本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

聖書個所:マタイによる福音書5章13~16節

宣教題:「あなたがたこそ地の塩、世の光である。」【西脇慎一】

〇ご挨拶

 みなさん、おはようございます。新型コロナウイルスの拡大防止のために教会での礼拝をお休みしてから3週間になります。わたしは皆さまとお会いできずとても寂しい時を過ごしておりますが、毎日朝10時と夜8時に時刻を合わせてお祈りできるということに心励まされております。今日も主が皆さまと共におられますように、ご健康の守りと心の平安のためにお祈りしております。

〇「地の塩」「世の光」と呼ばれる人たちはどういう人か?

神戸教会では、今年1月からマタイによる福音書を読み進めています。今日は「山上の説教」の「地の塩、世の光」というイエス・キリストの福音を受け取って参りましょう。

イエス・キリストは、「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」と宣言されます。「地の塩のような人」というとどういう人々を想像するでしょうか?私は、社会全体にピリッと味付けを加えるような影響力を持った人々のことを思い浮かべます。或いは塩は防腐効果がありますから、社会全体を整えるような働きをする人でしょうか。

「世の光のような人」というとどういう人々を想像するでしょうか?スポットライトを浴びるような人々や模範や憧れの対象になる人を連想するように思います。そのような方々は、現在ではネットなどでは「インフルエンサー」と呼ばれています。インフルエンザではありませんが、インフルエンザのように影響を周りに広げていく「世間に与える影響力が大きい人」のことです。

イエス・キリストはある意味ではインフルエンサーでした。ユダヤの片田舎の出身であるにもかかわらず、その教えがいまや世界中に広がっているわけですから。でもイエス・キリストが「あなたがたは地の塩である。世の光である」と宣言された方々は、そういったような影響力を持っている方々ではありませんでした。山に集まってイエスさまの教えを聞いていた彼らがどのような人たちであったかというと、4章23節にはこう書いてあります。「色々な病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者などありとあらゆる病気や患いに悩む者たち」です。彼らは影響力を持っているどころか、多くの人が敬遠したいものを持っていた人々でした。病気も悩みもハンディもおよそ彼らが自分で持ちたいと思ったものではありません。でも、彼らはそのような症状によって多くの影響を受けていたのです。周りの人から白い目で見られたり、距離を取られたりすることがあります。陰口をたたかれることも迷惑がられることもあったでしょう。そんな中で長年苦しんでいると、自分でも「何か自分が悪いことをしたからではないか。自己責任なのではないだろうか。」と思い詰めてしまうこともあったでしょう。

今回のコロナウイルスの感染拡大でも、感染した人が何か悪いことをしたかのように報道されることがあります。感染を拡大させようとすることは大問題ですが、感染を恐れるあまりコロナ疲れで心が疲弊して、近くの人がくしゃみをしただけで感染を疑ってしまったり、マスクを着けていないだけで感染予防ができていない人だと思われてしまったり、外に出ているだけで自粛ができていない人だと思われてしまうようになっています。これもコロナウイルスによるハラスメントだと言えるでしょう。もちろん予防は大切だと思いますが、その一方で感染予防が当然だと思うあまりそれをしない人、或いは予防したけれども感染してしまった人はダメだというような思考が起きてくることもあります。

これは、私たちの心にも簡単に出てくる思いです。そしてそのような思いが病気や苦しみに悩む者たちをさらに追い詰めて行ってしまうということは、聖書の時代と今の社会とあまり変わっていない認識なのかもしれません。しかし、イエス・キリストはそんな彼らに「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である」と宣言されているのです。

〇「地の塩」

イエスさまは何故そんな人々を「あなたがたは地の塩である。」と言われたのでしょうか。どういう意味なのでしょうか。色々な受け止め方があると思いますが、今日わたしはこう思います。先ほども申し上げましたが、イエスさまが地の塩と宣言した方々は、色々な病気や悩みに苦しんでいる人たちであり、恐らくこれまでどこにも助けを得られず、他に行く場がなかったような人たちでした。そんなあなたがたが地の塩であると言っているのですから、地の塩になるために何かをする必要があるのではないのでしょう。むしろその存在が大切だということなのです。つまり今あなたがたは苦しんでいるが、そんなあなたたちの存在こそがこの地の塩なのだと言うのです。

「塩」というのは普通のソルトです。申し上げる必要もありませんが、調味料の代表格の一つであり、塩を振るだけで料理はおいしくなりますし、塩に着けることで保存することもできます。「地の塩」という言葉の意味を考えると、その塩の存在だけで、この地を豊かにすることができるものです。

でも塩というものは、それだけでは食べることはできないものです。私もたまに料理をするのですが、時々作った料理が塩辛いと言われることがあります。私も料理に溶けきれずまだ固まったままの塩の塊を食べて、噴き出したことがあります。塩は少量でよいのです。ポテトチップスもうすしおがいいのです。濃い塩という味は見たことがありませんし、あっても食べられないと思います。塩は素材にしみて見えなくなる状態、でもそこに必ずあるというくらいが程よいのです。塩自体の存在感はうすいかもしれません。何もないと思うかもしれないけれども、でも、そこにはしっかり味付けしている塩があります。このように、イエスさまは地の塩であるあなたがたは、何もしていない何の力もないと思うかもしれないけれど、既にいまこの地を味付けしているのだと言っているのです。いま、あなたたちがそこにいることが何よりも重要で、それだけで十分なのです。

でもイエスさまは、塩気を失ってはいけないと言います。塩が塩気を失うということがあるのでしょうか。調べてみましたが、昔の塩は今の塩とは成分が異なり、湿気によって塩気を失うということがあったそうです。イエス・キリストが言われているのは、あなたがたはこの地に塩気を奪われすぎてはいけない。わたしたちはいつまでも地に対して塩気を与え続けていないといけないということなのです。

どういうことでしょうか。わたしはこういうことだと思います。つまり私たちは、この世の中で色々な重荷悩みを持っています。これが私たちの塩気です。重荷悩みを持っている人は私たちが住む土地、つまり世の中に対して味付けをします。塩気がなければこの世の中は何も変わりません。でも塩気があることでこの世は変わっていけるのです。でも、そのピリッとした塩気を私たちが忘れてしまったとき、私たちは重荷悩みに無感覚になってしまいます。これが良くないのです。私たちは次第にこの世の中に染まり塩気を失って行ってしまいやすい者です。こうなると私たちは地の塩ではなくなってしまいます。私たちの存在を通して世の中が変えられていくこと。変えていくこと。これが地の塩の役割なのです。

ところで私、今回のメッセージの黙想をしているときに、「おもしろき、こともなき世を、おもしろく」という有名な言葉を連想しました。これは幕末の志士高杉晋作の詩です。何故、これを思い起こしたかというと、人々にとって、この社会はどうだったかなあと思ったのです。彼らは、病気や苦しみなどの直接的な困難だけではなく、環境的な困難にも遭いました。とても苦しかったと思います。自分たちの存在が顧みられないような社会です。生きている意味さえ見いだせないと思うこともあったと思います。まさに面白くない世の中です。何故そんな社会に、私たちがいるのか悩みます。

でも、イエス・キリストはそのような状況にいる私たちに対して、あなたたちの存在が必要なのだ。この社会を変えていくために必要なのだ。そしてそんなあなたたちのところに神は共におられるのだということを伝えているように思うのです。「おもしろき、こともなき世を、おもしろく」。まさにみんなが面白く生きていくことができるように、共に生きていこうぜ。とイエス・キリストは招かれるのです。

実は高杉晋作の詩には下の句があります。「おもしろき、こともなき世を、おもしろく、すみなすものは 心なりけり」とあります。「何も面白いこともないこの世の中だが、心持次第でおもしろく生きることができる。」という意味のようです。下の句は他の人物が詠んだという話もありますが、27歳で世を去った高杉晋作の冒険心というか与えられたいのちを楽しむ気概が感じられます。でも、そのような心持になることがとても大変だと思います。私たちはそのような心持になる前に、そびえたつ様々なハードルに目を取られてしまい、心が挫けてしまうからです。

でも、イエス・キリストはそんな私たちに共にいてくださって、共に生きていこうと招いてくださるのです。私たちは自分自身のことを考えれば、世の中で最も小さい者たちであります。何もすることはできません。でもそのいのちはいま、あなたの存在を良しとされた神が与えたものであります。私たちには可能性があるのです。

イエス・キリストは「すでにあなたの存在が地の塩なのだ」というのです。つまり、いまあなたがたは色々な重荷悩みを持っているかもしれないが、大丈夫だ。それは問題ではない。それを背負ってついてきなさい。むしろそれがあるからこそこの世の中が変えられるように塩気を与えることができるのだ。あなたがたは地の塩として塩気を失うことなく、この土地を味付けして生きていきなさい。あなたがたのいのちにはこの世の中の苦しみを喜びへ変えていく可能性があるのだと言っているのです。

〇「世の光」

「世の光」についても同様です。山の上にある町が隠れることができないように、あなたがたのいのちの輝きも隠されることはないと言います。「山の上にある町」を想像した時、私は町ではありませんが、市章山のライトアップを思い出しました。初めて神戸に来たとき、とてもびっくりしました。神戸市のマークや錨のマークが夜になると輝くのです。港町神戸にあって、夜でも船からよく見えるように配慮されたのだろうと思います。確かに山の上にある光は隠れることができないと思いました。でもそう思うと同時にわたしのいのちにはそんな輝きはないのではないかと思ってしまうことがあるのです。スポットライトを浴びるような大した能力も功績もありません。そんなに目立つところにおかれるよりもむしろ小さなところで灯の光のように存在していたいと考えます。灯火で良いのです。小さなロウソクでも他のロウソクと共に燭台に飾られるとき、とても大きな光となるからです。

でも、イエス・キリストはその光を枡の下に置いてはいけないと言います。私たちは時に、自分たちに与えられているいのちの光を、小さな枡の下に入れて、隠そうとしてしまうことがありますが、光を枡の中に入れてしまうことは、光を遮断することになります。それは、神が私たち一人一人に与えられたいのちの輝きを隠してしまうことになりますし、その光の存在を通して見えてくるものが見えなくなってしまうのです。

光という意味合いでは、どんな光も一緒かもしれません。でもいのちの光はそれぞれのカラーがあり、そのいのちの光を通して私たちは見えるものが代わってきます。この世の中のためには、あなたのフィルターを通した命の光が必要なのだと、あなたに与えられた可能性がこの世の中で最も大切なのだとイエス・キリストは語るのです。立派な行いなんてできなくて構いません。そのいのちがそこに存在するということが、それだけで立派なことであり、イエス・キリストにとって一番大切なことなのではないでしょうか。

実は、「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」は共に複数形のあなたがたが単数形の地の塩、世の光であると書かれています。あなたがたはそれぞれ異なる重荷悩みを持っている。でも、あなたがたが一つの地の塩であり、世の光であると言うのです。「一人よりは二人が良い。倒れれば一人が助け起こす。」とあるように、私たちは一人では立っていけないことがありますが、私たちは独りではないということを覚えたいのです。イエス・キリストが私たちに伴って下さり、私たちはイエス・キリストの土台のもとに一つとされていくからです。

今日この原稿をお読みの方の中には、普段礼拝に来られる教会員だけではなく、礼拝に出かけることもできず、一人で寂しいと思っている方もおられると思います。でも、キリストは願い求める方と共におられます。私たちはイエス・キリストによって結ばれているからです。今は共に会えなくても、でも祈りによって繋がっています。神が私たちの中心にいてくださることを覚え、感謝をもってこの時を歩んでまいりましょう。


〇祈り