〇聖書個所 ルカによる福音書 2章8-12節

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 

〇宣教「希望~私はあなたと共にいる」

皆さんクリスマスおめでとうございます。 今年のクリスマスは「コロナ禍のクリスマス」です。実は今日のクリスマスイブ礼拝を開催するにあたり、本当に今この時期にこの礼拝という集会を開催することが適切なのかどうなのかとても悩みました。クリスマスはイエス・キリストの誕生のお祝いの時であり、私たち自身にとっても大切な喜びの時であり、救いの時でもあります。でも今は、コロナウイルスの感染と必死になって闘っている方々にとっては、全く喜ぶことができない先の見えない苦しみのクリスマスであると思います。クリスマスがインマヌエル、つまり「神が私たちと共におられる」という約束の時であるならば、その現場におられる方々を差し置いて、その現場から離れた私たちがお祝いすることは適切ではないように感じたのです。それに、この礼拝に集まることによってもし感染が広がればそれは医療従事者にとって多大な負担になるのではないかとも感じています

葛藤はあります。しかしやはりこのような時にこそ、そのような方々の為にイエス・キリストが神によって与えられたこと、悩み苦しむ私たちに伴うために救い主が誕生したということを私たちは今日、共に受け取りたいと思うのです。ヨハネによる福音書1章には「光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった。」とあります。つまり、わたしたちには苦難がある。けれどもそのような中にこそ福音が輝くということを聖書は語っているのです。私たちは闇にばかりに目が奪われてしまいがちになりますが、まさにこのような時こそ光に心を留めて参りたいのです。それでは光とは何なのか。それがイエス・キリストの誕生に表された神の愛。神がわたしたちと共にいると言ってくださることなのです。

ところで神は私たちとどうやって共にいてくださるのでしょうか。私たちは今年ほど「共にいる」ということが何なのか。またその難しさについて考えたことはなかったと思います。共に集まるということが困難になりました。人に会うことも外に出ることも自粛という名の空気が形成され、密になっていることが危険だとされるようになりました。帰省、会食、旅行というこれまでの親しみを現わしていた行為が遠ざけられ、精神的に孤独になったり、社会的に孤立になったりすることを経験したのではないかと思います。このクリスマスの時期にはここ数年「クリぼっち」という言葉がよく使われていますが、その意味は家族や恋人、友人と過ごせない孤独な人々の「クリスマス」のことでしたが、私たちは今年、恐らく一人一人家族がいようが友人に囲まれていようが、ソーシャルディスタンスによって同じく「クリぼっち」を経験しているのだと思います。

ぼっちはぼっちでもテレワークのように自分で完結できる人はよかったのかもしれません。しかし問題はそのような環境ではなく、そのような状況の中で社会的に孤独を感じた人々です。つまり、みんなは自分の身を守るためにステイホームしている。でもそれができないエッセンシャルワーカーと呼ばれる人々もいたのです。つまり、医療や介護、人々の生活を支えるために自らの身はステイホーム出来ない状態にされている人々のことです。そのような方々は確かに大切な尊いお働きをされています。でも、自らを感染から守るためにステイホームしたいという思いと、やらなければいけないお仕事との葛藤の中で、周囲の無理解と期待の中で孤独を経験するということはあるのではないでしょうか。

私たちが今日まず受け取りたい神の伴いの約束、喜びの知らせというのは、そういう状況の中で苦しんでいた方々にまず届けられたということです。先ほどのお読みした聖書個所で、主の天使が野宿している羊飼いに近づいて行ったように、神はその場に佇むしかない私たちに一方的に近寄って来られ、私たちを闇の中から照らし出すのです。そして天使はこう言います。「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

羊飼いというのが当時の世界のエッセンシャルワーカーでした。かつて遊牧民族であったイスラエルの人々にとって家畜は生活に欠かせない存在でした。例えば農作業の労働力、その乳はチーズなどの食料となりその肉も食べれます。毛皮は衣服になります。しかし、問題なのはそのお世話です。遊牧民であったときには緑や水を求めて移動していればよかったものの、定住生活が始まるとその食料だけでも大変なお金がかかります。なので、お金持ちの家畜所有者は羊飼いを雇い、野山で羊の世話をさせるのです。野山と言っても日本ほど緑が多いわけでもないイスラエルは岩肌の見える山や荒れ野をさまよい行くのです。羊飼いは、定住者にもなれず、人口の数にも数えられませんでした。彼らに期待されていたのは、労働力であり、社会の歯車がうまく回るためだけに存在していた最も貧しく最も苦しい生活をしていた方々であり、一番人間味ある交わりから遠ざかっていた人々でありました。そのいのちの充実というものは誰も顧みてくれるものではありませんでした。これから先、私はどうなっていってしまうんだろう。これがいつまで続くんだろうというような漠然とした不安を抱えながら、 彼らは使われていたわけです。 この羊飼いたちは、むしろ迷える子羊のような存在でした。

しかし神はそのような最も貧しく最も小さな人々を顧みられる神であるのです。「あなたがたのための救い主」という言葉には人の数にさえ数えられていなかった羊飼いたちに、神は人としての命を認め、彼らを愛しておられる事、そしてその命の充実を願っているということがわかります。羊飼いにとっての救いは羊飼いにとってのリアルである「飼い葉おけに寝かされた乳飲み子」という存在でした。飼い葉おけというのが家畜のご飯を置くところですから、まさに彼らの生活のただ中に神は生まれたということを示しています。

羊飼いたちはその後、その天使の声を信じ、救い主のお生まれを探しに出かけ、そして見つけました。彼らはその後彼らは神を崇め賛美しながら帰っていったとあります。彼らがおかれている現実が何か変わったわけではありませんでした。でも、確かに変わったことがあったのです。それは彼らは独りではないと言うことです。このような状況にいようとも、困難があろうとも、神は私たちと共におられる。それが彼らを変えたのです。

苦しい時がいつ終わるかは私たちにはわかりません。しかし、神は必ずその時を与えてくださる。この絶望がこのままで終わることはないということを神は伝えようとしておられるのです。聖書の中に「苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む。そして希望は私たちを欺くことはありません。」という言葉があります。その渦中にある時には私たちは巻き込まれるだけでどうしたらよいかわからないことがあります。しかしその苦しみを神が伴ってくださることによって、私たちは最後まで歩み通していくことができるのです。

イエス・キリストの弟子となったパウロはこう言います。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」もちろん苦しみなんてないほうが良いに決まっています。しかし、苦難は訪れます。それをどう乗り越えるか。神はそのために2000年前にイエス・キリストをこの世に送り、その存在を示されました。

イエス・キリストは、貧しい者、病気の者、様々な苦しみを抱えているものに寄り添い、その命をかけて十字架の死に至るまでその人々を愛し抜かれました。聖書はイエス・キリストこそ迷える子羊たちの本当の羊飼いであると言います。そしてイエス・キリストはその言葉をもって今を生きる私たちにもなお、慰めと励ましのメッセージを送ってくださるのです。

このように言ってもなかなか実感がわかないと思います。私個人のことを言うのであれば、 私にとって最も苦しい人生のどん底とも言うべき時は、 高校生ぐらいの時だったと思います。私の父親の会社が倒産しまして、私は自分自身の土台が崩れたように思いました。そのことは私にとって教えられてきた神の存在が無力になることでもありました。父もクリスチャンでしたから、神がいるんであれば何で神を信じる者を守らないのかと思いましたし、信じる者は守らない神を信じてどういう意味があるのか今まで神が聖書で約束していたことは何だったのかと思ったのです。

私は終わったと思いました。もうお先真っ暗やもうどうやって生きていけばいいのか分からないと思いました。その時の私は成功こそ神の祝福だと思っていたので、父の失敗によって自分自身さえ無価値になったと思ったのです。当時バブルの崩壊に伴い中小零細企業が倒産をし、無理心中夜逃げのことが結構様々なところで私自身そうなってもおかしくない中にいたと思います。でも当事者である両親は神を信じることをやめず、その苦しい状況の中においても希望を捨てることはありませんでした。神の存在の大切さというものは、絶望のような状態になったときに、本当の強さを持つことがわたしにはわかりました。神が必ず共におられる。ここに本当の希望があるのです。

私たちのこれからの生活はどのようになって行くのか、わかりません。いつ感染が終息していくのかもわかりません。しかし神が私たちと共におられます。感染が私たちのいのちの輝きを汚すことはできません。私たちには希望が与えられているからです。クリスマスは神によるそのことの証明であるのです。このことに喜び、励まされ、共に歩んでまいりたいと思います。クリスマスおめでとうございます。共にしばらくの間、長めの祈りの時を持ってまいりましょう。