〇聖書個所 マタイによる福音書 9章9-13節

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

〇宣教「わたしはあなたと共に生きたいのだ」

今日は子ども祝福礼拝ですので、多くの子どもたちと共にご家族が礼拝に参加してくださっています。先ほども祈りましたけれども、子どもたちの祝福はご家族の祝福と直結するものであります。ですので、合わせてご家庭の皆さまの上にも主の祝福をお祈りしております。

これより本日の宣教に入ります。大変申し訳ないのですが、今日の聖書個所は子ども祝福とは直接的には関係のないお話になります。しかし、今日の聖書箇所は、一人の小さな命がたとえ社会の中で消されてしまいそうになったとしても、神は目を留め、愛してくださるというメッセージを語っています。どうかこの箇所から神の慰めと励ましと希望を受けとっていただければ幸いです。

さて今日の聖書個所に入る前に、先ほど共に賛美した「うるわしの白百合」についてお話をしたいと思います。皆さんの中には、なんで今日この讃美歌を歌うのだろうと疑問に思われた方がおられると思います。というのは、この曲はイースターに歌われる復活の歌であるからです。またこの賛美歌は、新生讃美歌には収録されていませんので、かつての教団讃美歌から選びました。実はこの賛美歌は、実はNHKの連続テレビ小説「エール」の10月21日の放送で女優の薬師丸ひろ子が歌いあげたということで、ネットではプチバブル状態というか一時期とても話題になりました。ご覧になられた方もおられると思います。ではなんでそのときから一か月近くも空いているのに今更取り上げるのかというと、ただ単純に私がリアルタイムでは見ていなくて、つい先週録画を見ることができたからです。実はこの歌は元々のエールの台本にはなかったそうです。ヒロインの母「光子」を演じた薬師丸ひろ子が監督に自ら提案して歌うことになったそうです。舞台は戦争の空襲で焼け野原となった豊橋の焼け焦げた実家で「戦争を憎む」というシーンだったところ、クリスチャンという設定の光子が過去を懐かしみつつ、戦争からの復活を祈るという分岐点となった歌なのです。

「エール」のキリスト教考証の担当をした西原廉太さん(立教学院副学長)はこう言います。「うるわしの白百合を歌う光子は戦争・死・暴力という「死」と「絶望」を悲しみながら、しかしただそこに留まるのではなく、未来の平和・生・人間の尊厳という「いのち」と「希望」を伝えようとしている。特に光子はキリスト者として、戦時中、特高からも監視される中で、礼拝をすることも地下のような場で、ひっそりとせざるを得なかった。しかし戦争が終わり、今光子はようやく、声高らかに、自分の大好きな聖歌を歌うことができる。また、十字架も堂々と、身につけることができる。」これはまさに自分自身の復活の時であったのだと思います。まさに神を賛美するというのはそういうものだと思います。

この讃美歌はとても美しいメロディーで多くの人に愛された賛美です。しかしそれにもかかわらず新生讃美歌やそのほかの新しい讃美歌には収録されていません。その理由は、単刀直入に言ってこの歌詞には神学的にはそれほど意味がないからです。歌詞を見てもそう大したことを歌っているわけではありません。スライドを作りながら思いましたが、本当に「百合の花」や、「ささやきぬ昔を」という言葉だけが繰り返されているだけだと思いました。でも、この賛美歌に込められたメッセージというものは、言葉や神学を飛び越えていると思います。私たちにとってささやかれている「昔」というのはそれぞれのイエス・キリストとの出会いだと思うからです。今はまさに苦しみがあるけれど、しかしながらイエス・キリストは私たちに目を留め、伴い、喜びを与えてくださった。その「昔」がいまやまた自分に帰ってくる。まさにイエス・キリストにある復活です。実はこの賛美に込められているメッセージが今日の聖書個所とリンクするように私には感じられましたので、今日共に歌う賛美として選ばせていただきました。

今日の聖書個所は、マタイという人がイエス・キリストの弟子となる箇所ですが、ただマタイさんがお弟子さんになったときにこんなことがあったんですよ~とお話ししても、あまり意味がないと思いますので、今日はこのマタイを自分自身と置き換えて読んでみたいと思います。そのためにマタイの状況に目を留めていきましょう。

その時、マタイは取税所に座っていました。取税所というのは、税金を取り扱うところですので、今でいう税務署やその出張所みたいなところだと思います。しかし彼は納税をしに行っていたのではありませんでした。彼は徴税人という税金を取り立てる仕事をしていました。税金というのは国や地域のために使われるものですから大切なものです。でもいくら大切なものだからって、直接的に自分の懐が痛むことになるのであまり多くの税金を払いたいと思う人はいないでしょう。税金は血税ともいわれるように大切に使われなければなりません。でもこの税金が不正に使われていたらどうでしょうか。税金の無駄遣いは今の社会でも多くみられますが、もし仮に自分たちの地域に使われるはずの税金が他の国や人に流れていたらどうでしょうか。実はマタイがしていた仕事は、当時のユダヤを支配していたローマに納められるための税金でした。ですから、そんなお金を取り立てるマタイは、ユダヤの民衆からはとても嫌われていました。

この彼ら徴税人に向けられたユダヤ人社会の目線とは、言わばユダヤ人たちの愛国心や正義から起きたものであったと言えるでしょう。当時は非国民という言葉はなかったと思いますが、ユダヤ人のプライドを捨てた人とか、金のために同胞を裏切った者とか思われていたのでしょう。ですから、マタイが取税所にいたというのは、実は彼には他に行く場所がなかったということなのです。先ほどお話ししたエールの光子を含めた戦時下のクリスチャンたちも、同じように敵国の宗教を信じる者として居場所がなく、自分たちの信仰をひっそりと隠して生きるほかなかったのです。

マタイが取税所に佇んでいた理由、それはファリサイ派や律法学者たちが作り上げた社会の中に彼の居場所がなかったのです。世の中は自分たちの常識に人を当てはめて、「正当・異端」を判断します。

「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか。」という言葉が象徴的なように、その断絶は私たちとは違うという差別意識、その意識を生む仲間意識によって強化されています。そこで罪びとと認定されたらそれを覆すのは容易ではありません。ちなみにここで書かれている罪びとというのは犯罪者のことではありません。律法に従うことができなかった人たちがそのように認識されていたということなのです。彼らは社会の主流の方々から切り離されていたわけです。ところがイエス・キリストは「そんな人たちこそ世の光である」と言わんばかりに彼らの交わりのただ中に入って行かれるのです。

イエス・キリストはそんな苦しみを抱えたマタイをお見逃しになりませんでした。「通りがかりに」というのは、「通り過ぎた時にたまたまマタイが取税所に座っているのが目に入った」ということです。しかし彼が気になったので、そのままにしておくことはできず、彼に声をかけたということなのです。

マタイからすれば「どうしてこんな私に従ってきなさい」などと言われたのか、不思議で仕方なかったことだと思います。しかしマタイはこのイエス・キリストに付いて行ったのです。それはイエス・キリストの言葉に心が動かされたからだと思います。恐らく毎日周囲から冷たい視線を向けられたり、汚い言葉ばかりをかけられたりしていたマタイにとっては、その招きの言葉はその傷ついた心を癒し、かたくなった心を温めて溶かすような優しい言葉であったのではないかと思うのです。イエス・キリストが彼の居場所となったのです。それはまさにいのちの回復に他なりません。

その彼の心に起きた感動というものは、その後の彼の行動からも明らかです。マタイは同じ立場にいた徴税人や、社会から罪びと認定されていたような人々を集めて共に食事をしました。そしてイエスさまが来てくださったことを共に喜び分かち合ったのです。これはまさに賛美です。イエス・キリストが彼らの居場所になった。これを彼らは喜び楽しんだのです。これは、ファリサイ派の人々が決して踏み越えなかった線でした。というのは、ファリサイ派の方々は罪びととは交わらなかったからです。それはユダヤ人として、また律法的には正しいことだったのかもしれません。しかしその正しさは自分たちだけの正しさになってしまい、それは何を生み出すこともありませんでした。

さて、聖書個所に関する説明はこれで終わりです。ここからは私たち自身のこととして考えてみたいと思うのです。私たちはイエス・キリストの姿や言葉から学びます。私たちはマタイと同じように周囲から理解されず孤独を感じることがあります。イエス・キリストが来てくださって心の孤独が満たされた、イエス・キリストがわたしの居場所になってくれたという経験があるのではないでしょうか。或いはファリサイ派の人々と同じように「自分」と「他者」の間に線を引き、距離を保ち、相手の心を傷つけてしまったということもあるのではないかと思います。

実は私にもマタイのように自分の行く場所がなかった時期がありました。中学生の時、同級生の悪ふざけによって心が傷付き、友達に会いたくない時期がありました。なんで自分がそんな目に遭うのかわからず、またそのような痛みを受けている自分という存在も受け入れられませんでした登校拒否になったわけではありませんでしたが私の居場所はなかったのです。

代わりに私の居場所になったのが教会でした。教会は直接的には何もしてくれませんでした。でも、当時他の人に何も話したくなかった私にとっては落ち着くところでした。イエス・キリストが共にいてくれるとかそんな風に思ったわけではありませんが、私がいても良いところでした。ところがそんな時に、かつて私自身がいじめたことがある一人の同級生が教会に来ました。その人は私を見て、びっくりしたのだと思います。そのとき私が何かをしたわけではありませんが、その人はもう教会には来なくなりました。

そして私が、その人に対して何らかのアクションを起こすことはありませんでした。私は自分の居場所として教会を持っていましたが、他の人の求める心に応えることなく、むしろそこに誰も入ってきてほしくなかったのです。自分に大切な場所だからこそ他の人に立ち入ってきてほしくなかったのです。これはファリサイ派の人々がまさにイエス・キリストに感じていた思いだったのだと思います。神を大切にしたい気持ちです。神聖な場所を汚されたくない思いだったともいえると思います。もちろん、教会は私のものではありません。神のものである。でも、私は神を一人占めし、他の人を直接的にではないけれど、排除してしまったのです。イエス・キリストの働きを阻害してしまうものが自分自身であったということに気付かされました。このことはその後私の心に痛みとして残っています。

イエス・キリストの姿はわたしのそのような心を明らかにします。イエス・キリストは全ての人の居場所となられる方であるのです。イエス・キリストはすべての者のいのちを通りがかりにたまたま目に入っただけでもお見過ごしになるような方ではないからです。私たちには自分の心の内に立ちはだかる壁があります。しかし、イエス・キリストはそこを乗り越えていくことが大切であるということを教えているのではないでしょうか。イエス・キリストは神の意志、つまり様々な思惑から解放されて自由になりなさいと言っているのです。私には、イエス・キリストはすべての人に「わたしにはあなたが必要だ。あなたと共に生きたいのだ」と言っているように聞こえるのです。その時、私たちの心に喜びが起こるのです。そして、そのまま私に従ってきなさいと言われるのです。

主イエス・キリストのみに心を留めて歩んでまいりましょう。