本日、会堂での祈祷会は休止です。それぞれの場所で祈りの時をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「わたしは「ナザレのイエス」」【西脇慎一】

聖書個所 ヨハネによる福音書18:1-11 新共同訳

「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明や灯火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」」


◎「イエスを捕えに来た人々との出会い」

今日の聖書個所は、過越祭の前日の夜のクライマックスです。十字架に磔けられる前夜、イエス・キリストは洗足や最後の晩餐で弟子たちと親しく交わられた後、キドロンの谷の向こうへ出かけていきました。この場所はエルサレムとオリーブ山とのちょうど間にあり、他の福音書では、「ゲッセマネの園」と呼ばれているところだと思われます。ゲッセマネは「油絞り」という意味の言葉ですので、オリーブ山で取れたオリーブの実から油を搾る圧搾所だったと思われます。ヨハネ福音書が有名な「ゲッセマネ」ではなく「キドロンの谷」という言葉を使った理由はわかりませんが、キドロンには「濁った流れ」という意味がありますので、もしかして谷底に川がありイエスさまがそこを渡ることを意識しているのかもしれません。これは、「主よ、どこへ行かれるのですか。」と言ったペトロにイエスが「わたしの行くところにあなたは今ついてくることができないが、後でついて来ることになる。」(ヨハネ13:36)と言われたように、今しばらくの断絶を意味しているのかもしれません。まさにメシア(油注がれた者)がゲッセマネ(油絞りの場)で捕まえられ磔にされる十字架の向こうには、私たちはイエス・キリストの招きがなければついていくことができないからです。

そこにユダが武装した一隊の兵士や下役を連れてやってきました。彼らは真夜中に妬みと偽証に満ちた祭司長や律法学者の命令を受けイエスを捕えに来ましたが、イエスはそのすべてをご存じでありました。彼らが「ナザレのイエスを捕えに来た」と言われた時、イエスは二度も「わたしである」と正々堂々と答えています。この自己顕示に、むしろ捕えに来た人々が後ずさりして地に倒れてしまいます。命令を下した人たちは表に出てこないのに、イエスははっきりと自分自身を現わし真実を告げます。不都合なことは闇に葬り去りたいという人間の思惑に対して、イエスは逃げも隠れもせず、むしろその思惑を知りながらも神の義を現わしているかのようです。でも不思議なのは、神はその思惑を暴き立てて明らかにして義による裁きを行うのではなく、むしろ人間のなすがままにされていることのです。何故なのでしょうか。

わたしたちはこういうとき、神の義が為されることを祈ります。神の義とは神の目に正しいことです。わかりやすく言えば、神が私たちを愛されたように生きること。それぞれ異なる全ての人のいのちがそれぞれに満ち満ちた生を送ることです。そしてそれは人のいのちを脅かす力から解放し救い出すことでもあります。この場面で言えば、例えばペトロが剣をもって手下に打ってかかったのを見て、兵士たちが逃げ出して一行は守られたとかそういう結末を私たちは期待してしまいます。

でも、神はここではそのような力を発揮されていません。むしろイエスは剣を鞘に納めるように弟子には伝えますが、自分自身はその武器によって痛めつけられ縛られていくのです。これは義が為されていることなのでしょうか。むしろ私たちは、ペトロがしたように大切な存在を守るために戦うことの方が義なのではないかとさえ思います。でも、神の義とはそうではないのです。神の義とは人を裁くものではなく、敵さえも愛するものであったからです。

シモン・ペトロは、剣で大祭司の手下マルコスの耳を切り落とします。ルカによる福音書ではイエスは耳を切り落とされた人を癒しています。ペトロにとってマルコスは敵でしたが、イエスにとって彼は愛すべき人であったのでしょう。マルコスがその後どういう歩みを送ったかはわかりませんが、映画「パッション」では、癒された彼はその出来事を通してイエスと人格的に出会い、彼が救い主であることを改めて考えようとしている姿を示しています。

イエスを捕えに来た人たちは「命令」によって自らの思考を停止していますが、イエスは自分に向き合うように招いているように思います。そのとき、私たちは我に返り、自分自身が何をしているのか、自分が何に支配されてきたかに気づくのです。

イエス・キリストとの出会いは、色々なところで私たちに与えられます。イエスに長い間付き従ってきてもわからないこともあります。でも、瞬時の出会いでわかることもあります。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)とは私たちには難しいことでもあります。でも、イエス・キリストはそれを行うために、十字架の道を偲び、罪びとの救いのために死なれたのです。これが、すべての者に示されている神の愛なのです。

の出会いは、今もなお私たちに与えられています。御言葉を通して、他者との出会いを通して、黙想を通して、私たちに与えられています。一日一日主が共におられます。しばらくの間、苦難の道は続くかもしれませんが、神が共におられる、私たちに恵みをお与えくださっていることを感謝しつつ、歩んで行きましょう。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)