本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

聖書個所:マタイによる福音書5章9~12節

宣教題:「幸いなるかな。わたしの道に歩む者。」【西脇慎一】

〇神が共におられることが私たちの「幸い」である。

 神戸バプテスト教会では、イエス・キリストの教えとその歩みに心を留めるためにマタイによる福音書を読んでいます。今日は「山上の説教」からイエス・キリストの福音宣教を受け取って参りましょう。「山上の説教」とは、マタイ5章から7章でまとめられているイエスさまの教えのことです。この導入部で「イエスは口を開いて、教えられた。」(5:2)と強調された特別な表現で書かれています。これによって私たちは「人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(4:4)という言葉を思い浮かべます。つまり私たちは神の言葉であるイエス・キリストの教えによって生かされるのです。

最初の「幸いの教え」は、「〇〇な人々は幸いである。何故なら〇〇だからである。」という形式で書かれていますが、元々のギリシャ語では「あなたがたは幸いである。○○なものたちよ。」という宣言の言葉です。「あなたがたは幸いである」という言葉はマカリオスという言葉の複数形ですが、この幸いの意味は、単純にハッピーとか嬉しいということではなく、もっと根源的に「もはや何の不安もない状態」、「いのちが満たされている至福の状態」です。みなさんはそんな幸いを感じたことはあるでしょうか?

恐らくイエスさまの山上の説教を直接聞いた人々の中には、そんな恵まれた状況にいる人はいなかったでしょう。何故ならそこに集まった人々は、イエス・キリスト以外に助けとなる存在を見出すことのできなかった方々であるからです。彼らは幸せどころか絶望的な不安の中でイエス・キリストに一縷の望みをかけた方々でした。でも、イエス・キリストはそんな状況にいる人々に向かって、「あなたがたは幸いである」と語り掛けられました。それはイエス・キリストが共にいることこそが私たちにとって憂いも不安もない至福な状況であるからなのです。

私の言葉で言うと、イエス・キリストはこう言っているのではないかと思うのです。「あなたたちは今まで不安の中で大変な状態にいたかもしれない、でも今は大丈夫だ。何故なら私が今あなたと共にいるからだ。私がここにいるということは、「インマヌエル(神があなたがたと共におられる)」ということだ。あなたたちはこれまでの歩みの中で、嘆き悲しんできたかもしれない。でも、安心しなさい。神はまさに今、あなたたちを顧みているのだから。」ですから、イエス・キリストはそんな人々に「あなたがたは幸いである。」と言い切られたのです。これは平和の訪れを示す言葉でもあるのです。そして、イエス・キリストはどんな困難の中にいても、今私たちと共におられ、私たちの心の痛みを知り、疲れを癒し、平安を与えてくださるのです。

 

〇「平和を実現する者たち、義のために迫害される者たち」

今日の聖書個所で「幸いなるかな」と呼びかけられている9節の「平和を実現する者たち」と10節の「義のために迫害される者たち」は繋がりを持った言葉として考えていきたいと思います。

「平和」とはどういう状態でしょうか。ギリシャ語では「エイレーネー」、ヘブライ語では「シャローム」という言葉ですが、ただ単純に「戦争などの争いがない状態」を指す言葉ではありません。暴力や抑圧や差別、不公平、飢餓などの災害などによって生命に脅かされることがなくなることが聖書の言う平和という状態なのです。言い換えれば平和とは、私たち個々人が抱える不安や状況的な抑圧がなくなり、一人一人のいのちが満ち満ちている状態を指す言葉だと言えるでしょう。

「義」とはギリシャ語ではディカイオスという言葉ですが、他に「正義、公正、公平」と訳し換えることができます。この言葉には「義」という言葉に付随するような「裁き」というような意味合いはなく、むしろ神の慈愛、慈しみというイメージがあります。つまり、神の公正の愛が人々に現わされることが、神の義であると言えるでしょう。

イエス・キリストの元に集まった人の中に平和を作るような仕事をしていた人がいるのでしょうか。あるいは義のために働いていた人がいたのでしょうか。恐らく、そうではないと思います。むしろ彼らは、生活が脅かされている中で平和を求める人たちであり、神の義が為されることを待ち望みつつも飢え渇いていた人たちであったのではないでしょうか。それでは、何故イエス・キリストはそんな彼らにこのように宣言されたのでしょうか。それは、すべてのものの平和の実現が神の公正なる義であり、御心でもあることを示すためであり、その義の実現を待ち望みつつ迫害される人たちが今、イエス・キリストの元で平和を実現していくようになるからではないかと思います。

もちろん平和や公正な世界というものは、誰でも普遍的に望んでいることだと思います。しかしながら、それを本当に実現することは、とても難しいことなのだとも思います。何故ならば、私たちの社会では、自分たちの「平和」を実現するために、敵と「争いを起こす」という矛盾が正々堂々と行われていますし、強い者を守り弱い者をくじくような不義が行われているような構造があるからです。そしてそのような中で、平和や神の義を訴えたために迫害を受けることがあるのです。11-12節に書かれている聖書の言葉は、まさに旧約聖書の預言者たちの物語を読むときに、ありありと感じることができます。一つの例として挙げるならば、バビロン捕囚直前のユダヤでは、預言者エレミヤがバビロンに反旗を翻すことを思いとどまらせようと神の言葉を語ることに対し、当時の権力者は彼の言葉を無視し、投獄しています。

行われるべき公正な判断が行われず、個人のいのちは顧みられない状況。むしろ人のいのちが偏見と差別によって色分けされていくような平和ならざることがあるのです。残念ながら人間の歴史が示すことは、人間の内には自分勝手な平和観と偏った義があり、真実なる平和と義がないということです。私たちにはイエス・キリストが言うような平和を実現することや義を訴えていくことはできません。どうやったら、平和や義を実現していくことができるのでしょうか。

実は私たちにできることは、ただ神に祈り、神の言葉にある平和と義を信じ一人一人生きていくことだけなのだと思います。このように言うと消極的のように聞こえる意かもしれません。でも、ここで私たちが改めて心に留めたいことが、イエス・キリストがどのように平和を実現されていったかということなのです。それは一人一人との出会いと対話の中で起こりました。イエス・キリストはその歩みとその言葉において、最も弱く小さくされた一人一人のいのちと出会い、そのいのちを守られました。その痛みを知り、苦しさを共に分かち、共に生きていこうと招かれました。このような神の伴いによって私たちは平和と義が与えられるのです。

神は、創造物語において、「土の塵で人を形つくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創2:7)とあるように、皆がオリジナルで、ユニークに溢れそれぞれ違いを持った存在として人間を造られました。「あなたのいのちはそれでよい。」だからイエス・キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(5:44)と言われるのです。イエス・キリストはすべてのものの命が尊いことを伝える福音のメッセンジャーでした。イエス・キリストの元に来た人々はこの生の全肯定に生きる力を頂いていたのだと思うのです。「喜びなさい。」と呼びかけられるこのイエス・キリストの元にあって、私たちは小さな平和を実現して生きていくことができるようになるのではないでしょうか。

 

〇礼拝と平和の実現

さて今日の聖書個所は、平和を実現していくことと義のために迫害されるということから、自分がどう生きていくかという教えであるように思えます。しかし、私たちを不安に陥れるような状態から解放されることを平和と捉えるなら、今回のようなコロナウイルスの不安や脅威からの解放や救いというものも、また平和を実現することになるかもしれません。

私は先週8日(日)の主日礼拝の時間、普段であれば皆さんと顔を合わせるときに皆さまとお会いできないということに少なからず動揺しました。そして共に礼拝できないということ不安とに寂しさを覚えました。でも、会堂で静まって祈る中で、皆さまがそれぞれの場所で時を合わせて祈っていることに、神の伴いを感じ慰めと励ましを受けました。主日礼拝を共に会堂で献げられるということは、決して当たり前のことではないことで、神の恵みに他ならないことなのだと感じました。この経験は、再びみなさまと共に礼拝を献げる時に大きな喜びとなるのだろうと感じています。

実は、今回のコロナウイルスの感染拡大に伴って礼拝をお休みにする連絡をした時、ある方からキリスト教会の立場としてこの問題をどのように受け止めるのかということを問いかけられました。今回は感染症予防ということで主日礼拝と諸集会を休止することになったわけですが、もちろん本来私たちの神への礼拝というものは病気等によって休止させるという性質のものではありません。神を礼拝するとは、突き詰めて言うと、礼拝式に参加するというものではなく、自分たちの心を神に向け神の前に自分自身を献げるときであるからです。つまり私たちが神に献げる礼拝とは、私たち一人一人が置かれている場所で神の御言葉に生かされることなのです。

それでは、私が今献げる礼拝とは何だろうかと考えました。自分が感染源になってしまってはいけないので、皆さんに会いに行くことも悩む中、私にできる礼拝とはやはり神に祈ることと神の福音の言葉を届けることだと思いました。朝10時と夜8時の祈りの時間は、わたしにとってとても大切な平安の時間となっています。教会員だけでなく、礼拝出席者の一人一人のことを覚え、祈りの時を過ごしました。

そんな中で、キリスト教会は感染症が起きた時、どのようにしてきたのかを考えてみました。教会堂で行われる礼拝は、感染症流行時には集まること自体に危険が及びます。世界史的には何度も感染症の流行が起こりましたが、そのような中でキリスト教会はどのように対応してきたのでしょうか。

 

〇教会の感染症への働きについて

世界中で最も有名な感染症は黒死病とも呼ばれるペストです。人類史上数回にわたり多くの被害を出した感染症ですが、最も有名な感染は14世紀のヨーロッパで、全人口の1/3から2/3とも言われる2∼3000万人の死者が出ました。ペストの発病から死亡まで数日間です。当時の医療ではその原因も治療法も確立されてはおらず、その不安はヨーロッパ全土に広がり、多くの人々を不安とパニックに陥れました。どのような経路を通じて感染するかわからないということから、親しい身内が感染した場合にも、恐ろしさのあまり手当はされず、修道院の病院に回されて来たそうです。また感染した人々もまた、「ペストにかかったのは神の裁きに違いない。死ぬ前に洗礼を受けて天国に行きたい」と考えて教会にやってきました。また、いつの時代も不安の余り陰謀説は生まれるもので、当時差別されていたユダヤ人がこの病気の原因なのではないかという噂が広まり、ユダヤ人の虐殺も起こったそうです。

死者の弔いに関しても、当時ヨーロッパの墓地と言えば教会でしたので、感染を恐れ遺体に近づけない家族に代わり、司祭や修道士にその働きが任せられたそうです。そのため多くの司祭、修道士や修道女は人々の臨終の告白を聞く中で、次々と感染症にかかって死んでいきました。修道士の6割が死に、全滅した修道院も少なくなかったということです。

2012年に西南学院大学で「自然災害とキリスト教」というシンポジウムが開かれました。その中で、片山寛教授はこう言っています。「キリスト教会は、ペストという感染症の拡大には無力でした。客観的に見れば、教会はただただ狼狽して、慌てていただけでした。当時の教会の公会議や教皇の記録が残っていますが、ペストに関わる公会議は一度も開かれませんでした。しいて言えば、クレメンス6世(1342-1352)は、ユダヤ人への迫害の禁止を訴え、ペストが終わるように公の礼拝で祈りましたが、両方とも効果がありませんでした。」

教会は感染症の対策について無力でした。でも教会は、人の生死に関わる場面から逃げることはしませんでした。多くの修道士や牧師は死が身近にある状況の中で、その状況を耐え忍び、自分にできる最善のこと、つまり神の平安が死にゆく人の上にあることを祈り関わっていたのです。

 

〇無力な者が行う神礼拝の一例

少し後の時代ですが、フィリップ・ニコライという牧師がいます。彼が住んでいた町は、1597年にペストに襲われ、5000人に満たない町でわずか半年の間に1400人が死にました。同僚の牧師も死んで、ニコライは多い日には30人もの死者を一人で埋葬しなければなりませんでした。教会の庭が墓地でしたから、牧師館の中は死臭に満たされ、彼の日常生活は常に死に直面していました。

この悲惨な現実の中で、ニコライはひたすら市民の慰めを祈りました。その祈りから生まれたのが新生讃美歌257番「起きよ、エルサレム」という讃美歌です。この苦難の中祈りと聖書に救いを求めたニコライは、死の恐怖におののく町の人々に永遠の命の喜びを指し示し、私たちを天に迎えて下さる花婿なるキリストへの信頼によって慰めを与えよう、「明けない夜はない」ことを示すために、この讃美歌を作ったのです。彼は自分にできることを自分にできる範囲で行いました。わたしは、これこそ彼の神への礼拝の姿だと思いました。

【新生讃美歌257番 起きよエルサレム】

1、「起きよエルサレムその時来れり」と ものみらは叫ぶ
「賢き乙女らいずこにかありや」と 真夜中に響く
立ち上がりてともし火取れ  ハレルヤ花婿来ませり備えて迎えよ

2、ものみらの歌にシオンは目をさまし 急ぎ起き立ちぬ
月星輝き恵みとまこと満ち  喜び溢れる
いざ来れよイェス神の子  ホザンナ祝いの宴をいざや分かち合わん

3、み使いと共に「誉れ神にあれ」と 高らかに歌え
み座を取り囲む天使らに合わせて 竪琴を鳴らせ
驚くべきこの喜び   たたえよハレルヤ絶えせず主に向かい歌わん

私たちは今もなお不安の中にいます。でも、私たちは神にあって平和が与えられています。私たちは、しばらくの間共に礼拝を守ることができていません。でも、私たちは神を礼拝することができるのです。先ほど申し上げました通り、神を礼拝するとは、突き詰めると自分たちの心を神に向け、神の前に自分自身を献げることです。私たちは平和を祈り求め、義が為されることを祈ることを祈りつつ、イエス・キリストの道に歩むことができるのです。

イエス・キリストが幸いなりと言われるのは、このような神との関わりの中で、苦難の中でも希望を持ち続け生きる人のことなのではないでしょうか。神の伴いと祈りの中で私たちは一人ではありません。ここから私たちは始まっていくのです。皆さまのそれぞれの歩みの上に、主の平安がありますように祈っています。

〇祈り