〇聖書個所 ルカによる福音書 2章8-14節

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 

〇宣教「羊飼いの羊飼いなるキリスト」

本日は主イエス・キリストの誕生を待ち望む待降節(アドベント)の第二週目ということで、アドベント・キャンドルには「平和」を祈りつつ、火を灯しました。このアドベント・キャンドルの点灯にはまさに皆さまの心に平和の灯がともることを祈りつつ行われています。皆さんは、今年一年を振り返ってどのように「平和」の中を歩んでこられたでしょうか。実は私は今年ほど平和を感じられない年はなかったと思っています。平和というものが調和の中で安心して過ごせる日々のことだとしたら、今年は何か落ち着かない、先行きの見えない不透明な「不安」にじりじりと押し寄せられ、その不安によって様々な混乱が起きたような一年(まだ終わっていませんが)であったと思います。平和というとよくその反対語は「戦争」と言われますが、いま私は平和の反対語は戦争という結果なのではなくその前にある様々な不安によって引き起こされる混乱なのではないかと感じています。

そういう風に考えると私たちは今年極めて平和ではない状態にあると言えると思います。それを引き起こしたのは、形としては新型コロナウイルスであると言えるでしょう。感染不安、感染を避けるためのいわゆる三密(これは今年の流行語大賞となりました。)の回避、つまり人との接触の不安。その恐れは反対に攻撃的にもなり、自粛警察という人々が登場しました。普段だったら考えられないことだと思います。でも、これによって起きた様々な混乱というものは、恐らくコロナだけの問題ではなく、恐らくこれまで私たちの社会の中に取り残されていた様々な問題によって引き起こされたことだと思います。

第一波の時にマスクの品不足が起こりました。日常生活や医療現場からもマスクがなくなってしまう一方で、買占め転売という騒動が起こりました。これは一つの言い方で言えば、時機を見た賢いビジネスであったと思います。また自分の健康や自分の生活を守るための自助的な行為であるとも言えるでしょう。しかし、そのために取られた行動は、事実として他の人が必要としているものを奪って自分の安心を得るということでしかありませんでした。「自助・共助・公助そして絆」というスローガンがありますが、突き詰めて考えると、自分を助けるということを最優先にすることは、共助、共に生きるということを殺すことであるのが現実だと思います。最近、また感染が拡大してきて感染拡大地域からのGOTOトラベルが利用できなくなりました。大阪では不要不急の外出自粛要請が出されています。これもまた自分の身を守るために出された要請ですが、しかしそのためにまた飲食業者や観光業者が経済的な苦境に入っていくのです。

先の見えない状況の中、自分が助かるために動くことは人間の本能的な部分だともいえます。そしてそのしわ寄せが、自分よりも貧しい人々に行くということもまた社会の不都合な真実であります。ステイホームが叫ばれていた時、本当にステイホーム出来た人たちは一部の人たちだけでした。そのステイホームはステイホーム出来ない人々によって支えられたものであったともいえます。みんながステイホームを決め込んだらみんな生きていくことはできなくなるからです。エッセンシャルワーカーと呼ばれる人々が他の人々の日常生活を送るために欠かせない仕事を担っていてくださったからこそ、生きていくことができたのです。しかし、その方々にはまたもや「自助」が課せられようとしています。

「公助の事業」としてのGOTOトラベルが叫ばれていますが、これは余裕がある人しか利用することができないという問題点があります。つまり本当に生活が困っている人がいるのに、その「公助」に当たる部分が本当に必要な人に行き渡っていないということです。この事実は既にみんな知っていることです。しかしここを問題として捉えることはあまりされていません。何故ならば利用者にとって都合が悪くなるからです。だから大手を振ってGOTOに行ってきたとはなかなか言いづらいのです。本当に必要な人に回る支援というものは、主流層からはあまり歓迎されません。自助の名のもとに生活保護費は減額されているのです。これが人間の社会なのだと思います。しわ寄せは主流ではない人に行きます。

聖書の中でも同様の構造があります。聖書の世界でエッセンシャルワーカーと言える職業があるとしたら何かというと、それは羊飼いです。旧約聖書時代、イスラエル民族は遊牧民でした。彼らは羊と共に寝起きし生活をしていました。その乳製品や肉、羊毛は人々の衣食住を支えるものでした。羊は理想的な家畜だと言われますが、それは人々が定住生活を始める前までのお話だったと思います。

定住生活を始めたイスラエルで問題になったのは、街中で羊を飼うことが難しいということです。まずはエサ代が馬鹿になりません。野原に連れて行けば何とかなろうものですが、自分の家の家畜小屋に入れておくだけでは手間がかかるのです。しかし、彼らは羊から得られる実りを手放そうとはしませんでした。それではどうするか、羊飼いを雇うのです。羊飼いたちは、他の人の羊を任されて、水と草を求めて旅をしていました。乾燥地帯のイスラエルには緑は多くなく荒れ野が拡がっています。ごつごつした岩肌に枯れた草が生える。それを食べつくしまた移動するのです。荒れ野には強盗や野獣だっていました。彼らはどんなときにも心から休むことができません。

今日の聖書の羊飼いも夜通し羊の番をしていたのです。神経擦り減らせて疲れを覚えることもあったでしょう。家族と離れ離れ、確かに契約として羊飼いをしているわけですが、社会から見放され、交わりから断たれたかのような孤独な心を持っていたことは、想像するに難くありません。恐らく夜薪を見つめながら、自分はこれからどうなっていくのだろうという漠然とした不安を、口に出すこともできずに、いつまでも続く深い闇の中、ため息をついたり、神を呪ったりすることさえあったのではないだろうかと思うのです。私はまさに彼ら自身が闇夜をさまよう羊のような状況だったのではないかと思うのです。

しかし、そんな羊飼いたちに主の天使が近づいて救い主の誕生を告げたことがクリスマスのメッセージです。実は、イエス・キリストの誕生の知らせを直接聞いたのは羊飼いだけでした。

イエス・キリストが誕生された「家畜小屋」の「飼い葉おけ」というのは、まさに「羊飼いたちのために生まれた救い主」であったのです。どこか別の場所で生まれた救い主だったら自分と関係ないわで終わってしまうところ、彼らはまさに自分たちの心に救い主が誕生することを感じたのではないでしょうか。それは神が、まさに社会が顧みようとしない人々、そのいのちさえ見過ごされそうな人々を神は顧みておられることの証拠であったのです。

天使は賛美します。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」私は実はこの聖句がとても好きなのですが、少し違和感を持っている部分があります。前半の「いと高きところには栄光、神にあれ」という部分は何の疑いもなく受け入れられます。まさに神への賛美であるからです。しかし後半の部分は引っかかります。「地には平和、御心に適う人にあれ。」地には平和があってほしいと思いますが、それは御心に適う人にだけあれば良いのでしょうか。すべての人にあれでもいいのではないかと思います。それに御心に適う人々って誰なのでしょうか。私は、この言葉を天使が羊飼いたちに告げたということから考えると、そのような羊飼いたちこそが御心に適う人だったのだろうと思います。そうでなければ、天使たちは羊飼いのところには来ないからです。では羊飼いとは何なのか。それは「自分の為よりも人の為に働く人」のことであり、人のために自ら苦しみを背負う人のことであり、他の人のために自分の全てを用いる人のことであります。自分だけが良ければよいという人に平和があるようにということではない。むしろ他の人のために色々な重荷を負わされて苦しんでいる人の上に平和があるようにということなのではないでしょうか。そして、その平和とは、その苦難や重荷が全てなくなるということではありません。その厳しい現実の中でも心が平和になるということがあるのです。それがイエス・キリストの伴いなのだと思います。一人ではない。私はあなたと共にいるということです。

私はこのような羊飼いの姿を想像した時、今で言えば、昨年12月4日にアフガニスタンで殺害されたペシャワール会の中村哲先生を思い起こします。彼は日本とは遠く離れた、全く関係ないと言ってしまえばそれで終わるアフガニスタンの地に、医療者として赴き、その仕事を行うだけではなく、その地に住むすべての人々のために用水路を整備していました。医療者として国内だけで生きていけば苦労はなかったかもしれません。殺されることもなかったでしょう。しかし、彼が行った働きによって多くの人のいのちが救われ、生活が守られました。死後一年経ってもなお多くの人に慕われ、その業績のすごさが歌われています。中村先生がよく使った言葉の中に「一隅を照らす」という言葉があります。この言葉を最初に効いたとき、私はまさに世の隅に生きていた羊飼いを照らし出した天使を思い起こしました。でもこの言葉は最初仏教天台宗の最澄が使った言葉のようで、世の一つの隅、つまり今あなたが生きているところでしっかりと生きていくこと。それが世を明るくすることであると言うのです。一つの光によって照らし出された命が今度は輝いて世の光になって行く。これが大切なのだと思いました。

ヨハネ福音書12:24に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」という言葉を思い起こします。種の譬えとしては地に落ちて死ぬことで実を結ぶわけですが、人の働きで言うと、その地に落ちて生きることで、多くの実を結ぶのです。中村哲先生のお働きにも様々な困難があったのは事実です。コロナのことで日本のペシャワール会としても渡航ができなくなって大変な一年だったようです。でも、この時期に現地の若者たちがリーダーシップを取り哲先生の思いを汲み取り自分たちで事業を継続していった新しい出来事が起きているというニュースもありました。これはまさに復活とも呼べるようなことだと思います。

神がこのクリスマスに伝えようとしていることは、神は困難の中に人々のことを決して見過ごしにしておられるわけではない。むしろ、そのような方々に対して伴いの神の誕生を告げることであります。そして共に生きる時に、神はそのいのちを輝かせてくださるのだということです。社会は顧みようとしない人々、そのいのちさえ見過ごされそうな人々を神は顧みられているのです。

そのために、神は羊飼いにイエスさまを賜ったのです。それはつまり、あなたがたこそ大切な世の光なのだということを伝えようとしているのではないでしょうか。イエス・キリストはまことの羊飼いであると言いますが、まさに羊のような羊飼いの、まことの羊飼いとなられたのです。私たちにはこの神の伴いがあります。コロナ禍ですが、私たちのただ中にイエス・キリストが生まれるのです。私たちはこのイエス・キリストに共に生かされて参りましょう。

今日は主の晩餐式を守ります。イエス・キリストはパンと杯を分かち合うように私たちに招かれました。これは私たちの信仰告白でもあります。共に受け取って参りましょう。