〇聖書個所 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章13節

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 

〇宣教「神は真実な方です」

今日は2020年最後の礼拝です。本来であればこの日は一年を振り返って感謝を分かち合う時になるはずでした。ところが今年は新型コロナウイルスに振り回される一年になってしまいました。私たちにとって今年は神戸教会がR.C.シェラー宣教師の福音宣教によって開始されてからの70周年を感謝と喜びをもって記念し、これからの教会堂をどうするかも含めて「長期計画」を共に祈り求める一年になるはずでした。しかし、振り返ってみたら3か月に及ぶ礼拝休止。それも阪神淡路大震災の時にもお休みしなかった礼拝を休止することになってしまいました。当然のこと、記念礼拝の準備も長期計画も中断したままになっています。私たちは予想だにしないときに思ってもみないことが起こるとまさに「OH MY GOD」、むしろ「エリ、エリ、レマサバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか…)」と言いたくなります。まさに神不在のように思える一年でした。

でも、この一年は改めて振り返ってみると、70年間続けられてきた礼拝、あるいは信仰生活をいったん立ち止まり、改めて自分の事柄として考えていくという一年になったとも思います。礼拝やひろばがオンラインで配信されるようになり、これまで集まる場所だった教会が今度はそれぞれが主体的に繋がっていく教会となっていきました。オンライン礼拝を開始してから、これまで物理的に教会に来ることができなかった方々、例えば遠方にお住いの方々、病気療養中で外に出られない方々、日曜日にお仕事の方々に繋がっていくことができるようになりました。中には、ご自分ではオンラインの操作ができなくても家族に助けてもらって一緒に礼拝を守ることができるようになったという声もありました。特に先日イブ礼拝をオンライン出席した人の中から、これまではイブは家族の日で礼拝に出席したことはなかったけれど、今年初めて参加することができてとても嬉しかったという声を頂きました。これは集まれなくなり、変化が余儀なくされる中で拡がっていった恵みでもありました。またオンラインではない繋がりの方にどう繋がっていくかを考える機会ともなりました。この点は十分に出来なかったことに反省を持ってもいます。

一方で、これまで集まっていた(集まることができていた)方々の中には、礼拝と自分との関係を考えるきっかけにもなりました。その中で、教会という場所が改めて自分にとって不可欠な場所であると考えた方もおられたと思いますし、反対にオンラインで礼拝を守れるのであれば、別にそこまでしていかなくても良いのではないかと思うようになった方もおられるかもしれません。いずれにせよ、これは両方ともそれぞれの教会観・礼拝観が問われたことから始まっています。

私たちの教会の今年の出来事としては、私たちそれぞれにとって教会とは何なのか。信仰とは何なのかということを半ば強制的に考える時となったと言えると思います。そしてこれからもこのことは問われ続けていくでしょう。これは大切な変化の糧となります。この神戸教会とは何なのか。私たちは何をしていく教会であるのかということをまた新しい一年で考えて参りたいと思います。

そして私たちはこのような時こそ、主なる神様に心を留めたいと思います。そして私たちに与えられた御子イエス・キリストを心に受け止めたいと思うのです。今日の宣教題は「神は真実な方です」とさせていただきました。この言葉はパウロの書いたコリントの信徒への手紙Ⅰ10:13の抜粋ですが、私はこの言葉こそ、私たちにとって今年の締めくくりに相応しい言葉なのではないかと思うのです。

パウロがこの手紙を書き送ったのには理由があります。当時コリントの教会には色々な教えが入り込み「わたしが正しい、あなたは間違っている。」などの意見対立と分派活動が盛んになっていました。分派活動というものはある意味で言えば、自分自身で考えて色々な答えを求めていくことですから肯定的なことだとも言えます。ただ、問題はその議論の始まりも終わりもイエス・キリストの教えからズレていたということでした。

特に今日の聖書個所の文脈でパウロが言っていることは「偶像礼拝」についてです。偶像とは言っても、神に似せた刻んだ像を作ってはならないということではありません。むしろここで注意しているのは、勝手な神観、勝手な救い主像を作ってはいけないということです。固定化した考えは必ず問題をはらみ、それは仲違いを生み出し、人々を惑わしていくものになるからです。パウロは言います。「あなたがたはみなイエス・キリストによってバプテスマを受けてきたのに、その中のある人々は偶像を礼拝したり、神を試みたりして滅びてしまった。あなたがたはそうであってはいけない。」そして、今日の箇所に続くのです。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

この言葉からわかることは、つまりこれ人々が偶像礼拝、自分たちで勝手な神を作ってしまったり、神を試みてしまったりすることは、民衆の中にある苦難や不安から始まっているということなのです。私たちは不安から救われようと自分の神を作ってしまうのです。だからパウロは言うのです。試練や困難の中でも慌てふためいても、自らの救いのために自分にマッチする神を探し求めなくても良いのだ。神は真実な方である。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることはない。必ず逃れる道を用意してくださる。だから、落ち着いて待ちなさい。これが、私たちが立つべき主の約束という土台なのではないかと思います。もちろん神が禍を完全にエスケープさせてくださるということではありません。その困難をも必ず最後まで歩み通せるように助けを与えてくださるということです。

もちろん私たちにとって、苦難に遭うことは望ましいことではありません。特に苦痛を伴うことなんて誰だっていやだと思います。人は想定外の困難に見舞われると、立ち向かうかそれとも逃げるかその二つの選択を選ぶことになると言います。ある意味で言うと、困難に対して立ち向かっていける人というのはかっこいいと思います。例えば、皆さんは「鬼滅の刃」はご存知でしょうか。うちの子どもキメツにはまってずっと主題歌を歌っています。物語のストーリーはざっくりいうと「家族が殺され妹が鬼になるという苦難に見舞われた主人公が、妹を助けるために鬼を退治しに行く」というものです。

そしてその主題歌も、守りたいものができることで苦難に耐え強くなることができるということを歌っています。これはマンガの世界のお話ですが、私は苦難と立ち向かい、成長していく姿にあこがれを持つのです。何故ならばそれは私自身が、自らのこれまでを振り返えるなかで苦難や苦痛を伴うことから逃げて来たんだなと思うことがあったからです。つらいことをせずに楽をして生きていきたいという願いが心の奥底にあるのです。戦う勇気がないのです。困難が起きた時に立ち向かっていける人間ばかりではないのだと思います。もちろん、今の世の中を見ても困難の中、神の助けがなくてもうまく立ち回っている人たちもいます。苦難に負けず、それをばねにしている人々もいるのです。

でも、神の存在は、それができない人々にも勇気と希望を与えるものなのです。象徴的な聖書個所が一つあります。出エジプトのモーセが民をエジプトから脱出させたとき、目の前には紅海、後ろにはファラオの軍隊が迫り来て、彼らは絶体絶命に陥りました。民は口々にいます。「あなたはわたしを騙し殺すためにここに連れてきたのか。今からでも遅くないエジプトに帰ろう。」不安に陥ると私たちは自分たちの救いばかりを求めて立つべきところを見失います。自分勝手な人間です。でもそのような時、モーセはその人たちに対して言うのです。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジ14:13-14)そして結果として目の前の海が開け、人々は奇跡的に生き延びることができたのです。

私は、神の存在というものはここに象徴的に示されていると思います。彼らにとってエジプト人は苦難であり恐怖の対象です。でも神はそのようなところからあなたを救い出す神なのです。私たちもう駄目だと思うことがありますが、主はそのような状況においても私たちの救いのために日々道を作られているのです。

苦難というものは否応がなくやってきます。その苦難にどう向かい合うのでしょうか。私たちは苦難に目を取られ、そこで立ち止まり、神を呪ったり自らを恨んだりすることがあります。私たち一人では立ち向かえないことだってあります。でも聖書はそこに神がいると言うのです。神は私たちをそのようなところから新しい道に導き出す存在であるのです。そしてもちろん、神が共におられるといっても環境がすぐに変わるわけではありません。困難は続きます。でも神によってそこに変化が起こり、平和を見出すことができるようになるのが、神にある希望なのです。

パウロはローマ人への手紙5章3節でこのように言います。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望は私たちを欺くことはない。何故なら聖霊によって神の愛が心に注がれているから」(ローマ5:3-5)なのです。絶望に終わることはないのです。何故ならば、神は常に苦難の中から私たちを希望へと召し出されるのだからです。

「神は真実な方です。」それは、神が私たちに伴って下さり、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださるからです。

どのようにその道を与えてくださるか、残念ながらそれが分かれば苦労はしません。しかし、この忍耐の中に神は存在し、私たちを練達へと導いてくださるのです。私たちには苦労があります。しかしいつも喜んでまいりましょう。絶えず祈って参りましょう。すべてのことに感謝してまいりましょう。何故ならば、神は私たちの心の中に今生まれてきてくださっているからです。

「神は真実な方です。」この言葉を信頼し、新たな年を待ち望んでまいりましょう。