本日、会堂での礼拝は休止です。それぞれの場所で礼拝をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

聖書個所:マタイによる福音書5章7~8節

宣教題:「幸いなるかな。不安の中に生きる者よ。」【西脇慎一】

〇何故、私たちは幸いと言われるのか?

神戸バプテスト教会では、現在イエス・キリストの教えとまたその歩みに心を留めるためにマタイによる福音書を読んでいます。今日は先週に引き続き「山上の説教」からイエス・キリストの福音宣教を受け取って参りましょう。

「山上の説教」とは、マタイ5章から7章でまとめられているイエスさまの教えのことです。この導入部である5章2節には「イエスは口を開いて、教えられた。」と強調された特別な表現があります。これによって私たちは「人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(4:4)という言葉を思い浮かべます。つまり私たちも神の言葉であるイエス・キリストの教えを信じることによって生かされるということなのです。

最初の教えは、新共同訳聖書では「幸い」と小見出しが付けられ、「〇〇な人々は幸いである。何故なら〇〇だからである。」という形式で書かれています。でもギリシャ語では、「あなたがたは幸いである。○○なものたちよ。」という宣言の言い切りの形になっています。「あなたがたは幸いである」という言葉はマカリオイ(複数形)という言葉ですが、元々の意味は単純にハッピーとか嬉しいということではなくて、もっと根源的に「もはや何の不安もない状態」、「いのちが満たされている至福の状態」を現わしている言葉です。みなさんは、そんな幸いを感じたことはあるでしょうか?

恐らくイエスさまの山上の説教を直接聞いた人々の中にも、そんな恵まれた状況にいる人はいなかったと思います。何故ならそこに集まった人々は、イエス・キリスト以外に自分の助けとなる存在を見出すことのできなかった方々であるからです。それまでにも色々と他のものに助けを求めてきたことでしょう。でも彼らは助けを得ることができなかった、幸せどころか不安しかないような状況の方々が多かったのではないかと思うのです。

今、わたしたちも同じような状況かもしれません。何故なら私たちは新型コロナウイルス感染拡大の不安の中にいるからです。兵庫県でも2日に西宮市で感染が確認されたのを始めとして、3日には神戸市でも感染が確認されました。神戸新聞によると今朝の時点では、すでに県内の感染者は10人に増えています。色々な報道がある中で、人々は様々な予防努力をしています。私たちの神戸バプテスト教会も礼拝を休止しました。神戸教会は今年宣教開始70周年を迎えますが、この歴史の中で礼拝をお休みにしたことは一度もありません。阪神淡路大震災の被害の中でも礼拝は守られていたのです。多くの来会者のいのちを守る感染予防のための苦渋の決断ですが、このことは心に留めていきたいことです。

報道の中には不安をあおるようなフェイクニュースもあります。様々な物品が品切れになると言われ、買占めが起きました。不安は掻き立てられると、自分だけでも助かりたいという思いが強まるのでしょう。実は不安をあおられてトイレットペーパーを買った人々のおよそ90%はそれがフェイクニュースであると知っていたということです。でも現実に品物が薄くなってきている状況を見た時に不安になり、やっぱり買っておこうという気持ちになったというのです。

不安は人々のストレスにもなります。「コロナ疲れ」「コロナ鬱」という言葉も出てきました。色々なところで多くの方が疲れやストレスを覚えておられます。またそれによって色々な問題が起きてきています。「コロハラ」という言葉をご存知でしょうか。「コロナハラスメント」の略語ですが、コロナウイルスの拡大の不安とストレスによって、他の人に対して攻撃的になってしまうことがあるそうです。例えば、近くの人が花粉症で咳をしただけなのに、疑心暗鬼になって攻撃してしまったケースなどもあるのです。

もちろん仮にコロナウイルスに感染したとしてもその人の何が悪かったわけでもありません。むしろ誰でもそのようになってもおかしくない中なのです。ところが感染が疑われる(或いはそう思われる)だけで、周囲から白い目で見るような、或いは白い目で見られるような状況が生まれています。これらはすべて不安によって引き起こされた状況なのです。

私たちも少なからず通常とは違う日常を送っていますので、体にも心にも疲れを感じ、ストレスを溜めてきていると思います。人間関係にギスギスすることもあるでしょう。ですから、今日わたしは皆さまの心の平安のために祈りたいと思います。礼拝はそれぞれの場所で守りますが、私たち一人ひとりに伴い給うイエス・キリストの伴いを祈ります。

このような時、私たちはイエス・キリストの言葉に心を留めましょう。イエス・キリストはそんな状況にいる私たちに向かって、「あなたがたは幸いである」と語り掛けられているのです。それはイエス・キリストが共にいることこそが、私たちにとって憂いも不安もない至福な状況であるということだからなのです。これは平和の訪れを示す言葉でもあるのです。

つまり、イエス・キリストはこう言うのです。「あなたたちは今まで不安の中で大変な状態にいたかもしれない、でも今は大丈夫だ。何故なら私が今あなたと共にいるからだ。私がここにいるということは、あなたがたは神から見捨てられて苦しい状態になったということではなく、むしろあなたたちは今まさに神によって顧みられているのだ。」ということなのです。ですから、イエス・キリストはそんな人々に「あなたがたは幸いである。」と言い切られたのです。私たちには、イエス・キリストが共におられます。イエス・キリストは私たちの心の痛みを知り、疲れを癒し、平安を与え、新しく生きる知恵と、共に生きる仲間を与えてくださるのです。さて、それでは今日はイエス・キリストが語り掛けられた人々の中から、「憐れみ深い人々」と「心の清い人々」について取り上げたいと思います。

 

〇「憐れみ深い人々は幸いである。」

「憐れみ深い人々」とはどういう人々でしょうか。皆さんは憐れみ深い人と聞くとどういう方をイメージされるでしょうか?恐らく、聖人のような人物や、困っている人を見ると放っておけないような方をイメージされるのではないかと思います。イエス・キリストを思い浮かべるかもしれません。イエス・キリストは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた。」(マタイ9:36)方でした。また、善きサマリア人の譬え(ルカ10:25-37)では「強盗に襲われ倒れている旅人を見て、サマリア人は憐れに思った。」とあるように具体的な憐れみのサポートをする姿を示しています。この憐れみは、まさにその人の痛みを自分の痛みとして覚える「共感共苦」の憐れみでした。ギリシャ語では、「スプランクニゾマイ」という言葉が使われています。スプランクノンとは「内臓」を差す言葉ですので、イエスさまは「自らの腸が引きちぎられるほどに深く憐れむ方」であったのです。イエスさまは言われます。「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」そして、「行ってあなたも同じようにしなさい。」

でも、実際に私たちがイエスさまと同じように憐れみを行うのはとても難しいことです。同じような憐れみをする人が幸いであると言われているならば、それはとてもキツいことだと言えるでしょう。ハードルが高すぎます。何故ならば私たちはしたくてもそこまではなかなか踏み切ることができないからです。それでは、なんでイエスさまは「憐れみ深い人々は幸いである」と言われたのでしょうか。

実は今日の「憐れみ深い人々」はイエス・キリストの「スプランクニゾマイ」とは違う言葉が使われています。今日の憐れみは「エレオス」というギリシャ語が語源になっていて、同情とか慈悲とか施しを意味しています。この二つの「憐れみ」の違いがとても大切だと思います。つまり、わたしたちにはイエス・キリストのような「他人の苦しみを自分のことのように苦しみ共に生きていく憐れみ」が求められているわけではないのです。むしろそんな憐れみの心があるわけではない自分自身が、イエス・キリストの「共感共苦」の憐れみによって救われた者としての招きに応え、自分にできる範囲の憐れみを行っていくということが幸いであると言われているのではないかと思うのです。

憐れみを行う時には様々な自己葛藤と出会います。最近、神戸教会に違う国から来た人がたびたび来られていて、私たちは時折、有志でその生活のサポートをしてきました。彼らのこれまでの大変な話を聞いて非常に心を痛めましたし、何らかの力にはなりたいと思い関わってきました。でも関わり続けていくことはとても困難なことで、できることしかしていないのにも関わらず共に生きていくとき、徐々に色々な生活態度が気にかかるようになってきましたし、気持ちのすれ違いも起こりました。「こんなにしてあげているのに」というような上から目線の意識も時折生まれましたし、寄り添うことの困難さも感じました。次第に私自身にとってもストレスにもなるということを感じました。またそのストレスが良くない形で他の場所に出てしまうこともたびたび感じていました。

他の方からは「先生たち、よくやってくださっている」と言われますが、でもそんな時、自分自身の心に出てくる思いというのは、憐れみの気持ちなどではなく、もちろん共感共苦でもありません。申し訳なさと責任感だったように思います。でも、それでも支援を続けていったときに、多くの支援者がサポートして下さりまさにわたしたちを憐れんで下さったということが起こってきました。そんな皆さまはどのような憐れみの思いで手助けくださったのでしょうか。恐らく、皆さんも自分の心に示された思いに自分にできる範囲で応えてくださったのではないでしょうか。私たちはその小さな声かけや様々な配慮に憐れみを感じ、慰められ励まされてきたのです。

まさに「憐れみ深い人々は幸いである。(たとえ、憐れみの心を持っていなかったとしても)その人たちは憐れみを受ける」ということを、皆さまとの関わりの中で感じています。何故ならば、この交わりのただ中にこそイエス・キリストがおられるということを感じるからです。ここに平安を感じるのです。

 

〇「心の清い人々は幸いである。」

同じように「心の清い人は幸いである。」とは言われても、「自分の心は清い」と言える人はなかなかいないのではないでしょうか。皆さんの中で心の清い人はいるでしょうか?清いという言葉は、ギリシャ語で「カタロス」という言葉で、清さの他に純潔、無垢、宗教的な清浄を意味している言葉です。イメージとしては「ピュア」とか「純粋」を思い浮かべますから、自分自身を心が清いと言える人はむしろ違うのだろうと思います。私たちの中には年月を重ねるごとに知恵や経験によって色眼鏡を持ってしまい、純粋でいられることが難しいからです。今では「ピュアだね」とか言われると若干馬鹿にされているかのような響きも感じられます。でも、純粋でいられたらその方が良いと若さを羨む方もおられるかもしれません。イエス・キリストは何故、「心の清い人は幸いである」などと言われたのでしょうか。

私はこう思います。実は心の清い人というのは、心が綺麗か汚いかの問題ではなく、私たちの心の奥底、つまり思考や判断が偏っていないか、フラットであるかないかということではないかと思うのです。例えば仮にイエス・キリストが、心がきれいな人が神を見るというのであれば、そんな人は確かに子どもたち以外にどこにもいません。何故なら自分で清くなろうとしたって、そのように聖俗を比べてしまうこと自体が色眼鏡をかけているということになってしまうからです。そうではないように思います。イエス・キリストは心の清い人だけのところにきたのではなく、むしろカオスのような不安の中にいる人たちのところに来られたのです。でもそういう人たちの方が、心の奥底では真実を求めているのだと思います。ですから、心がきれいな人が神を見ると言うのではなく、むしろ心の奥底で神を求めている人こそ神を見るのです。真理を求める人は、色眼鏡で他者やその他の出来事のことを偏り見ません。そして凝り固まった考えを捨て、神と人と新しい関係性を作っていけるのです。これこそ、幸いなことなのではないでしょうか。

 

〇「出会いと対話に日々新しくされて」

ところで皆さんは、今年度の神戸教会の年間テーマと聖句を覚えているでしょうか。年間テーマは「出会いと対話に日々新しくされて」。年間聖句は「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコによる福音書2:22)でした。

このテーマと聖句を私自身の事柄として振り返ってみると、「出会い」は日々多く与えられたものでしたが、それらの「出会い」を丁寧に誠実に対応することができなかった、また多くの方としっかりと向き合って「対話」をすることができてこなかったように思っています。これは色々な理由もありますが、私が古い革袋のままでいたというではないかと自ら感じています。

ただ、様々な出会いの中で、自らの信仰を問われたり、普段はあまり考えない自らの姿が明らかにされたりすることがたくさんありました。そんな私にとって、聖句にある「新しいぶどう酒」とは、まさに「古き革袋である自分自身を突き破る出会い」でした。そして突き破られた自分の姿を改めて知る時、イエス・キリストの福音が心に響いてくるのです。「心の貧しいものは幸いである。」(マタイ5:3)

この言葉と「心の清いものは幸いである。」は対立するように感じますが、そうではありません。むしろ心の貧しさのために色々なもので着飾るのではなく、もはや色眼鏡も何の誇るものも持たない者としての裸の自分自身を神は愛してくださる。この視野に立ち、イエス・キリストによって生かされることが「新しい革袋」となることであり、古い自分を打ち破られることであり、まさに「神を見る」ということなのではないだろうかと感じています。

まとめますが、私たちは憐れみ深い者ではありませんし、心の清い者でもありません。しかし、イエス・キリストこそが、私たちのところに来てくださっています。そのイエス・キリストこそが私たちを不安から解放し、私たちをそのままで「善し」とし、新しい関係へと導いてくださるのです。そのイエス・キリストこそが、私たちの平和の源であり救いなのです。
私たちは今しばらくの間、不安の時を過ごします。でも、イエス・キリストにあって、私たちは平和が与えられていることに心を留めて、今日一日、今週一週間を歩んでいきたいと思います。

〇祈り