〇聖書個所 ルカによる福音書 12章16-24、31-34節

それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

 

〇宣教「主によって豊かになるために」

本日は主イエス・キリストの誕生を待ち望む待降節(アドベント)の第3週目ということで、礼拝の始まりにアドベント・クランツのキャンドルに「喜び」を祈りつつ、火を灯しました。この意味は「イエス・キリストの誕生が私たちの喜びである」ということです。でも実はいつも思うことですけれども、私たちはこの喜びのキャンドルの灯をどのように灯しているのでしょうか。この灯火は、本質的にはイエス・キリストの誕生の灯が私たちの心に灯る喜びであるのですが、いったい私たちはいつまでこの喜びを持続することができるのでしょうか。常に心に留めて喜んでいられるのでしょうか。それともクリスマスには喜ぶけれど、次第に世の闇に染まり少しずつ喜びが消えていってしまうものなのでしょうか。みなさんの心に与えられた喜びの灯はこれからどうなっていくのでしょうか。

私たちが今置かれているこの世の中というのは、 まさにこのコロナで始まった社会変化の一年であります。これまでの生活がガラっと変わりました。コロナというものがいったいどういうものなのかまだまだ分かっていないことも多いのに、それが感染拡大しているという情報だけで私たちの生活は確かに変化したのです。多分うちの下の息子にとっては、マスクをつけることや、外に出たら手洗い消毒をすることが普通で当たり前の世界になっているのだと思います。でも安全対策というものは、基本的に社会は安全ではないという不信感から成り立つものであります。いつ感染するのかわからない不安。生活習慣の変化。対人関係の距離間の変化。交わりの減少あるいは孤立、孤独。様々な闇が私の心を包み、喜びよりも悲しみや切なさを覚えます。

けれども思うのは、 やはりイエス・キリストはそのような闇の中に与えられた希望の光であったということです。 イエス・キリストは世を照らし出すためにこの世に来られました。

これは言い換えるならば、私たちの闇の中に光が差し、悲しみや不安の中から喜びが湧きあがってくる告げ知らせでありました。このような知らせがこのクリスマスの福音であったわけです。けっしてどんちゃん騒ぎのお祭り的な喜びではありません。ひっそりとしたところにしっかりと立つ喜びの出来事なのです。イエス・キリストはそのような私たちの喜びとなるために来られたのです。しかもそれはまさに私たちが「主によって豊かになるという喜びのため」であったのです。

今日はルカの福音書から例え話を合わせて読みます。後半の「思い悩むな」という教えはマタイの山上の説教にも出てきますが、「愚かな金持ちの譬え」はルカにしか出てきません。この二つを合わせて読むと「神の前で豊かになるとはどういうことか。」というテーマが浮かび上がってきます。

神の前で豊かになると言うのはどういうことでしょうか。「豊かになる」という言葉を皆さんはどう思われるでしょうか。私はが「豊かになる」という言葉にどのようなイメージを持っているかというと、今日の最初のたとえ話に登場する「愚かな金持ち」を思い浮かべます。

彼は「愚か」と言われていますが、何も税金をちょろまかしたり、悪いことをしているわけではありません。むしろ賢いお金持ちだと思います。倉に入りきらない作物を入れておくために新たな倉を作ると言うのは作物を腐らせないために当たり前のことです。むしろ畑を大豊作にしたのは神の恵みでありますから、そこから与えられた恵みを大切に管理しているだけだともいえます。その結果、お金を持って自分の心を楽しませて生きることができるようになった。これは私たちが夢に描くことであると思います。むしろそのように丁寧にコツコツ頑張ってきたからこそ自分の稼ぎで自分の身を助けることができるようになったのです。そのような彼は、まさに成功者であるともいえます。

けれどもイエスキリストはその人の豊かさというものは豊かではないと言います。むしろそのような人の歩みというものは、 死に直結しているというわけです。どうしてでしょうか。私は、自分で生きることができるようになった人は、神を必要としなくなるからではないかと思います。ここで問われているのはお金持ちであることがいけないことというのではなく、むしろ私たちは神をどのように信じ生きるのかということです。

愚かな金持ちと何も持たないような小さな群れ。いわば神に頼らないでも自分の身で何でもできるようになった人と神の恵みによってしか生きることができないような存在の対比です。金持ちは多分頑張って生きてきた人だと思います。頑張らないとこんなにも豊か経済的な豊かさというものは受けることができないのが世の常です。それに比べて小さな群れというのは、貧しく一人では何もできない人々のことです。「空の鳥を見よ」とマタイでは呼ばれる箇所をルカでは、「カラスを考えよ」と言います。カラスは時々聖書で登場しますが、やっぱりあまり良いイメージはありません。朝早く三ノ宮を歩いているとごみを漁っている姿などを見ると正直汚いと思いますし、確かに「ゴミ」という自分が生み出したものではない「恵み」によって生かされている存在であることはわかるけれども、本当に神の作品なのかなと思うこともあります。

恐らくそんな私の心には、やはり努力した金持ちを尊び、そうではない人々を差別するような視線があるのでしょう。しかし、神はそれとは反対のことを言うのです。

そして神の愛を証明して見せます。それがクリスマスにイエス・キリストが現れたことであったのです。イエス・キリストはベツレヘムの家畜小屋の飼い葉おけにお生まれになった神の子です。先ほど子どもメッセージでもお話ししましたが、待降節という言葉が示すように私たちは天使が舞い降りて神の子が降りてくることを期待します。その降り立つところもきれいできらびやかな神に相応しいところを想像すると思います。

しかし、その神の子は、貧しい家畜小屋の飼い葉桶の中に誕生しました。ベツレヘムは「パンの家」という意味があるほど穀物の豊かな地であったと思います。その町の家畜小屋とは、つまりそこに労働に使役される家畜がいたわけです。人々のために使われる家畜の小屋、人が暮らす場所でもない最も低いところに降りて来られた神の子。それは私たち最も低いところに生きている存在を顧み、そのいのちを照らす希望の光となりました。 最も低いところに来ている存在というのは、神の国を求めることさえできません。おこがましいと思います。 むしろ神に裁かれてこうなったのだとも思うでしょう。でも、 イエス・キリストはこういうのです。「小さな群れを恐れるな。 あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」神は、そのような私たちを愛するために神の子を最も低い形でお送りくださったのです。それは私たちが主によって豊かになるためであったのです。

これでまだお話しはお終わりません。主によって豊かになった私たちの本当の喜びとは何なのでしょうか。それはイエス・キリストに従っていく生き方であると言えます。神の国を求めなさい。これはただ「ください」と言えばよいということではありません。神の国を求めて生きていくことである。あなた自身がその神の国の実現を求めてイエス・キリストの姿に従っていく時に、本当の喜びを受けるのです。だから、イエス・キリストは自分自身で完結していた金持ちを愚かなものだと言ったのです。あなたは自分で自分の身だけを守って生きていくのではない。自己完結してはいけない。むしろまさに神の与えられた恵みをどのように豊かさとして受け止めていくか。あなたは自分の持ち物を売り払ってでも他の人と共に生きていきなさい。これが神の前に豊かになることであると言うのです。何故ならば、それが神の御心を知り、共に生きるということなのだからです。

私は、アドベント・キャンドルに喜びを思い、火を灯しました。この喜びの灯を継続してこの身に宿らせていくためにはまさに、イエス・キリストに従っていくということが大切なことを改めて感じました。イエス・キリストに従っていくとは言うものの、実は既に従って生きているはずです。しかし神の喜びがまだ心にないのだとしたら、やはり私たちは改めて神がどのような思いをもって私たちにイエス・キリストをお送りくださったのか考えることが大切です。

以前、私はメッセージの中で「コロナによって現場を見失った」ということを言いました。現場とは自分がするべきことであり、簡単に言えば集まることが難しくなった教会で、自分自身の働きが見えなくなったのです。でも、実はこのコロナで問われているのは教会とは今誰と共に生きていくところであるのかということでありました。誰と共に生きて生きたいか。社会に訴えることはできますが、自分たちで歩みだすということが今私たちがするべきことなのではないかと思うのです。

神は実にその一人子を賜ったほどに世を愛されました。それは御子を信じる者、御子の愛を信じて生きていきたいと願うもの、あるいは御子が愛するすべての者が誰一人滅びることなく永遠のいのちを得るためであるのです。

私たちには我が子をカラスに差し出すことなんてできやしません。しかし神はそのカラスさえ愛し、恵みを賜っていることには目を留め、共に喜ぶことはできます。神は私たちに神の国を求めることを期待しておられるのです。そのような私たちのただ中に神の国はあると言われたことはまさに真実であるのです。私たちに与えられている神の恵みの大きさに改めて感謝し、それぞれで従って参りましょう。