〇聖書個所 マタイによる福音書 9章14-17節

そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 

〇宣教「花婿イエス・キリストが来られたのだから」

今日の聖書個所は、新共同訳聖書の小見出しに「断食についての問答」とあるように、一見「断食とは何か」について語っているように思えます。でもイエス・キリストが「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」と答えていることから考えると、この話のポイントは「断食云々」についてではなく、「今この時をどのように受け止めて生きているか」ということなのではないかと思います。今日は「花婿イエス・キリストが来られたのだから」という宣教題でお話をします。

先週の聖書箇所では、「徴税人や罪びととどうして一緒に食事をするのか」という声が上がりましたが、今日は「なぜあなたがたは断食しないのか」という声があがっています。「食事をどのようにするか」ということについては、現在私たちもコロナのことで考えさせられていますが、当時も大切なテーマであったようです。何故食事が大切なテーマであったか。それは食事が神の恵みであり、それをどのように分かち合うかということに他ならなかったからです。今日の話し相手はファリサイ派の人々や律法学者ではなく、バプテスマのヨハネの弟子たちでした。ちなみに、マルコとルカにも平行記事があるのですが、マタイと異なる部分があります。それはこの質問者がヨハネの弟子でもファリサイ派の人々でもなく、普通の「人々」だと書かれている点です。普通の人々からの視点ではファリサイ派の断食とヨハネの断食は同じように思えたのかもしれませんが、これがヨハネの弟子の質問であるとすると、興味深いことが分かります。

ヨハネの弟子たちは言います。「私たちもファリサイ派の人々も断食しているのに、なぜあなたたちは断食しないのですか?」彼らは当然断食することが正しいことであると考えていました。それは、彼らは断食しその自らの糧を貧しい人々へ施していたからであると思います。バプテスマのヨハネの弟子ですから、彼らはイエス・キリストの敵ではありませんでした。もしこれがファリサイ派の人々や律法学者であれば、断食をすることで自らを宗教的に高めていたということが考えられます。まさに山上の説教でイエス・キリストが教えられた「人に見られるために断食をしてはならない」というのはまさに見せかけの断食をしていたファリサイ派への当てつけとして考えることができるからです。

でも、ヨハネの弟子たちは違ったはずです。彼らの目的は、神にあって正しく生きる事であったからです。バプテスマのヨハネの働きについては、マタイ3章にイザヤ書40章を引用してこのように書かれています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」。つまりイエス・キリストが来られる前に、その道を整える働きをしたのがバプテスマのヨハネであるのです。彼自身は荒れ野でラクダの毛衣を着て、野蜜といなごを食べていたと言われるくらいストイックで厳格でした。ここにいたのはそんな彼の弟子たちなのです。

ちなみに同じイザヤ書の58章には断食についての引用もあります。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」

バプテスマのヨハネは、これを行わず自分のために断食していたファリサイ派の人々を糾弾して「悔い改めに相応しい実を結べ」と言っています。つまり、主の教えを座学として頭に入れ、それを拡大解釈してはいけない。その通りに生きなければいけない。それがゆがんだ道をまっすぐにすることである。でこぼこしていたり、曲がっていた道をまっすぐにするためには、主に立ち返って生きなければいけない。まさに悔い改めのバプテスマです。主への道筋をまっすぐにするわけですから、ヨハネはまさに神の道に正しく生きることを求め、弟子たちはそんな彼に従ってきた人たちであるのです。

弟子たちは言います。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」つまり、ファリサイ派の人々でさえ、見せかけであるのに断食はしている。それなのに、なぜあなたたちは断食しないのか。恐らくこれは断食の在り方云々の問題を超えて、もう不思議で不思議で仕方なかったんだろうと思うのです。

イエス・キリストの答えは、そんな彼らにとって驚くべき言葉であったと思います。その答えとは、端的に言うと「今はその時ではない」ということであったからです。イエス・キリストは言います。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」(いや、まさかそんなことは出来やしない。)という反語表現を加えることもできるような意味合いを持つ言葉です。

何故この言葉がびっくりするのかというと、実にヨハネの弟子たちにとっては、この世は来るべき救い主が来るときまでのものであって、その時のために道を備えているという理解があったわけです。ところが、イエス・キリストの返答は「既にその時は来ているのだ。」と言っているのです。

イスラエルの結婚式は花婿が花嫁を家に迎えに来るところから始まるそうです。家では花婿がやってくるのを今か今かと待ちわびている。マタイ25章には「ろうそくを持った10人のおとめ」の譬え話がありますが、いわばバプテスマのヨハネたちはこの乙女たちのように、その時の備えをしているわけです。その道をまっすぐに保ち続ける。それはあぶらを絶やさないしっかりとした姿勢であると言えます。しかし、実は彼らのところに既に花婿イエス・キリストが来ているのだ。それに気づかなかったバプテスマのヨハネの弟子たちは、まさに油を絶やさないように見えて眠りこけてしまっている乙女たちのようであります。

この弟子たちは、イエス・キリストに何故断食しないのかと聞きました。言い換えれば、バプテスマのヨハネの弟子たちは、断食を「自分たちが救われるための準備の時」として考えていたのです。神の道に正しく生きるために、救い主がやってくるときにまっすぐなものとしていられるために、選ばれし神の民となるために断食をしていたのだと言えます。しかし、イエス・キリストは「今は断食する時ではない。すでに花婿は到着し、祝宴は始まっているのだ」というのです。

これはファリサイ派の人々の断食というものとも異なります。彼らの「断食」の目的は現世利益、つまり自分自身の名誉を高めるためのものでありました。しかし、イエス・キリストの食卓は違うのです。先週の聖書の箇所で、徴税人であったマタイがイエス・キリストを招いたときに自らだけがイエス・キリストと交わりの時を持つのではなく、同じように社会から切り離されていた徴税人や罪びとたちを招いて、自らの身銭を切って彼らを歓迎したように、喜んで献げ、分かち合う交わりが起きるものなのです。これがイエス・キリストの食卓であるのです。また言い換えればこれがイエス・キリストの断食なのです。神の求める断食とは本質的には他の人と共に恵みを分かち合うことだからです。招かれざる者が招かれる食卓。だからイエス・キリストは「今は悲しむときではない、今は喜びの時である」と言うのです。

断食をこのように考えると、続けて言われる断食も少し印象が変わってきます。花婿が奪い取られるときにする断食も、悲しみの断食ではないのです。十字架への絶望の断食ではありません。私たちはどうしてもイエス・キリストの十字架を嘆き、来るべき時に神に救われるための断食のように思えてなりませんが、そうではないのです。これは花婿が奪い去られたときに、今度はその食卓に招かれていた私たち一人一人が自分にできる断食を行っていく、つまり私たちがイエス・キリストに倣い、その姿に従っていくというむしろ「希望の断食」ともいえることなのではないでしょうか。そしてそれは主の晩餐その者であるのです。

この答えであれば、ヨハネの弟子たちはびっくりしたはずです。それは、すでに彼らが待ち望んでいたことが起きているということであるからです。でも、もし仮にここでイエス・キリストが言っていることが十字架で殺されてしまうことを悲しむための断食であるならば、これはむしろ救いが消えてしまった、これからまた「世の終わりのための備えに入っていく」というヨハネの弟子たちの立ち位置に戻ってしまうことになるからです。でも決してそうではありません。私たちにはイエス・キリストが既に与えられているのです。

イエス・キリストは続けて言います。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

実は平行記事のルカ福音書には、これに付け加えて「また、古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』というのである。」と書いてあります。先日ボジョレー・ヌーヴォーの発売解禁日がありましたが、ボジョレーは若い方がおいしいワインのようですが、基本的にワインというものは、古いものの方が価値があるというのは常識です。

でも、マタイ福音書が伝えようとしていることは、そういうことではありません。イエス・キリストは新しい福音であり、古い価値観を突き破るものであることを教えているのです。つまりヨハネの弟子たちは過去の価値観やしきたり、常識に照らし合わせてイエス・キリストを裁こうとしました。私たちにもあると思います。正しいと思っている秤があります。私たちの生活様式にはしっかりとした古い服があり、頭の中にはしっかり古い革袋があるのです。これをなくすのは容易なことではありません。じゃあ、古い私たちはそのままでよいのかというと、そういうことでもないのです。イエス・キリストはここでは「両方とも長持ちのする方法」を提案しているように思いますが、これは並び立つことではありません。

私たちにとっては、まさにイエス・キリストとの出会いによって古い革袋が破られる必要があるのです。というのは、私たちが変えられなければいけない最も重要な価値観は、「自分自身へのレッテル張り」であるからです。私たちは断食ができないと救われない、何かができないとだめだ。だから私はこうなってしまったのだという因果応報論に支配されてしまっていることがあります。ヨハネの弟子たちの価値観はまさに「救われるための信仰論」でした。しかし、イエス・キリストはそんな私たちの立っている古く間口の狭い革袋を粉々にするのです。

今日の宣教題は、「花婿イエス・キリストが来られたのだから」とさせていただきました。何が言いたいのかと言うと、イエス・キリストはまさにあなたの花婿となるためにやって来たということなのです。つまり「あなたがたは世の光である」と言われたイエス・キリストは、私たちのいのちが神の愛に満たされたものであり、祝福されているものだと言うことを確認させるのです。福音は一方的にやってきたのです。天地創造において神は造られたすべてのものを見て「それは極めて良かった」と言っているのです。しかし、人間はそんな神の愛に目を留めず、人と比べ人を殺してしまう存在であることは聖書が語る通りです。イエス・キリストはそんな私たちに、その神の創造の原点を伝えます。私たちは神によって造られたものである。あなたのいのちは尊い。そんなあなたのいのちを、神がそのままにしておかれるはずがあろうか。いやそんなことはない。だからイエス・キリストが与えられたのです。

神はあなたが断食しなくても一方的に特別に永遠に愛しておられるのだ。つまりイエス・キリストが伝えたいことは、神は今あなたに与えられたいのちを喜び楽しむことである。そしてそれを隣人と分かち合うことが本当の断食なのだということなのではないでしょうか。そのために、神はあなたのいのちを創造されたのです。そのことを伝えるためにイエス・キリストはこの世に与えられたのです。来週からアドベントが始まりますが、わたしたちにはすでにイエス・キリストを通して神の愛が与えられているのです。実はクリスマスはもうすでにあなたに来ているということを来週からまた心に留めて参りたいと思うのです。

今日11月22日は「いい夫婦の日」であると言われていますが、イエス・キリストがわたしたち個々人のいのちの満たしと囚われからの解放のために与えられたパートナーであることを心に留めて歩んでまいりましょう。