本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

聖書個所:マタイによる福音書5章17~20節

宣教題:「廃止ではなく完成するために。」【西脇慎一】

〇ご挨拶

みなさん、おはようございます。教会での礼拝がお休みになってから4週間になりますが、お元気にお過ごしでしょうか。今日も私はこの教会の礼拝堂で、皆さまの日々の歩みの守りのために、またご健康の守りと心の平安のために、また来るべき時にコロナウイルスの影響が収まり、再びこの教会で共に礼拝できるように祈りつつ、時を過ごしております。困難の時は続きますが、主が共におられることに心を留め、御言葉に耳を傾けて歩んで参りましょう。それでは、聖書個所を拝読いたします。

〇聖書個所 マタイによる福音書5:17-20

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

〇「廃止ではなく、完成するために」

イエス・キリストは「律法と預言者を廃止するためではなく完成するために来た」と語りました。なぜこのように言われたのかというと、人々が「律法」の廃止を期待していたことを知っていたからです。何故、人々は律法を廃止してほしかったのかというと、この人々が「律法」によって人格が傷つけられていたからなのです。

「律法」というのは、出エジプトの時にモーセが与えられた「十戒」が基礎になっていますが、ユダヤ人が神の民となり、人々と共に生きていく上で守るべき教えです。例えば安息日を守ることや食物規定などは、いのちと尊厳を守るためのものであり、その多くは彼らの生活の中に取り入れられていました。でも、その教えが「そう生きねばならない」という風に厳格化されてしまったとき、律法を守れない人たちは、「律法を汚した存在」だと見做されてしまっていたのです。これに彼らは傷つけられてきたのです。ですから彼らはイエスさまに「律法の廃止」を期待していたわけです。

でもイエスさまは、律法は天地が消え失せる時、つまり最後の時まで消え失せることはないと語ります。なぜ、イエスさまはこのように語ったのでしょうか。そしてこの言葉は人々にはどのように響いたでしょうか。実は、イエスさまと人々の間には律法の認識について大きなすれ違いがあります。イエスさまは「神の愛である律法」を語り、人々は「人間の義である律法主義」を言っているからです。

律法それ自体と律法主義は全くの別物です。どれくらい違うかというと、律法が神の愛によって与えられたものだとしたら、律法主義とはそれを守る人間を義とするものです。「義」とは簡単に言えば「神にある正しさ」です。私たちは何を神にあって正しいとするのでしょうか。律法学者やファリサイ派の人々の正しさとは、律法を守ることによる「自己義認」でした。そして自分が正しい立場にいると思っているからこそ、他人のことを容易に断罪できます。他人の事情を慮ることもせず、律法を守れないのは「自己責任」だと言うわけです。ですから彼らは、自分たちは正しい存在だから天の国に入れるけれど、律法を守っていない人たちは天の国に入れないと考えていたわけです。それが「律法主義」の考え方であり、多くの人々を縛っていた「律法」認識の正体でした。でもこの考え方は、人の思考力を奪い、人を律法というレンズを通してしか見ることができなくなってしまうものです。

でも、イエスさまはこう言います。「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義に優っていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

これを聞いて恐らく人々はびっくりしたと思います。何故ならば、律法を守る者は天の国で大いなる者と呼ばれることはわかるけれども、小さな掟の一つでも破るように教える者でも、天の国で小さい者と呼ばれてはいるものの天の国には入れるのだとイエスさまは言っているからです。これは律法主義者の「律法を守る正しい人だけが天の国に入れる」という教えと全く異なった教えでありました。大切なことは、天の国で大きい存在か小さい存在かということではありません。あなたがたは律法を守れていない存在であったとしても、あなたがたは神の愛によって天の国にいるのだということを伝えているのです。

但し、イエスさまは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義に優っていれば」という条件を付けられます。先ほども「義」とは簡単に言えば「神にある正しさ」であるといいました。私たちは神にあって何を正しいとするのでしょうか。もちろん、律法学者やファリサイ派の人々も頑張って「義」を為して生きていこうと思っていたと思います。それは言い換えれば「祈り」という生き方でもあったと思います。とってもまじめで素直だったのだと思います。でも、その生き方は他の人にも正当性をもって当てはめられていくときに、息苦しさが生まれていくのです。

そして実にそのような生き方というものは、私たちの内にも簡単に芽生えてくる思いであります。もっと神に相応しいように、もっと良いクリスチャンとして生きていけるように、イエス・キリストの弟子となるために、こうしなければいけない。もっと頑張らなければいけない。もっと聖書を読まなければいけない。奉仕や献金ができなくて申し訳なく思う。これらのような思いは、神に自分の義を立てて行こうとするときに生まれてくる思いなのです。それは決して悪いものではありません。でも、自分で頑張って義を為していこうとするときに往々として出てくる思いは、「正しくない者たちと自分を比べる思い」です。これに私たちは注意していく必要があります。

イエスさまが、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義が優っていれば」と言います。それでは人々は、そんな律法学者やファリサイ派の人々にまさる義を持ち合わせていたのでしょうか。恐らく、人々は自分を正しいと主張できる材料なんて何も持ち合わせていなかったと思います。彼らに「義」や「正しさ」なんてなかったと言っても言い過ぎではないと思います。

何故ならば、彼らは自分たちでも律法を守れていないことを自覚していたからです。あの人たちはすごい。私たちとは違う。でも、もし仮にわたしたちが自分たちで頑張って律法学者やファリサイ派の人々にまさる義を持とうとするならば、それは律法学者やファリサイ派の人々と同じ性質の義になってしまいます。そうではありません。彼らに優るわたしたちの義とは、神の義に他ならないのです。何の正しさも持ちえない者が、神の義によりて義とされることが私たちの義であるのです。だからイエス・キリストは言われるのです。「最も小さな掟を一つでも破る者でも、天の国に入れるのだ。何故ならば、あなたがたを天の国に招くのは、自己義認の「義」ではなく、すべての者を愛するという「神の義」なのだから」。

イエス・キリストがやって来て示された「神の義」とは最も小さな者の一人のいのちを愛し、その存在を喜び、その個性を尊重するものでありました。そもそも律法と言うものは、神が最も弱く小さい存在であった出エジプトの民に与えられた愛の道であり、人を裁くための道具や天国に入るための手段ではありませんでした。最も小さな命をも神が愛しておられることを知らせるための教えであったのです。これが神の正しさであり、愛なのです。ですから律法の完成というのは、全ての人に与えられている命をそのまま生きることであり、それが神の正しさであるということなのです。

預言者の完成というのも同じです。預言者とは旧約時代に人々の歩むべき道を指し示す神の言葉の代弁者でありましたが、イエス・キリストがいまや来られたときに、もはや「どう生きていきなさい」という指示は必要ない。あなたがたは預言の完成である「神の伴いのただ中を今生きているのだ」ということなのです。「完成」という言葉は「成就」という言葉にも訳せます。つまり、神が聖書を通して常に伝えようとしているメッセージは、イエス・キリストの到来をもって、私たちのただ中に与えられているということなのです。そして、あなたがたの存在が尊く、その命を守って生きることが、すなわち神の愛である律法を守ることになり、天の国で大いなる者と呼ばれるものになるのだと語っているのです。

今回のコロナウイルス感染症の拡大は、キリスト教会にも色々と影響を及ぼしています。例えばこれを終末、世の終わりの一つのしるしだと理解して、「自分たちの身を清めてイエス・キリストの再臨(最後の時)を待ち望みましょう。」と言って不安を煽る人たちもいます。でも、私たちは不安におののく必要はありません。終末や世の終わりとは、いついつ来る、そのときには災害や天変地異が起きるというものではなく、神が私たちと共におられることによって始まることだからです。私たちはこの時を共に生きていこうとイエスさまに招かれているのです。私たちは礼拝を守ることができていません。心静めて祈ることさえできないような不安の時もあります。でも、そのような時にこそ、神が共におられ、あなたを肯定しておられるという約束があることに心を留めましょう。そして、私たちは既に天の国に招かれており、イエス・キリストの伴いの中で生かされているのだということを心に留めて、平安の内に一日一日を過ごしてまいりましょう。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ書29:11)

〇祈り