみれば、弟子たちこそ罪を犯した存在でありましたし、弟子たちはこの時普通に考えればイエスに顔向けなんてできなかったはずです。でも、そんな弟子たちを一方的に赦し、新しい命を与え、新たな歩みに招いていくことが、「イエスの平和」でありました。平和を宣べ伝えていくことが「イエスの福音宣教」でありました。弟子たちはこのように、「罪を赦された者たちによるすべての者への福音宣教」にここから遣わされていくのです。

ところが、そこには弟子の一人であるトマスがいませんでした。トマスは猜疑心の強い人として知られています。イエスが復活したと聞いたとき、彼は信じなかったからです。でもよくよく考えてみると、トマスが信じられなかったのは、自分だけその場にいなかったからだと思います。他の人がみんな喜んでいるでも、自分にはリアルがない。これは彼の心が傷つく理由だったと思いますし、他の人の喜びに共感することができなかった理由だったと思います。

しかし、イエスは8日後、今度はトマスに出会うためにやって来たのです。トマスは「指を釘後に、手を脇腹に入れてみなければ信じない」と言っていたにも関わらず、直接イエスに対面した時に、彼は確認を行わないままに、イエスを信じました。

「あなたは見たから信じたのか。見ないのに信じない人は幸いである。」こう言われますが、トマスは傷跡を見ないで信じました。他の弟子たちは見て喜んでいます。イエスは傷跡を見せています。見ないで信じるとはどういうことか。それは「見ること」が悪いということではなく、むしろ「自分の心で信じる」ということの大切さを教えているように思います。

この聖書個所を通して「出会い」について考えさせられます。わたしたちは、ひとりひとりそれぞれのイエス・キリストとの出会い方があります。どの信じ方が一番良いかとかそういうことではありません。むしろ、自分の心がイエスを受け入れるということが最も大切なことであり、わたしたちの平和に繋がっていくのだと思います。

福音宣教は、私たちの心を不安や恐怖から守り、喜びへと招くものです。どういう伝え方が良いとかではなく、「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝える」つまり、聖霊を受けて私たちらしく生きていくことが、もっとも大切なことではないかと思うのです。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)