〇聖書個所 ヨハネによる福音書 8章12節

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

 

〇宣教「禍に苦しむ人々の希望として生まれたキリスト」

本日は主イエス・キリストの誕生を記念するクリスマス礼拝、降誕日礼拝です。私たちは、礼拝の始まりにあたり、アドベント・クランツのキャンドルに「愛」を祈りつつ、火を灯しました。ヨハネによる福音書3:16には「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」とありますが、まさにイエスさまは私たちへの神の愛のおくりものです。神がこの世を愛しておられるということ、つまりそれは私たち一人一人のそれぞれ固有のいのちが尊いということです。そしてそのいのちを守るためにイエスさまは誕生したのです。そして私たちはイエスさまがわたしの救い主キリストになられたと告白します。これがクリスマスの本当の出来事です。私たちが毎年このクリスマスをお祝いするのは、私たちの心にイエス・キリストの誕生を通して神の愛を実現させるためであるのです。

でも、その時にやはり考えてみたいことがあるのです。それは、イエスさまはどのようにして私たちの救い主になったのでしょうかということです。今日、私が皆さまにお話をしたいその最もシンプルな答えはイエスさまが「インマヌエル、神我らと共におられる」と呼ばれるという約束の通り、イエスさまはどんな時も私たちに寄り添っていてくださるということであります。片時もはなれることはない、どんなに私たちがどん底のような状況にいようとも、神は私たちを見放すことがない。これが私たちの救いであるのです。なぜ、こんなシンプルなことが救いになるのか。それはこの「救い」という言葉が示す通り、私たちには救われたいという状況があるからです。救われる必要がなければ、救いなんて必要ありません。でも、私たちはこの世を生きていく時にどうしても悩みや苦しみが生じてくるのです。

私たちにはそれぞれ色々な苦しみがあります。人間関係の苦しみ、仕事の苦しみ、経済的な苦しみ、精神的社会的苦しみ。自分自身としての霊的な苦しみ。この苦しみからどのように逃れるかということが古今東西を問わず宗教には期待されています。例えば仏教での目標とされる悟りとは端的に言うと苦しみからの解放であります。苦しみから解放されるために修行を行うのです。しかしその悟りへの到達というものはなかなか大変で、「諸行無常」の境地に入ることは困難を極めます。私たちも今年特に新型コロナウイルスの流行が起きてから早一年となりますが、またまだ苦しみの中にあるのは、この「諸行無常」というある意味では自然の法則に抗っているからなのかもしれません。

いつ頃から新型コロナウイルスの感染拡大が「コロナ禍」と言われるようになりました。この禍ですが「禍(わざわい)」とも読みます。けれど、一般的に使われる「災い」とは少し違う印象があるようです。国語辞典によると、「災いが主に運命による災害、例えば天災とかを指すのに対して、コロナの禍は人間の営みによって起こされるものまで含めるもの」という範囲の違いがあるのです。特に「禍」はよく中国では権力闘争やその発端を呼ぶのに使われたようです。

つまり、「わざわい」という言葉に共通することは、基本的には自分にとって否応がなしに苦しみに巻き込まれてしまうということだと思いますが、中でもこの「禍」は「人災的である」と言えるのです。

確かにコロナの流行は主に対人関係の「接触・あるいは飛沫感染」から起きるということが次第にわかってきたことから考えると、まさにこれは「人を介して起こる禍」になるわけです。でも一方で、このコロナ禍という言葉は、ウイルス感染だけを指している言葉ではないように思います。コロナ流行に伴い、様々な人間的社会的な痛みが起きました。感染不安による対人不信、買占め騒動、転売騒動、または経済的な困窮、自粛要請によるストレス、医療従事者への差別など、まさにこれらが「禍」であるように思います。

これらのコロナによる「禍」から逃れるために、行政が動いています。医療体制作りや、感染症対策、経済対策など色々な対処方法が示されていますが、どうもニュースを見る限り、あっちを立てればこっちが立たず状態で、まさに人の手によってさらなる混乱が生まれている状況に陥ってしまっているとしか思えません。そしてそのしわ寄せはまさに現場に生きる人々。それも常に弱い立場の人々に向かっていっているのです。子どもたちが公園にいるだけで、子どもたちを解散させろというような自粛警察が現れたのもまた人による「禍」です。

感染が拡大している今もまた、闇から抜け出せる要素が一向に見えきません。でもそんな中、自分の心を落ち着かせるために様々な情報を調べて「自分は大丈夫だ」と信じて、心を落ち着かせようとしている人々もいます。或いは反対に望みがないとみて、自ら命を絶つ人も出てきました。誰も去年の今頃はこんなことになるなんて誰も思ってもみなかったことです。しかし、コロナは私たちの住む人間社会の様々な「禍」をあぶり出しました。私はこのように思う中で、コロナ禍とは、感染そのものよりも、様々な不安の中、自分を助けてくれる存在、自分を救ってくれる存在、自分に伴ってくれる存在がないことが、本質的な「禍」であるのではないかと思ったのです。コヘレトの言葉4:9-10「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。」とありますが、まさにその通りなのではないかと思います。

しかしそうであるとしたら、今私たちが迎えているこのクリスマスのメッセージというものは、非常にインパクトがあります。何故ならば、イエス・キリストが生まれたのは、苦しみの中に生きる私たちに伴い生きるために生まれたのであり、それがあなたを決して一人にしないというインマヌエルの約束であることに他ならないからです。イエス・キリストはあなたのいのちを孤独から救うために生まれたのだ。私と共に生きよう。それが私たち一人一人に向けられた神の愛であり、私たちの救いの出来事になるのです。私たちは、まさに不安の中、迷子になってしまう羊のような存在です。これからどうしたらよいのかもわかりません。周りの人たちから見れば自業自得だ、見捨てられても仕方ないような状況があるのかもしれません。それも「禍」でありますが、しかし神は、そのたった一匹の苦しむ迷える羊を探し出すために、全力を尽くされる方であるということが聖書には書かれているのです。

先ほど言いましたが、もし仮に仏教の教えの「諸行無常」が苦しみを受け入れて生きることだとしたら、イエス・キリストの教えはそれと異なり、むしろ私たちがその苦しみの中を最後まで歩み通して行くことができるためにキリストが来られたのだ。そして私たちはその伴いによって、その苦しみを乗り越えていくことができると言うのです。

イエス・キリストが為されたことはまさにそのような関わりでした。例えば、飼い主のいない羊のような不安定でどこに行けばよいのかもわからないようなありさまの人々に深く心を向けられました。感染症にかかり、差別を受け交わりから断たれたような人を癒しに行かれました。友なき者、貧しき者、心や体に病を抱えるもの、あらゆるハンデを持っている人々に「わたしの元に来なさい。休ませてあげよう」と言われるのです。この言葉は、疲れた者に慰めを与え、絶望している者に勇気を与え、死にそうなものに生きる力を与えるものであるのです。

実は「禍」という漢字には、神の存在を示す「示す編」が入っています。つくりの方は、ある方から「骨」という意味があるということを教わりました。まさに私たちは特に人間関係の「禍」によって傷つく存在です。地震や津波などの天災もまた確かに大変な痛みではあります。でも私たちはそれを乗り越えて来ることができたのです。しかし乗り越えることが難しいもの、それが「人間関係の禍」です。苦しみ悩み、私たちのいのちはまさに生気を失った枯れた骨のようになります。しかし神に祈り求める時、私たちには復活が起きるのです。古代ユダヤ人たちがバビロンに捕囚されて行ったとき、彼らはこれを神の裁きだと思いましたが、これはまさに人災でおきたことでありました。何故ならば、神はその捕囚されていったその土地からの回復を約束し、枯れた骨が復活するという希望を示しておられるからです。神において絶望はないのです。その希望は今、私たちに示されているのです。

先ほど言いました、イエス・キリストの関わり方というものは、確かにまさに神の子のような関わり方であると思います。その関わりによってわたしたちには慰めと安らぎが与えられるからです。ところがイエスはそんな自分のことを神の子とは言わず、人の子と言うのです。それは私が今思っていることは、つまりイエス・キリストが神の子であるから、特別の存在だからできるということではない、むしろ人として生きるということが痛みを抱えている人と共に生きていくということなのだということを言っているように思うのです。私は、ここに人の在り方を見るのです。

私たちはコロナによって人と交わることに距離を取るようになりました。できる限り接触を減らすことが推奨されています。その代わりに、この間オンラインなどの発達がありました。リモートワーク、ズーム飲み、オンライン帰省、色々な新しい試みが出てきました。これが新しい生活様式と呼ばれるものになるのかもしれません。しかしこれは色々な新しい繋がり方を作るということであり、結局のところ人は独りでは生きていけないということを証明しています。オンラインは結局のところ繋がる相手がいなければ役に立たないのです。つまり、私たちはコロナ禍によって人災の苦しみに出会いましたが、実のところ、人との出会いによってやはり救われていく存在であるのです。イエス・キリストはそのことを今私たちに教えてくれています。そして、それを行なうのはイエス・キリストだけではない。あなたもまた出会いによって人を救っていく存在になると招いておられるのです。

今日の聖書個所をもう一度読みます。イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」この言葉は真実です。私たちはいのちの光を与えられているのです。私たちを不安から平安へ導き、私たちのいのちに光を与える方は、私たちにそのいのちの光の輝きをもって生きていきなさいと招かれているのです。それがこのクリスマスに神が私たちに願っておられることであるのです。

イエス・キリストは2000年前に生きた歴史上の人物でありますが、今も彼が語った言葉は、多くの人の心に勇気を与えています。そして、その神の言葉は私たちを通して今も生きているのです。

私たちは独りではない。神は共におられる。私たちにとってこの一年は本当に大変な時でしたが、しかし神はあなたを一人ぼっちにはされていません。私と共に生きていこう。神はそのように言ってくださいます。

皆さまの日々の歩みの上に主の豊かな恵みと守りがありますようにお祈りいたします。クリスマスおめでとうございます。