〇聖書個所 ヨハネによる福音書 12章44-47節

イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。

 

〇宣教「光として来られたキリスト」

今日からいよいよアドベントが始まります。街中も少しずつクリスマスらしく彩られるようになってきました。北野では例年のように異人館でサンタが飾られていますが、今年の服は赤ではなく青です。これはコロナと向かい合っている医療従事者の方々に感謝し励ますために、青のガウン姿となったということです。本来であれば心のうきうきする季節の始まりですが、やはりいつもと少し違う印象があります。私自身が今年のクリスマスに抱えている最も大きな問題は、私の心がクリスマスに向かって行けていないということです。

私はクリスマスが大好きです。私の車では春の時も真夏の時にも、変わらずにクリスマスの音楽が流れるようになっています。メロディーを聞くだけで心が嬉しくなりますし、歌詞は物語のようになっていますし、つい讃美を歌いたくなるのです。一番好きな讃美歌は「天にはさかえ」なのですが、今では息子も一緒に歌えるようになっています。本来であれば、このクリスマスのシーズンがやって来た。みんなで賛美をたくさん歌いたいと思います。でも、今日からこの教会では共に賛美を歌うことを制限いたしました。クリスマスの歌を短くしてしか一緒に歌えないということは、私の心に思った以上の大きなダメージとなりました。でも、それ以上に今はこのクリスマスを何故か喜べない気持ちがあるのです。その原因は、やはりこのコロナウイルスの感染拡大とそれに伴う経済的な問題が依然として大きくあり、その中からの「救い」というものがわたしには隠されているように思えるからです。

クリスマスに神を賛美するとは、自分の救い主となられたイエス・キリストをほめたたえることに他なりません。イエス・キリストという言葉自体が、救い主イエスという信仰告白の言葉です。その方が生まれたクリスマスだから私たちは嬉しくなって讃美を歌うのです。「賛美」とは基本的に神さまに対して、あるいはイエスさまに対して自分の応答として献げられる物です。歌ばかりではなく、主体的な表現すべてが神をほめたたえます。このいのちを用いることが神への賛美であるとも言えるでしょう。

でも、今私たちを取り巻く状況は、このいのちを輝かせることが難しい現実です。多くの方が様々な不安に押しつぶされそうになっています。新型コロナにはいつ誰がかかってもおかしくないからです。現時点でもそうなのにこれからが本番だとも言われています。普通に生きていくことが難しい。自粛生活に入ると、経済的にも先が見通せなくなる。孤独だ。色々な問題が全く自分のせいではないにもかかわらずに起きる中で、先行きを案じた人たちが自らの死を選ぶということが急増しています。もちろん、その直接的な理由は人それぞれでしょうが、一言で言えば今はまさに救いがない世の中のようになってきていると言えるのでしょう。政府でも感染症対策も、経済対策も空回りしているように思えてならないのです。手の打ちようもない。もはや私たちにはどうすることもできません。

こんな時に、クリスマスを待ち望む時がやってきました。私たちはどうお祝いするのでしょうか。救い主がやって来るとは言うけれど、私たちは本当に救われているのでしょうか。救われるためには、それが自分の身にリアルな体験にならなければなりません。あそこに救い主がいるよと言われても、自分の救い主でなければ意味はないのです。羊飼いたちは、「あなたがたのために、救い主がお生まれになった。あなたがたは布に包まって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう。」と言われましたが、これはまさに羊飼いの現実に救い主は誕生したということなのです。それと同じように、私はこのアドベントの時、今神の救いというものがまさにコロナを始めとする禍に苦しむ私たちに希望として与えられているといことを、改めて受けていきたいのです。

クリスマスまでの期間、マタイ福音書の通読ではなく他の聖書個所からお話をします。私は、まずコロナ禍に訴えかけるようなメッセージ性を持った聖書個所がないかと探してみました。でも、集まったり交わったりすることが前提となっているのが聖書の世界観であり、礼拝です。そして感染症にかかった方々は、まさにその集団から切り離されていたのです。イエス・キリストは多くの人々のところに出かけていきましたが、基本的には出会うということから始まっているわけです。出会わない中で語られるメッセージなんて、当時はなかったのです。

強いて言えばパウロが遠方に住む信仰者に宛てて書いた「手紙」というものがそれにあたるかもしれません。彼は、イエスこそキリストであるということを再三に渡って手紙に書き残しています。巻頭言に書きましたが、聖書には「キリスト」という言葉が全部で513回登場しますが、その内福音書では10回だけ、使徒言行録では17回使われているだけです。他の約400回はパウロの手紙に登場するのです。つまりこれはパウロの「信仰告白の言葉」であったのです。イエスこそ救い主だということを彼は熱量を込めて書き伝えたのです。さらに手書きの手紙の暖かさというものもまた、書かれた文章以上に受け取り手の心に残り、その手紙が保管され今の形として残ったのかもしれません。

一方で集まることができない状況というものはありました。それが顕著なのは旧約聖書のバビロン捕囚期でした。イスラエルが戦争に負け、人々が捕囚として色々な場所に連れて行かれました。離れ離れに生活せざるを得なくなった、会うことができなくなった歴史が確かにあったのです。自分たちが望んで離れ離れになったわけではなかった。自分たちのせいでもありませんでした。でも、彼らはそうならざるを得ませんでした。そんな彼らを支えたものがありました。それが彼らに与えられた律法であり、それによって彼らの信仰と生き方が支えられたのです。

苦しい時に神はいないと思ったわけではありません。むしろそのような時だからこそ神を求めたのです。いつか来る救いを神に期待することで、困難の時を耐え忍ぶことができたのです。「待ち望む」とはそのような強さがある言葉です。そして彼らはまさに70年及ぶ苦しい生活を経て、ようやく希望が見えてきました。それが、年に1度エルサレム神殿に向かい、礼拝をするということであったのです。

詩編133編にはこのような歌があります。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み。なんという喜び。」これはただ単純に共に座っていることを喜んでいる歌ではありません。苦しい時を共に耐え抜いたからこそ、会うということだけでも嬉しい。共に座ることができるが決して当たり前ではないということが分かったから、何という恵みだろうと歌っているのです。これは感動的でさえあります。私たちもまた礼拝を一時期中止していたことがありますので、再び礼拝ができるようになったときには、まさにこの言葉のように感動を覚えたものです。

苦しい出来事は私たちの予想を超えて、私たちに襲い掛かってきます。そして私たちはそれに抗えないということがあります。耐え忍ぶことしかできないこと。不本意のこともあります。生活様式だって変わるでしょう。しかし、それで終わりではないのです。神がおられるということは、現状ではわからないように見えることもある。しかし、その現状がどんなに苦しいものであっても、私たちの心を支配することはできないのです。神の存在を信じることは、私たちが新たな希望を見出し、そこに向かって歩んで行けるということだということを、先ほどの聖書個所から受け取ることができるのではないでしょうか。私たちもまた信仰によってこの時期を乗り越えられるのではないかと感じます。

私は、先ほども申し上げました通り、なかなか今年のクリスマスには前向きになれませんでした。でも、こんな時だからこそ、その苦しみに率直に当たっていくことが大切なのではないかと思います。先週完結したNHKの連ドラ「エール」ですが、しばらく前に主人公の古山裕一が「長崎の鐘」を作曲するというお話がありました。古山は多くの軍歌を作り少年たちを戦地に送ってしまったということに後悔していました。そんな時、彼は「長崎の鐘」に出会い、自らの罪滅ぼしのためにこの曲を作りたいと言い永井隆に会いに行きます。自らも被爆体験をした永井隆は、こういうエピソードを話します。ある人にこう聞かれたことがある。「どうして原爆が長崎に投下されたのか。神なんていないのか。」その時に私はその人に、「おちろ、どん底におちろ」と言いました。なんでかわかりますか?と問いかけます。

私はこの言葉を聞いたとき、とてもドキッとしました。「どん底まで落ちろ」とは非情な言葉のように聞こえたからです。でも、実はどん底には大地があり、そこからは希望しか見えないことを永井は語ろうとしたのです。永井隆自身もカトリック信者でした。原爆投下には色々な不条理を感じたことでしょう。しかし、その廃墟から見つかった長崎の鐘が多くの人に希望を与えたというのです。古山もどん底に落ちていましたが、そこから復活があることに気付き、自分の「罪滅ぼし」のために曲を作るのではなく、希望をもって生きる人々に「エール」を送るために作曲することを誓い、実際に多くの人々の励ましになって行ったというお話しでした。

私は長崎に住んでいたこともありましたので、とても感銘深くこの物語を見ましたが、私自身もまだまだどん底まで落ちていないことに気付きました。落ちてみないと地面があることがわからない。しかしそこに落ちれば希望しか見えない。神はそこにこそおられるのです。絶対に絶望では終わらないということがキリスト教の福音であるのです。そして私も人生の最もどん底に落ちた時にこそ、神が我らと共におられるということを感じたことを思い出しました。

今日の箇所でイエス・キリストは、「わたしを信じる者が、誰も暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネ12:46)と言われました。イエス・キリストは私たちを闇から光へ導き出す存在であります。でも、それは私たちの社会から闇が消え去るということであったり、イエスさまが闇を滅ぼしてくださるということであったりするわけではないのかもしれません。イエス・キリスト自身も「世を裁くために来たのではない」と言っているからです。

東八幡教会の奥田知志先生はこう言っています。「ヨハネによる福音書1章5節に『光は暗闇の中で輝いている。』と書かれている。私たちは闇から光へと考えるけれど、闇は依然としてあるのだ。その中で輝き続けるのが光なのだ。」

今日の箇所でイエス・キリストは叫んでいますが、誰に叫んだのでしょうか。それは多くの奇跡を行っても信じなかった人々に向けての叫びでした。彼らはイエスさまの奇跡を目の前で見でも信じられませんでした。言い換えれば、彼らは自分たちを覆う闇に目を取られ、他のことに無感覚になってしまい、イエスを受け止められなかったということでしょう。でも、イエス・キリストは言われます。「わたしを信じる者は、私を信じるのではなくて、私を遣わされた方を信じるのである。」

この言葉を私の言葉で言い直すと、こういうことになるのではないかと思います。「別にわたしを救い主と受け止めなくてもいい。でも、神がいるということは是非信じて受け止めてほしい。確かに神がいるとは思えないような状況はある。けれども、神はそのような時にこそあなたと共にいるのだ。」

光は私たちの闇を照らし出し、私たちの歩むべき道を指し示し、そこから導き出す存在であります。でも、私たちは前を向いてそこに行けないことがあります。

でも、イエスはそんな私たちに伴われるために来てくださったのです。こうして、イエスは私たちのキリスト、救い主となられたのです。そんなイエス・キリストの誕生を今改めて待ち望んでいきましょう。