〇聖書個所 マタイによる福音書 7章15-23節

「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

〇宣教「偽預言者に気をつけなさい。」

今日の箇所は、新共同訳聖書を見てみると「実によって木を知る」というお話しと「あなたたちのことは知らない」というお話しの二つに区切られていますが、元々このような小見出しというものは聖書には存在しません。実はこれは新共同訳聖書の編集委員会が付けただけの枠組みですので、正しい枠組みというわけでもありません。今日わたしたちはそんな枠組みに捕らわれず自由に、一つのお話として読んでいきたいと思います。

イエス・キリストは言われます。「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の皮を身にまとった貪欲な狼である。」日本語にも「羊の皮を着た狼」という言い回しがありますが、この聖書個所がその語源に当たるようです。「羊の皮を着た狼」とはどういう意味でしょうか。インターネットのデジタル大辞泉という辞書のサイトには、「親切そうにふるまっているが、内心ではよからぬことを考えている人物のたとえ」と書かれています。日本だけではなく、世界中でも狼にはそのような賢さがあると認識されています。実際にグリム童話の「狼と7匹の子ヤギ」では、狼が子ヤギたちのお母さんに扮して声をきれいにしたり、足を白く塗ったりして、子ヤギたちをだまして食べてしまうという物語があります。ですから、「羊の皮を着た狼」には親切そうに見えて内心よからぬことを考えることだけではなく、実際に相手をだまし、自分の欲望を満たそうとする人のことを指すのだと思います。

でも、この言葉だけでは「偽預言者」を説明しつくすことはできません。偽預言者とは、預言者という性質を考えれば、相手をだまし自分の欲望を満たすだけではなく、自分を正しく見せ相手を洗脳、コントロールして支配させるという意味があるように思うからです。

偽預言者とは、ギリシャ語では「プシェウドプロペーテース」という言葉の複数形が使われています。この言葉を分解すると「嘘をつく、偽る、だます、欺く」という意味の「プシェウド」が接頭語についているプロペーテース(預言者)と書かれています。ちなみに、このプシェウドが接頭語になっている言葉の中には、「偽証、偽兄弟、偽教師」などがあります。「偽善者」はまた違う語源のようです。

嘘の預言者というと、果たして預言者であることが嘘なのか、それとも預言の内容が嘘なのか、わかりません。でも、注意したいことは、今日読んだイエス・キリストの言葉の中で対比されているものが「天の父の御心を行う者」と書かれてありますので、偽預言者は天の父の御心を行う者ではないということがわかるでしょう。

それでは、イエスさまは、果たしてこの偽善者たちという言葉を、誰を想定して言っているのでしょうか。それは第一義的に言えば、律法学者とファリサイ派の人々であると言えるでしょう。彼らはマタイによる福音書の中では、イエスさまの論争相手として徹底的に糾弾されています。例えば、マタイ23章によれば、彼らは「偽善者」であり、「ものの見えない案内人」であり、「白く塗った墓」であり、「言うだけで実行せず、背負いきれない重荷をまとめて人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために指一本動かそうとしない」と言われています。ファリサイ派の人々は、復活や天使や霊の存在を信じていたと言いますが、もしかして、私たちのように「正しく」ならなければ、「復活」することはできない、復活して永遠のいのちを得るために私たちと同じようにならなければいけないとでも教えていたのかもしれません。確かに律法学者とファリサイ派の人々は、自分たちが律法の番人であることを自覚し、人に律法を教えていました。でもそれが人々に重い負担となり、不信仰を生み、逆に神の国への道をふさいでしまっていたということをイエスさまは嘆いておられたわけです。

偽善者とはどういう人でしょうか。聖書には具体的に「偽預言者」と名指しされている人物が一名だけいます。使徒言行録13章に登場するユダヤ人の偽預言者バルイエスです。バルとは「子」という意味ですから「イエスの子」と名乗っていたわけです。また一説には彼は魔術師エリマとも呼ばれていました。バルイエスはキプロスの地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と付き合いがあったようです。もしかしてバルイエスは、イエスの子と自称して「主よ、主よ」呼ばわったりして信仰深い姿を見せて取り入っていたのかもしれません。色々と力ある業も見せたことでしょう。しかしながら彼はその後、パウロとバルナバがやってくると二人に対抗して、総督を信仰の道と違うところに連れて行こうしました。偽預言者とは、自分を正しく見せるために、人を惑わし、賢明な人をも騙して違った道に唆すのです。何が彼をそうさせたのでしょうか。

他の箇所をみると、使徒言行録8章には魔術師シモンが登場します。彼は人をだまし、自分のことを偉大なる人物と自称していました。ところが彼は、使徒たちに出会い、使徒たちが聖霊によって行っている奇跡を見て、これは自分もぜひ行いたいと思い、金を積みました。これは、彼の心の中に、他の人からの称賛をうけたいという思いがあったからにほかなりません。

このようにみると、偽善者には神の御心よりも優先される自分の都合があることが分かります。でも、私はちょっと彼らの気持ちがわかるように思うのです。誰でも称賛を得たいと思うからです。それに彼らはある意味自分に純粋だったと思います。何故ならば、人を騙すことは大変なことだと思うからです。「心に響く言葉」を雄弁に語ること、「悪霊を追い出す力」や「奇跡を行う力」など、影響を与える賜物を持ち、実際に結果をだしていなければ、他の人が付いてくるわけはありません。

偽預言者は、「良い実と悪い実」という対比でいうのであれば間違いなく「良い実」に見えるわけです。カッコよく見えるのだと思います。行いだけを見るのであれば、22節にはイエスさまだって彼らが彼らは御名によって預言をし、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を色々と行うことができることは認めておられます。

それは良い木から生まれる良い実のはずです。でも、心を留めたいのはそこではないのでしょう。その実つまり、良い実を結ぶことは、「天の父の御心を行うこと」とは必ずしも同じではないということなのです。それでは、天の父の御心を行うこととは何でしょうか。良い実をもってではなく良い木を見抜くためにはどうしたらよいのでしょうか。それを知るために、偽ではない預言者の姿を見ていきましょう。

もし仮に偽預言者が自分の目的を達成するために人をだますことであるとするならば、やはりこれは、神の言葉を預かって語る「預言者」の姿とは大きくかけ離れています。何故ならば神の言葉を語る預言者というものは、自分というものを捨てなければできることではなかったからです。

聖書に登場する預言者は自分の言葉を語るのではなく、神の言葉の代弁者でした。モーセをはじめいろいろな人物が旧約聖書には出てきます。預言者の言葉は、人々が苦しい状況にいる時、励ましとなり慰めとなります。でも、ひとたびその状況が落ち着いたときには人々から忘れ去られていくものでもありました。時には「不都合な真実」のように毛嫌いされることもありました。そんなとき預言者は、バッシングの対象になるのです。預言者はしばしば神の言葉と民の声に挟まれ苦しみます。

彼らは強そうには見えません。むしろボロボロになっている姿をよく見ます。語らなければならないことはどんなに都合が悪くても語る必要があります。それを隠すことはできません。預言者エレミヤは人々への裁きを語るように導かれました。しかしながら民が悔い改めず、まさに裁きの時がやってきたとき、預言者はどのように振舞ったのでしょうか。「お前ら、これは悔い改めなかった天罰だ。バーカバーカ。おしまいdeath!」と言ったでしょうか。そうではありませんでした。預言者は、自分も共に同じ労苦を担いながら、今度は必ずやってくる神の救いを告知したのです。偽預言者は、自分まで同じ状況まで身を落とさせないと思います。でも、神の預言者は人々に伴うのです。

イエス・キリストもまた預言者と呼ばれました。そしてイエス・キリストは様々な苦しみを持つ人々に伴っていかれました。人々はイエス・キリストについていくようになり、律法学者やファリサイ人はそれを妬みました。そして彼を十字架に付けました。イエス・キリストの十字架は罪の赦しの十字架と言われますが、預言者としてのイエスさまの姿を見てみると、徹底的に苦しみの中にいる人々のただ中に立ち、私たちが人生の中で受けた苦しみ、あるいはそれ以上の苦しみを受けた人として私たちの慰めとなられた方であり、その姿に「私の苦しみは一人だけの苦しみではないのだ。イエス・キリストも同じ苦しみを受け、そして復活されたのだ」という救いを感じることなのかもしれません。私は一人ではない、このことは復活の希望に繋がるのです。

それでは、私たちはこの「良い木は良い実を結ぶ」、「悪い木は悪い気を結ぶ」これをどのように判断したらよいのでしょうか。イエス・キリストは「あなたがたはその実で彼らを見分ける」と言いますが、そんな簡単なことではないように思います。そして心を見ることも容易ではありません。

また、人間は基本的に自分の信じたいものを信じるものであるからです。どんなに怪しい教えでも、信じて込んでしまえばそこから離れさせることは困難です。人は自分の秤によって計るからです。この言葉は、「裁いてはならない」というマタイ7章1節以降の個所で出てきたことですが、そういう意味では私たちは木や実を見るというよりももっと木や実を見て自分が認識したことを信じているのだと言えるでしょう。現実や事実は自分というフィルターを通して角度が変わるのです。

実は私は9月13日に「裁いてはいけない」という聖書個所についてメッセージをいたしました。「イエスさまは鯖いてはいけないと言われる。裁くとは相手を自分で判断すること、認識するということである。でもそんなことは難しい。何故ならば相手を認識することから人間関係が始まることだからだ。では何が問題なのか。それは、自分の秤によって計るということではないか。つまり、私たちは自分で相手を計るのではなく、むしろイエス・キリストの愛によって相手をそのままで受け止めなさいといわれているのではないか。自分もまたキリストに受け入れられた身ではないか。自分のことを棚に上げて相手を裁いてはならない。」このようなことをお話しさせていただきました。

確かに受け入れることができれば、それでよいのではないかと思います。でも、羊の皮を被った狼、偽預言者に対しては、私たちはしっかりイエス・キリストの言葉、また行いを心に留めてその姿を基準に考えるということが大切なのです。

私たちは見た目や言葉の重みや奇跡的な能力など、様々な事柄に支配されます。パウロも手紙の中で「手紙は重々しくて力強いが、実際に会ってみると弱弱しい人で、話もつまらない。」(Ⅱコリ10:10)と言われていることを告白しています。誰だってかっこよく力強い方がいいのです。見た目や語る言葉が良いから人は惹きよせられるのです。それは、世の道理です。

しかし、注意しなければなりません。この世には情報があふれ、色々な教えが飛び交っています。これが世の中の真実だというような情報もたくさんあります。現代の預言者ともてはやされている人もいます。逆に偽預言者だとバッシングされている人もいます。行いでは私たちはわかりません。何が結果となるかはわからないからです。

イエス・キリストは「天の父の御心」を行うことが天の国に入れることだと言います。天の父の御心とは、何か。それは恐らく「これだ。あれだ。」というものではなく、イエス・キリストとの対話の中で、求め続けていくということなのではないでしょうか。ここから見えてくること、小さくても自分に示されたことを一つずつ行っていくことが天の父の御心を行うということに繋がっていくのではないでしょうか。

これからわたしたちは主の晩餐式を守ります。私たちのために裂かれ、流されたイエス・キリストの体と血を覚え、それが私たちのいのちのためであったということを改めて受け取って参りましょう。