〇聖書個所 マタイによる福音書 13章44~52節

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 

〇宣教「あなたは畑の宝で高価な真珠!」

今日の聖書箇所は イエス・キリストの天の国の譬え話第4弾、しかもなんと四つの譬え話が連続しています。その内容は「畑の宝」と、「高価な真珠」、「網の魚」。最後に「主人の倉」の話です。この四つの譬え話はマタイ福音書だけにある話ですので、ここにはマタイが特別に伝えたいことが書かれていると思います。さて、それはいったい何なのでしょうか。じっくりと見ていきましょう。

まず、一つ目と二つ目の話はほぼ同じような内容として考えることができます。一つ目の「畑の宝」です。この畑と言う言葉はギリシャ語ではアグロスと言います。ちなみに、兵庫県下にアグロガーデンというお店がありますが、もしかして社長がクリスチャンでこの聖書個所から命名したのかなと思って調べてみましたら、なんと社長の名前が安黒さんでした。残念でした。話を戻します。ある人が畑の中に宝を見つけた。ところがその人は宝をそのまま誰にもわからないようにこっそり隠しておいて、誰にも気づかれない内にその畑を丸ごと買い取ってしまう。そしてその宝を手に入れるということです。豪快かつ賢いやり方だと思いますが、その宝を間違いなく手に入れるために手段を選ばない姿勢、しかも喜びながら帰りとあります。全財産をはたいても惜しいものではなかったことに、その畑の宝に対しての情熱が見えます。そのようにして手に入れたいもの、これが天の国であるということでしょう。

二つ目もほとんど同じです。ある商人が高価な真珠を一つ見つけた。そうしたら出かけていって自分の全財産を売り払ってでもそれを買い求める。その真珠を手に入れるためならば、これまでの自分たちの全てを投げ打っても惜しくない。それが天の国であるとイエスさまは言うのです。

ちなみに、神戸は世界的に見ても真珠の町として有名です。世界に流通する真珠の70%はこの神戸で選別加工されているようです。山本通の下のパールストリートには220社ほどの真珠関連業者があります。真珠は、今ではとても一般的な装飾品の一つでありますが、イエスさまの時代はとても高級な装飾品の一つであったそうです。その高級ぶりはどうだったかというと、なんと天然の真珠一粒に一つの小さな国を買えるほどの価値があったようです。こんなエピソードがあります。かの有名なエジプトのクレオパトラが、「世界で一番豪勢なパーティーを開く」と言って当時ローマの将軍であったアントニウスを招いたそうです。彼はローマ皇帝の候補者に選ばれたほどの大将軍ですから豪華なパーティーには慣れていたわけです。ところが、その時クレオパトラは耳につけていた真珠を外してワインビネガーに入れて溶かして飲んだそうです。これにはアントニウスもびっくりして、まさに世界で一番豪勢なパーティーであったと敬服したという逸話です。

殿上人の世界なので、私たちには実感としてはまったくわからないわけですが、確かにそんな価値があれば自分の全財産をかけても良いほどのビジネスチャンスになっていたものだと思います。つまり、この二つの譬え話で言いたいことは、天の国とは、自分が持っているものをすべて売り払っても惜しみないほどのものであるということ。そして、そのようにして手に入れた宝や宝石というものは、私たちがこれまでもっていた財産よりもはるかに尊いものであるということ。そして手に入れたものは、その価値を生み出し続けていくものであるということでしょう。

天の国がそんなものなら何としても手に入れたいと思うものです。しかしながら、それでも自分が持っているものをすべて売り払うということはかなり勇気のいることだと思います。非常にハードルが高いと感じます。これを思う時に、「イエスさまと金持ちの若者」(マタイ19:16-22)の話を連想します。イエスさまは永遠のいのちを得ることを求めて自分のところに来た若者に対し、「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから私に従いなさい」と言いました。これに対して若者は悲しみながら立ち去ったという話です。つまり、天の国、永遠のいのちがどんなに欲しくても、私たちにはこれまでの生活があり、そう簡単にはそれと引き換えにするということができない葛藤があるということです。

私たちはどうでしょうか。皆さんが自分の住んでいる家やその他財産を売り払ってでも畑の宝を買いなさいと言われたらどうでしょうか。これはなかなかに難しいお話だと思いませんか。実は、先週の礼拝の子どもメッセージ、使徒言行録5章の「アナニアとサフィラの話」を聞きながら考えていました。この二人は教会に捧げるために自分の土地を売りましたが、その値段をごまかして少しだけ自分たちの為に隠しておきました。ところが弟子たちはそれを見抜き、彼らの嘘が明らかになり、彼らは死んでしまったという話でした。この話を聞いた人たちは皆非常に恐れたと記されていますが、私もこの話を聞いていて、怖くなりました。そしてまさに自分に突き付けられる思いがしました。具体的に言えば、つまり自分はアナニアとサフィラにも及ばない者であると思うからです。

アナニアとサフィラはどれぐらい捧げたのでしょうか。どれくらい自分たちのためにとっておいたのでしょうか。1割でしょうか、それとも、3割くらいは取っておいたのでしょうか。わかりませんが、でもその残りの相当な金額を捧げたとのだと思います。それもしなさいと命令されたからではなく、自分たちが進み出た自発的な献金です。本来なら誰に何を言われる筋合いもありません。むしろすごいことです。振り返ってみて、私たちが今神様に捧げているものは1/10です。しかもそれも満足にできないような厳しい状況もあるわけです。しかしそれは仕方ないんじゃないでしょうか。確かにアナニアとサフィラは見栄を張って偽っています。でもそれが人間ではないでしょうか。自ら捧げたい思いは顧みられず、嘘だけが問題にされるのでしょうか、それが本当に罪とされるのでしょうか。

もし今日の三つ目の「網の魚」の譬え話のように、天の国が取捨選択されて良いものが入り悪いものが捨てられるということであればそういうことなのかもしれません。しかし、この譬え話は、以前お話しした「毒麦の譬え」と重ねて考えられるものです。つまり、私たちは自分自身が良い魚であり、悪い魚ではない前提で、自分の判断で他の人を裁いてしまうことがあります。ペトロはアナニアとサフィラをさばきました。このように人は自分の判断こそ正義だと信じ、完璧を求め、天国に入るためのステップとハードルを作ります。しかし、むしろイエス・キリストはそのような正義を語る人に裁かれ、罪びとの頭として人に捨てられた方であります。ですからイエスさまがこの譬えで言おうとしているのは、第一にはそれを判断するのは私たちではないということなのです。そうではなく裁きはいつか来る時に神に委ね、私たちは同じ一つの網に救われた魚として生きていこうということです。つまり、その網が天の国であるわけです。そうでないと、この三つの譬え話はすべて矛盾してしまうことになります。弟子たちはこの譬え話を聞いて「わかりました。」と言っていますが、本当にわかっていたのかは疑わしいものであります。何故ならば、弟子の筆頭たるペトロは、アナニアとサフィラを裁いたからです。

でも実は私は、そのように言ったのがペテロであるというところに少し安心するのです。それはイエスさまが言われたことではなかったということだからです。イエスさまならどうしたでしょうか。やはりペトロと同じように文字通り全部捧げなかったらダメだと言われたのでしょうか。それとも、「あなたの気持ちを受け取った。ありがとう」と言い、その人が自分のために隠しておいたことも許して、そして一緒に喜んで行ったのではないでしょうか。確かに「金持ちの若者の話」では、彼は諦めて帰りました。でもよくよく読んでみると、イエスさまはそれを全部捧げないといけないと言ったわけではありません。そこから離れていったのは彼自身での判断でありました。

もし彼がその場で、「私には無理です、それ全部はできません。しかしあなたに従っていきたいのです。」って食い下がったとしたら、イエスさまはどう言われたのかなと思うわけです。神の国はあなたがたに近づいたとはいうけれども、結局のところ私たちが悔い改めてない、方向転換ができていないと、やはり私たちは裁かれてしまうということなのでしょうか。確かに裁かれても仕方ない自分だとは思います。でも、イエス・キリストの愛は、そのいのちの限り、十字架にかけられるほどに私たちを愛しぬいてくださったその愛は、まさに十字架上で「主よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか、わからないのです。」と話されたように、罪びとたちへの憐れみに他ならなかったのではないかと思うのです。イエス・キリストの救いが無条件の救いであるならば、悔い改めと引き換えという条件付きであることはやはりおかしいと思います。

私たちはイエス・キリストの語る神の国を誤解してはならないのです。その国とは、私たちがどんな人間であろうと、一方的に向こうからこちらにやって来て私たちに開かれている神の国であるのです。そのように考えた時、私はもしかしてこの神の国というのは、イエス・キリストが私たちのために来てくださった。私たちを畑の宝、高価な真珠としてみてくださっていることなのではないかと思ったのです。私たちは自分たちが譬え話の登場人物であり、天の国を求めるためにすべてを捧げなければいけないと考えがちですが、むしろ神様の側から、「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」というイザヤ書の言葉のように、私たちが畑の宝でありそして高価な真珠ということなのではないかと思ったのです。そしてイエス・キリストはまさにそんな私たちを愛し、そのご自身の歩みをすべて捧げられたのです。まさに神は「その独り子をお与えになったほどに世を愛された」のです。

実はこの「畑の宝」の「宝」とはむしろギリシャ語では「宝箱」「宝物庫」であるので、それ自体と言うよりはその中身が大切です。もしかしてその宝箱とはその畑にいつかやってくる実り、種々様々な収穫というものであるとも考えられます。そして、実は4つ目の譬え話で登場するこの「倉」とは、ここで宝と訳されている宝箱と同じ言葉なのです。

最後にイエスさまは天の国を学んだ学者について話します。それは自分の倉、つまり宝箱から新しいもの、古いものを取り出す主人に似ていると言います。私はこれまで、この新しいもの、古いものとは網の魚のように選別して、新しいものを入れて古いものを捨てているような印象を受けていましたが、そうではないようです。これが「宝箱」であるとすれば、新しいものにも価値はありますが、古いものにはそれ以上の価値があるのが定番だと思うからです。そして実はこの学者とは律法学者のことであることを考えると、彼らの宝箱とは律法であり神の言葉であります。新しいものが福音だとしたら、古いものは律法であります。しかしそれは福音によって書き換えられるものではなく、完成させられるものであります。新しい神の言葉とそれより前の神の言葉、実は同じことが語られている。マタイが語ろうとしている旧約と新約の接点です。つまり、神のイスラエルへの選びは一方的であったということです。それが私たちに与えられている神の愛であり、神の知恵なのではないかと思うのです。

先ほど真珠は非常に高価なものだったということをお話ししました。聖書でも真珠は高価なものと認識されています。しかし実は真珠が出てくるときにはほぼ必ず比較の中で語られており、真珠よりも価値があるものが示されています。真珠より価値のあるもの、それは「知恵」です。つまり、神の知恵は人の知恵より勝るものであり、私たちはそれを自分たちで判断することはできません。まさに「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:9)であります。そして主がその知恵をもって示そうとしていることは、すべての者のいのちを無条件で愛しておられるということなのです。イエス・キリストはそのために十字架に至るまでにわたしたちを愛されました。私たちがどんな者でもそのいのちを守るものが主の知恵なのです。切り捨てるためのものではありません。神は私たちをまさに救わんがためにイエス・キリストを送られたのです。私たちはこれより主の晩餐式を守ります。私たちはこの福音、天の国が私たちに近づいているということを受け取り、私たちの応答として参りましょう。