本日、会堂での祈祷会は休止です。それぞれの場所で祈りの時をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「十字架を自ら背負うキリスト」【西脇慎一】

【聖書個所】

「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネによる福音書19:17-30 新共同訳)

 

〇メッセージ

今日の聖書個所を読んで改めて心に留めたことは、イエスが「自ら十字架を背負った」ことでした。十字架はローマに敵対する政治犯などに使われた最も恐ろしい処刑方法であり、多くの人が目をそむけたくなるようなものであったと思います。共観福音書ではたまたま通りかかったキレネ人シモンが無理やり背負わせられていますが、本当はそんなことはしたくなかったでしょう。ところがヨハネ福音書ではイエスが自ら十字架を背負っているのです。無罪であるにもかかわらず十字架に即けられるという民衆の呪いを自ら背負い、その道を歩まれたのです。そんなイエスを総督ピラトはどう見ていたのでしょうか。多くの人に読めるように配慮された罪状書きには「ナザレのイエス・ユダヤ人の王」と書かれていました。これはおよそ罪状ではありません。確かに祭司長たちが言うように、「ユダヤ人の王を自称した」というのであれば、罪状になるでしょうが、ピラトはその申し出を却下しています。つまり、イエスは十字架を背負い、民衆の憎しみや呪いを一身に背負っていく姿に、ユダヤ人の王の姿を見出していたのです。

王とはどういう存在でしょうか。イスラエルが初めて王を求めた時、預言者サムエルは王の権能についてこう言っています。

「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」(サムエル記上8:11-18)

上記の言葉は、「イスラエルは神が王として導かれるのだから、他に王は必要ない」という意味合いで語られているわけですが、人々はその声に聴き従わず王を求めていってしまうことになるわけです。そして神によって立てられた王たちは次第に神から離れ、サムエルの忠告の通りになっていってしまいました。

イエス・キリストの時代、その王の権能をわがものとしていたのがローマ帝国の皇帝でありました。

「イエスを十字架に即けろ」と叫ぶユダヤ人が、それを躊躇するピラトに対して放った脅し文句は、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。」(ヨハネ19:12)でした。こう脅されては、ピラトは脅しに屈するより他はありませんでした。

史実のポンテオ・ピラトがどういう人物であったのかはわかりませんが、ヨハネ福音書のピラトの姿は、真理を求めていたように思います。もしかして皇帝に敬意を払いつつもその存在と権能に疑念を持ち始めていたのかもしれません。もし皇帝が自分を信頼してくれていると感じられていれば、脅しに屈する必要はなかったはずだからです。

こうしてイエス・キリストは「ユダヤ人の王」として民衆の思いを一心に受け止めて、人々の救いのための犠牲となって十字架に即けられました。イエス・キリストがなし遂げられたことは、その時は誰もわからなかったことだと思います。しかしこれが、イエス・キリストによる神の救いの成就になったのです。イエス・キリストは三日目に神によって死者の中から復活させられました。もう二度と誰かのいのちを犠牲としてはならない。すべての人の命が尊重される神の国の完成なのです。

わたしたちの心は多くの不安によって憎しみや呪い、恐れなどを生み出します。でも、イエス・キリストはそんな私たちの心に平安あれと言われるのです。深呼吸して落ち着いて、霊の息吹を感じながら、日々の歩みを進めて参りましょう。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)