〇聖書個所 マタイによる福音書 9章1-8節

イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

 

〇宣教「この人は何故、イエスが神を冒涜したと思ったのか」

今日の聖書個所は、先ほど子どもメッセージでお話しした個所と同じ個所ですが、子どもメッセージとは少し切り口を変えてお話をしたいと思います。宣教で取り上げたいのは、何故ここで登場する律法学者はイエス・キリストの発言を聞いて神を冒涜したと思ったのかということを通して、私たち自身も同じことをしていないかということを振り返ることです。

順を追って聖書を見ていきましょう。イエスさまはガダラ人の地方から船に乗って自分の町に帰ってきました。自分の町というとナザレかなと思うのですが、この時期イエスさまが活動の拠点としていたカファルナウムの町です。ちなみにイエスさまはナザレのことを「故郷」と呼んでいます。マタイ13章54節にはイエスさまが久々に故郷に帰ったときの話がありますが、故郷の親戚、知人、家族から受け入れられないという厳しい現実に出くわすことになるのです。

ところが、このカファルナウムの町ではイエスさまは多くの人に受け入れられていました。イエスさまがおられたところには人々が集まり、中風患者が連れられてきました。マルコによる福音書では、先ほど子どもメッセージでお話ししたように、イエスさまがいた家は玄関先まで満員状態になっていたと書かれています。そしてそこに中風患者を連れた4人の男たちがやって来たのです。彼らは家の中に入れなかったので屋根に上がり、天井をぶち抜いて中風患者をイエスさまの元に吊り降ろすという荒業を行います。そして彼らの信仰を見てイエスさまは中風患者を癒したという物語です。多分私たちの印象に残っているのはこの物語だと思います。先ほども言いましたが、確かにその友人たちの患者を癒したいという思いとイエスさまだったら何とかしてくれるのではないかという期待に、イエスさまが信仰を認められたことが私たちの心を打ちます。でも実は今日のマタイ福音書ではその友人たちの努力、麗しい友情というものは全カット状態で、ほぼ触れられていません。でも、その事実はマタイがこの話から伝えたいと思っているポイントは別のところにあることを示します。そして私は、それがこの律法学者との対話であると思うのです。

この律法学者のことを考えてみたいと思います。彼は律法の学者ですから、神についての専門家です。聖書では神をどのように理解しているのかとか、神を信じて生きるとはどういうことかとかそういうことをずっと勉強していましたし、恐らくは机上の学問としてだけではなく、実際に自分自身で教えを守って生きていた人だったと思います。後にイエスさまと律法学者やファリサイ派の人々との対立は深まっていきますが、まだこの時期はイエスさまと彼らの対立はありません。

敢えて言えば今日の出来事によって少しずつ両者の違いが明らかになってくるのですが、最初の時点ではまだそれは見えません。恐らくこの律法学者がこの輪の中にいたというのは、この時点では彼がイエス・キリストに真理を求めようとしてやって来たのではないかとも思えるわけです。イエスという方が多くの病人を癒し悪霊を追い出しているらしい。そんな人には神の霊が宿っているに違いない。どんなに素晴らしい信仰者なのだろうと彼は思ったのでしょう。

しかし、そんな彼はイエス・キリストに出会って、違和感を覚えたことが今日のポイントです。それがイエスさまの「あなたの罪は赦される」という言葉であったのです。彼はこの言葉だけは聞き捨てにすることができませんでした。だから彼は「この男は、神を冒涜している」と思ったのです。

なぜ彼は、この言葉を神への冒涜だととらえたのでしょうか。それは、やはり律法学者である彼にとって「罪の赦しは神の専権事項である」と思ったからに他なりません。その根拠は聖書にはたくさんあります。例えば民数記34章にはモーセの前に現れた神がこう自分のことを宣言する箇所があります。

「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」

また、十戒には「神の名をみだりに唱えてはならない」とあります。これは「聖」である神の名を自分のために安易に用いることへの忠告であると言えるでしょう。その点で言えば、今日登場する律法学者が、イエス・キリストの罪の赦しの宣言を聞いて、それがたとえ「神が赦す」という期待であったとしても、それが神の名を汚すことだと理解したのはおかしいことではありませんでした。

彼は、神のみが赦しを宣言することができることを学び、それを当然としてきました。また彼は罪の赦しを受けるならばそのための手続きがあるということも知っていました。レビ記には色々な罪を犯したときの献げ物の仕方や、病から癒されたときには祭司によって確認され赦しを宣言される必要があることが書かれています。つまり彼は、イエスさまが神と祭司との権威を侵害したと思ったのです。これが、イエスさまが神を冒涜したと思った彼の根拠です。

さらに言うならば、もし仮に当時そう思われていたように、病気が罪の結果であり神の裁きなのだとしたら、律法学者である彼の理解では、良いことも悪いことも神が行うことに間違いはないことのわけです。だから、神でもない人が勝手に罪の赦しを宣言して良いわけがありません。彼にとってイエスさまは力ある預言者かもしれないけれど、人が決して踏み越えてはいけない領域に入ってしまった。これはダメだとでも思ったのではないでしょうか。彼の中には神こそが神聖な方であり、正義である。そして神の裁きは何よりも正しい。そして自分が信じていることが唯一正しいことであると思っていたのではないかと思います。
私たちも自分の中の考え方、或いは正義というものに囚われ、目の前で起きている現実を認めることができないことがあるのではないでしょうか。ここが私たちの限界性でもあります。

でも、逆にイエス・キリストはその律法学者たちが考えていることを見抜いて、その考えが「悪いこと」であると言います。「悪い」と言う言葉は、「腐ったとか不道徳なとか役に立たない」という風にも訳せます。つまり、その中風の人にとって役に立たない律法による原則論を思い巡らしていることをイエスさまは手厳しく批判されているように思うのです。

そしてさらに言えば、私にはイエスさまはむしろ律法学者たちの方が神を冒涜しているのだと言っているように聞こえるのです。何故かというと、それは彼らが原則論に立ちすぎて神を誤解しているからです。神は罪びとであるなら滅びても良いと思っているのか。そうではない。預言者ヨナは神に逆らう町ニネヴェが滅び去ることを期待しましたが、神はニネヴェの人々さえも救いたいと願っていたのと同じように、この小さな罪びとの一人さえ救われることが神の御心であるのです。そのためにイエス・キリストは来られたわけです。

それに比べて、律法学者たちは自分たちの秤に合わせて罪びとを測っています。自分たちの正義の基準に人を合わせているのです。しかし、神のスケールは彼らの秤とは異なるのです。神は、その自分では何もできない小さな者の一人を救われる方であるのだというのです。私たちもあるのではないでしょうか。神を自分の頭の秤で置き換えてしまい、神の無条件で大きな愛を小さくしてしまうことがあります。この人は裁かれて当然だ。この人は救われてはならないと思うのです。しかし実はそれこそがまさしく神を冒涜することに他ならないのではないかと思うのです。何故ならば、神は私たちを超えて大きく働かれる方であるからです。イエスさまの厳しい言葉は私たちを発想の転換に導きます。

イエス様は言われます。「「あなたの罪は赦される」というのと「起きて歩け」というのと、どちらが易しいか。」どっちの方が易しいのかということについては色々な議論がありますが、この文脈では、起きて歩くことの方が難しいという流れになっています。何故ならば、起きて歩くことができない彼が癒された上に足腰が強くなり歩くということが、罪の赦しがすでに起きた後の結果であるからです。そして私たちはその癒しがどのように起きたのかというよりも、イエス・キリストの伴いによって起きたということに目を留めたいのです。そしてそのとき、彼は自由にされ自らの足で立っていけるようになったということが大切だと思うのです。

しかし、ここで一つの問題があります。イエスさまは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言いました。「人の子とは何か」ということも様々な議論があります。普通は「人の子」と自称する神の子イエス・キリストだからこそ、罪の赦しが起きたのだ、彼が歩きだせるようになったのだと考えられることが多いのですが、私は8節の最後の言葉「人間にこれほどの権威を与えた神を賛美した」という言葉に着目したいと思います。つまり、神はイエスさまお一人だけではなく実は人間に罪を赦す権威が与えられているのではないかということです。

先ほども申し上げましたが中風という病気は、体がマヒする病気です。自分自身では何もできなくなります。しかし、そんな彼のために周りの人たちが動いてくれる。それは本人からしたら周りの人の迷惑になることだと思いそうです。でも周りの人たちにしてみれば、やはりその人が大切であるからお世話をするわけです。ここには慈しみがあります。その人が罪びとだろうが何だろうが関係ないわけです。私は、イエスさまが元気を出しなさいと言った言葉がとても印象に残るのです。このように聞こえます。

「あなたが自分で何もできない時にもあなたには周りで支えてくれている人たちが大勢いる。何もできないからと言って落ち込む必要はないよ。元気を出しなさい。あなたの罪は、既に多くの人たちによって赦されているじゃないか。」神の愛とは正しい者だけのものではありません。人間関係のただ中に神の慈しみと赦しがすでにあるということを今日聖書から感じるのです。

さて、律法学者の話に戻りたいと思います。彼は自分が信じる正しい道しか認めることができませんでした。私たちも同様だと思います。神はこのような方だ。神を信じるとはこういうことだ。信仰とはこのように守るべきものだ。私たちの信仰とはまさにそのような神理解によって生活のなかで実践されるものです。でも、固定化してはいけないのです。固定化は神の名による断絶を生み差別を作ります。それこそ私たちが律法学者になってしまうのです。もとより神は私たちの頭の中に留まられるスケールのお方ではないにも関わらず、私たちは神を自分のものにしてしまうのです。あるいは反対に、自分の頭からはみ出すことに関しては排除の論理が働くのです。冒頭にお話ししましたが、イエスさまが故郷で受け入れられなかったということは、「あのヨセフの子が預言者になるなんて・・・」ということだったのでしょう。しかし、今日のイエスさまの姿から受け止めたい福音は、律法学者や私たちの頭の枠組みを壊すことが福音であること。神は私たちを超えて大きく自由に働かれる方であること。私たちが心の屋根をはがす必要があるということを伝えているのではないかと思うのです。

今、世の中ではアメリカ大統領選挙が混迷を極めています。共和党と民主党で拮抗している状況がありますが、保守派とリベラル派という色分けをすることができます。両方とも自分たちの正義を主張しています。保守とは自分たちの在り方を守る人たちであり、リベラルはその枠組みを変えていこうとする人だと言えるでしょう。ちなみにアメリカの南部バプテスト連盟を含むキリスト教福音派と呼ばれる人たちが共和党のトランプ大統領を支援していると言われています。

ところが実は共和党の初代大統領はエイブラハム・リンカーンです。彼は有名な奴隷解放を訴えて、南北戦争に勝ちました。彼はリベラル派でした。戦争後南部で奴隷解放、人権擁護を進めていきました。しかし、いまや共和党が保守になり替わってしまっています。民主党と共和党の立場が逆転していったのです。これには色々な経緯があるわけですが、今日の宣教との関連で言いたいことは、人の立場というものは固定化されるものではないし固定化してはいけないということです。そして私たちは時に間違いを犯す存在であるということにしっかりと目を留め、自分が絶対ではないということ、相手の意見をも尊重していくことが大切なのだということです。そして私たちは私たちを大きく超えて働く神の力に委ねることが必要であるのです。そんな私たちにとって、光とはイエス・キリストのみに他ならないのです。他のものを光だと言ってしまった瞬間、それは瞬く間に闇になってしまうのです。

アメリカの現状はどちらが当選したとしても分裂はすぐには解消しないことになるだろうと言われています。しかし、そんな時今日の最後の節に目を留めたいのです。律法学者は最後には群衆と一体となって神を賛美したのです。彼だけどこかに追いやられていったわけではありません。目の前で起きたことを彼は認めることができたのです。現実を認めること。神による出会いを感謝し、共に神を賛美することが私たちにとって大切なことなのだと思います。神は今も働いておられます。共に祈って参りましょう。