〇聖書個所 エレミヤ書 29章11~14節

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。

 

〇宣教「将来と希望を与える神」

今日の聖書の箇所はとても美しく勇気を与えてくれる言葉です。神は私たちの呼び祈り求めるならば神は必ず私たちに出会ってくださるということが語られています。新年のこのとき、私たちはこの言葉を心に留めたいと思います。新年を迎えると、私たちクリスチャンだけではなく、多くの方が神社や仏閣などに出かけ新しい一年の祝福と守りを祈ります。私は一日、元旦礼拝を終えてからこの三宮の辺りをぐるぐると散歩したのですが、街中を見渡してみると今年は本当に人の外出が少ないと思いました。生田神社や北野天満宮の辺りにはやはり人がたくさん集まっていたようですが、商店街などは軒並みお休みでした。この教会の前の異人館通りも、六甲荘の前からトアロードの方まで車も人もおらず見渡すことができたのはとても不思議な光景だと感じました。

そうしているうちにお正月のしめ飾りをつけている家をたくさん見かけました。しめ飾りは正月に神さまが自分の家に入って来てその家に祝福をもたらしてくれる印であり、その家が災いから守られ神聖な場所であることを示すという意味があるようです。私たちがクリスマスの時期にリースを飾ることと多少の意味の違いはあるかもしれませんが、でも同じような思いが込められているのだと思います。ところで今年はそのしめ飾りが家の玄関に付けるだけならまだしも、工事現場の出入り口に飾ってあったり、車のナンバーのところに飾ってあったりと、色々なところに飾られているのを見かけました。例年そういうものなのかも知れませんが、恐らく昨年は様々な苦難が多かったので、家や仕事、交通手段さえ守られるようにという願いが込められているのだろうと思いました。私たちがこのように新年になると祈り心を持つ理由は、ある意味で言うと自分だけでは立っていくことが難しい社会の中で、神という大いなる存在の守りを得たいと思うからでしょう。特に今年は一旦気持ちをリセットして新しいスタートを切りたいという願いが多くの方にあるのだろうと感じます。

一方で科学的合理的な考え方からすると、そのような「祈り」というものは何の力も意味も持たないものだとも言います。残念ながら神仏に祈っても禍がなくなるわけではありません。昨年4月緊急事態宣言が出ているとき、奈良県の東大寺に仏教各宗派の代表者と一名のカトリックの司祭が集まり7人の宗教者が共に新型コロナウイルスの早期収束、罹患者の早期治癒のために祈りを合わせるというニュースがありました。そのときからもうじき早一年になりますが、感染は収まっていません。ただ共に祈り心を合わせるということで、宗教というものがお互いの勢力拡大のために存在するのではなく、人類の諸課題からの人々の心を守りのために、人々の生活を支えるためにあるということ、そしてそのために協力していくことができることが分かりました。

そう考えると、祈りの大切さというものは、神が私たちの願いを聞いてくれることにあるように見えて、実はそうではなく、神に向かい合うことを通して自分自身が変えられていくということにあると感じるのです。私たちは「祈り」の時を通して神に思いを委ねます。そして黙想の中で神からの応答を受け取ります。そしてその通りに歩んで行くということが祈りつつ生きるということなのです。ですからこの新年に祈る理由とは、「わたしと共におられる神への信頼」を確認してこれからを歩んで行くということにあるのです。神がどんなときも私たちと共におられる。困難の中にも見捨てることがないという信頼は、私たちを導く強さになります。この神がどんな時も共におられるという強さは、私たちの希望になるのです。

先ほど「静けき河の岸辺を」という賛美歌を歌いました。この讃美歌の作詞者は19世紀に生きたホラツィオ・スパフォードという人物です。これは彼の信仰告白の歌でもあります。元々彼は信仰深く人徳に優れ、家族にも恵まれ経済的にも満たされ、誰もがうらやむような人間でした。彼は自分の財産を住んでいたシカゴの町の不動産投資に当て莫大な富を得ていました。ところがその後、彼は一人息子を亡くし、その傷も癒えないままに、その半年後に起きたシカゴの大火災によって財産の大部分を失います。その時彼は立ち上がれないほどの苦しみを受けていたのですが、彼はキリスト教への信仰や友人との交わりによって再び立ち上がることができるようになりました。

ところがある時彼は休暇のために家族との旅行を計画します。ヨーロッパへの船旅でした。しかし出発の間際になり彼に仕事の急用が入りました。彼はやむを得ず、妻と4人の娘だけを船に乗せ、後から合流する予定を組みました。ところが、なんと彼の家族が乗った船が衝突事故に巻き込まれ、大西洋のど真ん中で転覆・沈没してしまいました。奥さんだけは奇跡的に助かったのですが、4人の娘たちのいのちはいっぺんに失われてしまいました。その連絡を受けた彼はすぐに他の舟に乗って大西洋へと乗り出しました。彼の心は深い悲しみに満ちていたと思います。ところがちょうどその事故現場に差し掛かったとき、彼は心の内に神の深い愛情を感じたそうです。そのとき頭の中に浮かんできた神への賛美が、この賛美歌の歌詞となりました。

「静けき河の岸辺を過ぎゆくときも 憂き悩みの荒波を渡り行く折にも 心安し、神によりて安し」

この詩に込められている思いは、悲しみや嘆きではなく、その時に共にいてくれる神への信頼です。もちろん、彼はどんなに悲しみ苦しんだことでしょう。立ち上がれないほどの苦しみであったと思います。旧約聖書にヨブ記という話がありますが、彼も家族や財産を失い、神を呪うというような経験をしています。スパフォードもまさにヨブのように苦難を受けたのです。私たちもこれまでそれぞれ固有の苦難を経験してきたと思いますが、ここまでの絶望的な状況には至ったことはなかなかないのではないかと思います。もし仮に自分がそんな状況になったとき、一体どうなってしまうかもわからないものです。しかしそこまでは行っていないにしても私たち個人にとって苦しくもがくときというのはそれぞれが経験していることです。「何故神がいるならこんなことがあるのか。なぜ神を信じているのにこんなことになるのか。」と思うことがあるのです。
私にとっては3年前に子どもが流産した時がその最も苦しい時であったと思います。皆さんがその時に私たちを慰めてくださったことに心から感謝しています。今妻は改めて出産を控えていますが、皆さまが覚えて祈って支えてくださっていることを本当に嬉しく思います。でも、やはり私には何故あれがおきたのだろうか、と思うことがまだあります。新しい命が誕生したんだからいいじゃないか、めでたしめでたし、ということにはならないわけです。心のざわつきというものは消えません。

でも、私たちにはその答えの出ない嘆きをぶつける相手がいるのです。それが神の存在であり、イエス・キリストの存在であります。でもよくよく考えたらイエス・キリストこそ十字架に即けられ「エリエリレマサバクタニ」と叫んだのは、この苦しいことを他のものを失ったのではなく、彼みずからが体験していたからであったことに気付くのです。私たちは神がいてくれるのならばどうしてと思い、その痛みをイエスさまになすりつけ、しまいには十字架に即けてしまいます。しかしその時、イエス・キリストは確かに私たちの苦しみを負ってくれたこと。確かに私は独りではないということに気付くのです。しかも、神はそのイエス・キリストを復活の命へと導いてくださった。苦しみは苦しみのままで終わることはない。これが神の約束でもあります。このことを恐らくスパフォードも感じていたのではないでしょうか。私がこの歌から感じるのは、いかなる道、いかなる困難においても、神が私たちの救いであるということ、そのことを信じる時に平安の道を歩むことができるということだと思います。

今日の聖書の箇所で、預言者エレミヤが告げている言葉も同様のことだと思います。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」

神は、私たちに平和のご計画をお持ちです。でも、それは私たちの目には災いのようにしか見えない計画であります。災いを平和へと変えていくもの。それは神の存在であります。私たちはその荒波のような現実の中で右往左往するものですが、しかし神は私を呼びなさい。私に祈り求めなさい。私を尋ね求めなさいと言われるのです。その神が共におられるとき、私たちは心に平安を得るのです。そこに将来と希望は始まっていくのです。

エレミヤが語った当時のユダヤ人の状況は、まさにバビロン捕囚という「どん底」状態でした。どん底に落ちた時、勇気を与える言葉というのは、「神が必ずやすぐに助けてくれる」という希望だと思います。ところがエレミヤは彼らにそうは言いません。「家を建ててすみ、園に果樹を植えてその実を食べるように」(29:5)と語り、その地に根を張って生きるように語るのです。これは人々が求めていた即時解放という「将来と希望」ではなかったと思います。でも、私はこの苦難の中に神の存在を信じながら、忍耐していく時に人は新たな道を見出すのだと思います。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉のように、神を信頼し生きる時に将来と希望が与えられるのです。神には私たちが平和に生きるご計画があると言います。私たちにはその道はまだ見えませんが、この神のご計画があることを信頼し、今年も祈りつつ歩みだしてまいりましょう。