〇聖書個所 マタイによる福音書 8章28-34節

イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。

 

〇宣教「墓場に住まう悪霊を追い出す」

皆さんは「エクソシスト」という1973年に公開された映画をご存知でしょうか。カトリックの神父が少女に取りついた悪霊を追い出そうとするお話です。当然映画はフィクションなのですが、カトリックには実際にエクソシスムという「悪霊払い」の儀式があるようです。プロテスタント教会の中にも悪霊追い出しに力を入れている教派もあります。その根拠となっていることの一つに、本日の箇所のようなイエスさまが悪霊を追い出すという物語があるのですが、今日に生きる私たちにとって、これら一連のお話というのは、聖書の中で最もよくわからないお話の一つなのではないかと思います。

まず、私自身がよくわからないと感じるポイントについてお話しします。まずは率直に言って悪霊という存在がよくわかりません。新約聖書では先々週の礼拝宣教でも取り上げたように、様々な病気の原因のように理解されていたわけではありますが、実は旧約聖書には悪霊という存在はあまりクローズアップされていないのです。というよりも旧約では一人しか悪霊に苦しめられた人はいません。それ以外には「悪霊」という言葉は旧約聖書にはほぼ登場しないのです。では、その悪霊に苦しめられた人が誰かというと、イスラエル初代の王サウルです。サムエル記上に書かれていることですが、サウルは預言者サムエルからの言いつけを守らず自分で判断し行動してしまったことにより王を退けられることを予告されました。サムエルからは「あなたを王に選んだことを悔やむ」という神からの言葉さえ宣言されています。その後、悪霊が彼のところにやってくるようになりました。ちなみにそんな彼の心を癒すために近くで琴を奏でていたのがダビデでした。音楽療法の始まりと言われています。

さて、とはいっても悪霊が本当にやってきていたのかはわかりません。それよりもサウル自身の状況に心を留めてみたいのです。彼は王位におりましたが、しかし自分を見出してくれたサムエルとの別れ、つまり神に見捨てられたという喪失感、またこれからどのようにしていけば良いのかわからない現実が彼の心を支配し、とても不安定になっていたことが考えられます。彼の判断は国の判断になりますから、その重責は想像を超えるストレスであったと思います。周りには強大国があります。そんな中で自分をこれまで支えていてくれたものがぽっきりと折れてしまったかのような状況のわけです。次第に彼は自分よりも名声を集め、自分から王座を奪いに来る者の存在が恐ろしくなり、猜疑心が強くなりました。実はこれが、彼を襲った悪霊の働きの正体であったと考えられます。

一方でサウルを苦しめていた悪霊と今日の聖書個所の悪霊の働きは大きく異なるように感じます。悪霊が完全に取りついて彼の体を乗っ取っているかのようです。もしかして旧約聖書と新約聖書には数百年にもわたるタイムラグがありますし、その間にユダヤはペルシャ文化やギリシャ文化、ローマ文化の影響を受けてきているので「悪霊理解」が変わったのかもしれません。例えば身体症状や精神症状として見た目には明らかだけれど、原因がはっきりしていない症状はすべて悪霊の仕業であると理解されるようになったのかもしれません。そしてそのように悪霊に取りつかれたとされた人が、宗教的な差別を受けていたということは容易に考えられます。だからイエスさまのところにみな来て癒しを求めたわけです。

しかしながら、今日の箇所をよく読んでみると悪霊に取りつかれた男が二名、自らから進み出てイエスさまのところにやったわけですが、彼らはどうも治りたくてやって来たわけではなかったようです。むしろ「私を苦しめないでくれ」と言っていることから考えると、彼らはイエスさまに会いたくなかったわけです。そうであればむしろ遠くに逃げたらよいのではないかと私なら思うのですが、そういうわけにはいかなかったのでしょうか。もしイエスさまがこのガダラ人の地方にやって来たということがこの悪霊と対峙し追い出すということが目的であったのだとしたら、逃げきれないことを観念した悪霊がやって来たとも言えるかもしれません。でも、やっぱり不思議です。

もう一つ不思議なことはイエスさまが悪霊との対話の後、悪霊の要望通り豚に乗り移らせたことです。悪霊は何故豚に入ることを望んだのでしょうか。そしてその豚が突如として水の中に落ちていってしまうことも不思議でなりません。これは一体どういう意味があると言うのでしょうか。もちろんここはガダラ人の地方、いわゆる異邦人の社会でしたので、ユダヤ人的に見れば不浄の動物であった豚は、悪霊が乗り移る場所としては最適であったのかもしれません。そして悪霊がさせたのかイエスさまがさせたのかはわかりませんが、その不浄な動物が悪霊と共に水の中で死んでいくという結末はユダヤ的に見れば当然であったのかもしれません。しかしながら、今日に生きるわたしたちの視点からすると豚がかわいそうであるというイメージしか残りません。それに豚だって野生に生きていたわけではありません。家畜を失った豚飼いたちは、非常に困惑したと思います。墓場にいた二人はとても狂暴だったということで周りの人も迷惑していたようですので、彼らが癒されたこと自体にはほっと一安心することであったとは思いますが、でもそれに引き換えて自分たちの生活の糧を得るための手段を失うことになりましたので、お願いだからこれ以上問題を起こす前に帰ってくれと追い出されても仕方がないかのようにも思えます。それにイエスさまはそんな経済的な苦境に陥るかもしれない彼らのことには気を払わずにまた船に乗って帰ることになるのです。

今日の箇所がいったい何を伝えようとしているのかもよくわかりません。結局のところ「異邦人から受け入れられなかった」という物語なのでしょうか。それとも他に意味があるのでしょうか。実は、今日の聖書個所にはマルコ5章とルカ8章に同じ(ような)物語があります。(ような)というのは全く同じ話ではなく内容が少し違うからです。どのように違うのかというとマルコとルカの方が充実した内容になっているのです。実はマタイでは、癒された人がどうなったかということはもはや書かれていませんが、マルコとルカではイエスさまに付いて行きたいと願い出るのです。しかしそれが聞き入れられないことが分かると、彼はデカポリス地方、つまりヨルダン川の東側へイエスさまの救いを告げ知らせに行ったとまとめられているのです。つまりこの出来事を通して異邦人への伝道が拡がっていったというストーリーになっています。

でもマタイが伝えたいことはそれとは異なるようです。マタイがここで伝えたいことは何かというと、マタイだけに書かれているキーワードがヒントになりそうです。「神の子、構わないでくれ。まだそのときではないのにここに来て、私たちを苦しめるのか。」という言葉です。つまり、マタイが伝えようとしていることはイエスさまが「悪霊に対する権威を持っているということ」なのです。しかも、「まだそのときではない」という言葉には、その時がきたら悪霊の働きは終わるという意味がありますし、「その時とはイエスさまがやってきたことによって始まっている」ということなのです。

「その時」というのは、イエスさまによって福音宣教が始まったということに他なりません。イエス・キリストは「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と言いました。イエス・キリストの前に来た預言者であるバプテスマのヨハネも同様に言いましたが、彼は「悔い改めに相応しい実を結べ」と言い、「準備ができた人」を悔い改めに導きました。しかし、イエス・キリストは準備のできていない人、悔い改めに相応しい実を結ぶことができない人をも救うためにやって来られたのです。

それがイエス・キリストの歩みなのです。マタイ8章では湖を渡ってくる前に既にイエスさまは悪霊を追い出し、人々の病を癒しました。人々はどれほどの慰めと平安を受けたでしょうか。また船に乗り込んでからは荒れ狂う波、思い通りに行かない状況に遭いました。弟子たちは船の操縦のプロであったにも関わらずなすすべがありませんでした。しかしイエスさまは波をも静めました。これはイエス・キリストが共におられるときに私たちの歩みは守られる。目の前には嵐があっても大丈夫だということであるのです。そして今日の箇所ではイエスさまは、自分自身では自分たちをコントロールしようがない状態、もう駄目だと思うしかない状況にいる人を救い出されるのです。私たちが思い通りに行かない状況、つまりこれが悪霊の働きであるということを示し、その状況にイエスさまが共におられることで、嵐は凪に変わり、悪霊は追い出されるということを示しているのです。

それでは、私たちを取り巻く悪霊とは何でしょうか。それは今日彼らが墓場から出てきたということを考えてみたいと思います。墓場とは悪霊が住むところとしてはイメージとしてはぴったりです。おどろおどろしく、人がなかなか踏み入れることのできないエリアであると思います。当時のイスラエルの墓のイメージはわかりませんが、でも私は少し違う印象を持っています。実は私の実家は東京の多磨霊園のすぐ近くにあり、町には石材店がたくさんあります。小学校への通学路は墓地の脇道であり、小学校のマラソン大会は墓地の中を走りました。墓地には自然があります。そして実に墓は多くの方々の思いが詰まっているところであり、きれいに整頓されています。私たちの記念堂がある舞子墓園もそうではないでしょうか。私も年に数回参りますが、怖い場所であるというよりもむしろ落ち着く場所であり、故人を懐かしむ場所でもあります。

墓場から出てきたということに問題があるのではないと思います。むしろ墓場に恐怖を抱かせるのは、すでに亡くなった方との関係性がある場合です。もしかしてこの悪霊に憑かれた男二人は亡くなられた方との関係に何らかの問題を抱えていたのかもしれません。例えば亡くなられた方の怨念ともいうべき過去の言葉や力に支配されていたのではないでしょうか。もちろん、亡くなられた方の言葉を大切に思い起こす時というのは大切なことですし、尊重して良いことだと思いますが、必ずしもそうではない場合もあります。亡くなった方の言葉がずっと心にとげとして残り、自分ではもうコントロールしようもない状況になるほど心を痛ませてしまうということがあるのです。しかもそれはもう解決不能であることも多々あるわけです。「死者に囚われて生きる」ということがあります。生きていた時よりも亡くなった後の時の方が言葉は心に残るものです。

実は先ほどお話しした悪霊に取りつかれたサウル王は、預言者サムエルが亡くなった後、どうしても彼と話がしたかったのでしょう。死者の霊を呼び出す「口寄せ」を利用したことがあります。彼はサムエルに何を言いたかったのか、謝りたかったのかそれは定かではありませんが、しかし使者にすがったのです。でも、これが決定的に問題でした。何故ならば口寄せは神が最も忌み嫌われることの一つであるからです。

イエス・キリストは言われます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」でも、私たちは死者にすがることがあります。その言葉に準じて生きようとすることがあるのです。でもそうではないのです。私たちがすがるべきは共におられるイエス・キリストであり、死者も生きている者も共に愛されている神であるのです。イエスさまはその視点に私たちを招くのです。ここにわたしたちは今日、心を留めたいのです。

昨日はハロウィンでした。世の中ではおばけに扮した子どもたちがお菓子をもらう日になっていますが、元々の意味では、ハロウィンはカトリック教会で記念されている諸聖人の日の前に帰ってくる先人たちの霊が悪さをするという日です。でも本番は「諸聖人の日」である今日です。私たち諸聖人の日を記念としては守っていないわけですが、もしこの日に大切にしたいことを挙げるとすれば、「諸聖人を記念してお祝いする」だけに留まるのではなく、その諸聖人が生きていたときにイエス・キリストが彼らにどのように伴っておられたのかを知り、私たちも同様にイエス・キリストの伴いによって励ましと支えを受けて、私たちにできることをこの社会の中で行っていくということに他なりません。

神は生きている者の神として私たちに伴ってくださるのです。今日癒された悪霊に取りつかれていたものがどうなったかということについて聖書は何も触れていません。でも、これは今の私たちに置き換えて読むことができます。つまり、この物語は今日宣教を聞いた私たちに引き継がれ、これから始まっていくのです。

今日は、イエス・キリストの伴いと十字架と復活を記念して主の晩餐を守ります。祈り心をもって共にパンと杯を受け、私たちに向けられたその思いを新たにしてまいりましょう。