本日、会堂での祈祷会は休止です。それぞれの場所で祈りの時をお守りください。
それぞれの心の平安のために、宣教をお読みいただければ幸いです。

宣教題:「わたしは「まことのぶどうの木」」【西脇慎一】

聖書個所 ヨハネによる福音書15:1-11 新共同訳

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

 

〇不安の中で、いつも心を留めていたいのは、神が共におられること

今日は2011年3月11日に起きた「東日本大震災」から9年目の記念日です。公式な追悼集会はコロナウイルスの感染防止のために中止されましたが、9年経ってもなお様々な痛みを抱えておられる方々がおられます。特に被災に遭われた方や大切な存在を亡くされた方々の上に主の慰めと平和を祈りたいと思います。私たちは共に主の御言葉に慰めを得て参りましょう。

今日の聖書個所は、過越祭の前日の夜、弟子たちに向けて語られた言葉です。十字架を意識したイエス・キリストは、まるで遺言のように「私の愛に留まりなさい」と弟子たちに語り掛けておられます。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(15:1-2)弟子たちはこの言葉をどのように聞いたでしょうか。「たとえみんなが躓いても、私は躓きません。」(マルコ14:29)と言ったペトロなら、「イエスさまの愛に留まり続けるのなんて簡単だ。私は実を結ばない枝ではなくいよいよ豊かに実を結ぶ枝だ」と思ったかもしれません。でも、そのペトロさえ、鶏が鳴く前に3度イエスさまのことを知らないと言ったのです。

でもイエス・キリストはそんなペトロを見放したわけではありません。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という言葉には、私たちがどのような状況にあろうとも、まずイエス・キリストが私たちに繋がってくださっているというメッセージが込められているのです。ヨハネ15章18節以降に「迫害の予告」が語られているように、翌日には十字架に即けられるイエス・キリストは、弟子たちがこれからどのような迫害の中を歩むのかを知っていました。私たちが頑張ろうとしてイエス・キリストの愛に留まり続けようとしても、なかなかそれが難しい状況がまもなく訪れるのです。でも、そんな弟子たちにイエス・キリストは、「まず、私があなたがたに繋がっているのだ。だから、安心しなさい。」ということを語っているのです。

「人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(15:5)と聞くと、私たちは不安になります。イエスさまは愛してくださっているけれど、それでは私はちゃんとイエスさまに繋がれているかと心配になるからです。自分が何もできていないのは、私がイエスさまに繋がれていないからではないかと思い悩むこともあります。確かに、私たちがイエスさまに繋がっているかということはとても大切なことです。でも、イエスさまに繋がるということは果たして何かの行いをしなければならないということなのでしょうか。むしろ、「私がいついかなるときもあなたがたに繋がっている」というイエス・キリストの御言葉を私たちが信じることがイエスさまに繋がるということなのではないでしょうか。

聖書教育によると「実を結ばない枝はみな父が取り除かれる。」という言葉は、上げる、支える、担ぐとも訳せるそうです。それならば、「実を結ばない枝はみな父が支えられる。」と読むこともできます。父なる神は、「3年間実をつけなかったいちじくの木を憐れみ、実を結ぶように努力をする園丁」(ルカ13:6-9)のように、私たちが良い実を結ばせるように私たちをあきらめることなく手入れして下さるのです。

ところで、イスラエルではぶどうは主要な作物の一つで、ワイン作りが盛んに行われていました。ぶどうの味を凝縮させるために欠かせないのは「剪定」だそうです。一つの房にうま味を凝縮させるために枝を切り落としていくのです。こうすると、おいしいワインが作れるようになります。でも、そのためには無駄だと判断された枝は、確かに炉に入れて焼かれてしまいます。

イエス・キリストは「わたしは『まこと』のぶどうの木」だと言います。普通のぶどうの木ではない「まことのぶどうの木」とは何でしょうか。私はこう思うのです。イエスさまの『まこと』のぶどうの木とは、剪定して刈り込むことをしなくても一つ一つの枝にそのまま最高の栄養が行き渡るぶどうの木のことなのではないでしょうか。それは、私たちが何をしたからということではなく、イエスさまが私たちに繋がってくださっているただその一点を信じることなのです。私たちは神の御言葉を信じた時に、私たちは迫害や災害の中にあったとしても、神の平安に生かされることになるのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)信じた時に、すべてのことは自分自身の出来事となるのです。

ところで、光の丘幼稚園の園庭に一本のぶどうの木が植えられていますが、ぶどうの木とは大木ではありません。むしろ、力を入れたらポキッと折れてしまいそうなほど細く弱い木に見えます。秋から冬にかけては葉っぱも落ちた様相を見ると、もしかしてもう枯れてしまったのではないかと思うほどです。でも、見えないところで、地中深くに根を張り、養分と水分を得ています。時を待って春夏が来れば葉が生い茂り、豊かな実を結ぶのです。

ぶどうの木の四季があるように、人間の生活にも四季があります。思ったように上手くいかないこともある中で、自分で頑張って疲れてしまうこともあるでしょう。自分の力ではどうしようもない出来事にも見舞われます。不安を感じます。でもそんな時こそイエス・キリストの伴いに、励ましと慰めを受けたいと思うのです。私たちに「平安あれ」と言ってくださることを共に感謝しながら、一日一日を歩んで行きましょう。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)

2020年3月11日祈祷会 「わたしは『まことのぶどうの木」 ヨハネ15章1-11